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天才と秀才①

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「あ。先生おかえりなさい。試験監督の割り振りが来てますよ」
「ただいま、見せてくれる?」

 授業を終えて部屋に戻ると、バジルが書類と向き合っていた。ちらっと見ると経費の申請書らしい。教務助手はこうした細々とした事務を一手に担ってくれるので、教師としては非常に助かっている。アーサーの担当している術式解析論は、実験必須の薬学や魔道具分野に比べれば予算規模が小さいが、それでも教材や論文の購入でそこそこ費用がかさむ。
 アーサーは抱えていた教材類を置き、バジルの机へ向かった。

「はい、どうぞ……あれ、先生って指輪してましたっけ」
「う、ちょっと前からね。たまにはいいかなって」
「へぇ、いい色ですね」
「ありがとう」

 目敏い教務助手に、アーサーは曖昧に笑う。ちらりと手元に視線を落とすと、黄玉の嵌まった指輪が見えた。小さな丸い石が嵌まった銀色の指輪は、シンプルで品がいい。だが別にアーサーは自分自身の意思でこれを身につけているわけではない。

 ――先週、ジルベルトが来た。確かにあの夜言葉を交わした気はするが、夢だと思っていたからベッドから落ちるくらいに驚いた。そしてなによりこの指輪、もちろんこれもジルベルトが付けたのだろう。片想い相手からの贈物、しかし喜ぶには大きな問題があった。それは、この指輪が外れないということだ。
 そう、外れないのである。接着剤でくっつけたかのように外れない。引っ張っても回してもだめ。石も魔石のようで、魔道具の類であることは確実だった。軽く触ってみたが魔術式の読み取りを妨害する仕様のようで、さすがに起動する勇気はなかった。作ったのはこの規格外の魔術師だと考えると、部屋がぶっ飛んでもおかしくない。
 もちろん元凶を問いただしたが、ジルベルトは「外すな。なにかあったら使え」と言うばかりである。護身用の術の実験台にされているのかもしれない。外すなもなにも外れないのだが、それは。あともしかしなくても絶対に論文未発表の式だったりしないか。そんなものを軽々しく贈らないでほしい。
 とにかく不服な点はあるが、それ以来アーサーはこの指輪を着けて生活している。

「試験問題、作らないとなぁ……」

 受け取った通達をざっと一読する。後期末試験、とでかでかと書かれたフォントの下に、時間ごとの試験監督表が書かれていた。自分の担当クラスを眺めながら、アーサーはつい溜め息を吐いた。

「意外と先生ってこういうのぎりぎりですよね」
「もっと要領よくやれたらいいんだけどね。――バジルくん、お茶淹れるけど飲む?」
「あ、いただきまーす」

 課題やレポートはこつこつ早めに片付けるのタイプだったが、試験問題となるとあれこれ考えてしまって結局ぎりぎりになる。とくに去年は授業を担当するのも試験問題を作るのも初めてだったから時間がかかったものだ。あと何年かして仕事のルーティーンが定まれば改善するのかもしれないが。

 いよいよ定期試験が再来週に近づいている。学期に二度行なわれるそれは、学生たちにとって試練の場である。最近は放課後残って勉強する生徒たちがちらほら見えるし、質問にくる者もかなり増えた。ときおり山を張るために探りを入れてくる者もいるが、それは当たり障りなくかわしている。というか、そもそも問題ができていないので教えようもない。

 アーサーはカップと茶葉を出し、そうだと隣の戸を開けた。今日はアレがあるのだ。紐のかかった紙包みを取り出し、結び目をほどく。途端、ふわりと甘い香りが立ち上った。シフォンケーキ。今朝祖母から届いたものだ。
 包みの中にはメッセージカードがある。一読し、アーサーはふっと笑みを零した。見慣れた丸い字で書かれた体調を気遣う言葉に、あとで返事を書こうとポケットに入れた。

「いちおう骨子は去年のがあるから……あとは問題を変えるだけなんだけど、どうしようかなって」
「聞きましたけど、去年の問題が裏で回ってるらしいですよ」
「あ、やっぱり? そういうの今もあるんだ」

 アーサーの頃も先輩から連綿と受け継がれる試験対策集なるものがあった。アーサーはほとんど頼らなかったが、部活動や兄弟を通じて同級生がやりとりしていたのは知っている。

「先生はまだ二年目でデータが少ないから、対策しづらいらしいですよ」
「勉強したらそこそこ点数取れるように作ってるつもりなんだけどな……」

 カップに湯を注ぎながら、アーサーは溜め息を吐いた。誰もがこつこつと真面目に勉強できるわけじゃないことは重々承知だが、こう言われると教師としては微妙な気持ちになる。まさに去年アーサーの試験を受けていたバジルも「先生の試験って良心的なほうですよね」と笑った。

「はい、どうぞ」
「わ、ありがとうございます」
「ついでにこっちも」
「あっシフォンケーキ」

 はしゃいだ声に、アーサーもつられて笑った。

「うちのおばあさまが送ってくれたやつだよ。あと何切れかあるから」
「やった」

 バジルが手を叩く。彼はいそいそと書類を脇にやり、フォークを手に取った。

「おれ、先生のおばあさまのお菓子好きです。いつもおいしいですよね」
「本人にも今度伝えておくよ」

 アーサーも自分の席に着く。忘れないうちにと祖母のカードをポケットから出し、机に置いた。そうして紅茶を一口飲み、シフォンケーキを口に運ぶ。ふんわりと舌の上で溶ける食感と甘味は、おやつの時間に食べた思い出のままだ。

「で、試験の話ですけど。おれは先生の問題、けっこう好きでしたね」
「へぇ、そうなんだ?」

 珍しい。思わず顔を上げると、バジルもフォークでつつくのを止めた。

「ほら、先生の試験って問題が紙を跨がないじゃないですか。図表を見るのに紙をめくったりとか、前提条件のために別の紙見比べたりとか、そういう手間がないから助かります」
「……すごい、よく見てるね」

 アーサーはぱちぱち瞬いた。実は毎回気をつけている点だったのだが、まさか生徒に気づかれているとは思わなかった。
 バジルはフォークの先を軽く振る。

「逆です、逆。ほら、えーと……例えば近代魔術史の試験って文字資料も写真も多くてすぐ裏まで行くじゃないですか。いちいちめくるのが本っ当に面倒くさくてイライラしてて、で、その次の科目が先生だったから印象に残ってたんです」
「ああ、なるほどね」

 確かに近代魔術史のテストはそうだった。教官はアーサーが学生の頃からいるからわかる。そういえばそんな感じの試験問題だった。

「あの先生、昔からあんな感じだから」
「あーやっぱりそうなんですね。個人的に難易度はちょうどだったんですけど、あれだけどうにかしてほしかったです」
「資料が多いとそのへん難しいからね……」
「それはそうなんですけど」

 憮然とマグを傾けるバジルに、アーサーは笑った。

「でも、そういうところに気づいてもらえるの嬉しいな。けっこう気にしているところだから」
「先生の場合、普段の配布資料も見やすいです」
「よかった、そう言ってもらえると自信がつくよ」
「たぶんみんな思ってますよ」
「そうだったらいいなぁ」

 アーサーは紅茶をひとすすりし、積んでいた問題集をぱらぱらめくった。使えそうだと紐を挟んでいたページを開く。シフォンケーキを一口食べ、また紅茶を含んで。そうしてシフォンケーキが半分なくなったところで、ノックの音がした。アーサーは口の中のものを慌てて飲み込み、「どうぞ」と答える。
 現れたのは、最近馴染みになった顔だった。
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