わからないから、教えて ―恋知らずの天才魔術師は秀才教師に執着中

月灯

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教師の恋煩い①

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 翌日。疲労を訴える腰を押さえながら、アーサーは黙々と小テストの採点を片付けていく。一クラス終わったところで、腰を伸ばしてマグを手に取った。少し冷めてしまっているが、猫舌のアーサーにはむしろちょうどいい。舐めるように一口飲み下し、息を吐いたところでノックの音が響いた。

「はい、どうぞ」
「失礼します」

 ひょっこり顔を覗かせたのは、教務助手のバジルだった。扉が閉じると同時、ミルクティー色の猫っ毛が揺れる。かっちり着込んだジレと糊のきいたシャツは、その真面目さを表しているようだ。今年からアーサー付きになった彼は、新人とは思えないほど折り目正しいしっかり者である。そして去年までこの学院の生徒でもあった。

「先生、教頭から伝言です。明日の職員会議は一刻延期、五の刻からだそうです」
「わかった。ありがとう」
「どういたしまして。壁に書いておきますね」
「うん。よろしく」

 バジルはすたすたと壁へ歩み寄り、黒板に書かれた予定を修正した。一月ごとにまとめられたそれらは、情報が行違うのを避けるためのものだ。こつこつとチョークが石板を叩く音を背後に聞きながら、アーサーはカップのふちを撫でた。陶器ごしにじんわりと熱が伝わり、柑橘の香りがうねるようにのぼる。その香りからふと昨日の情事が蘇り、アーサーはかっと耳を熱くした。耳元で名を呼ぶ声はまだ記憶に新しい。アーサーは慌てて首を振った。いまは業務中だ。

「あ、先生」
「うっ、うん。どうしたの」

 バジルの声に慌ててカップを置く。戻って来たバジルは積み上がった小テストの束に触れ、ぱらぱらとめくった。

「この山、終わったやつですよね? 入力しておきます」
「ありがとう。助かるよ」
「まぁ、そもそもおれの仕事ですからね。これ」

 バジルは頷き、引き出しから記録用紙を引っ張りだした。毎回の小テストの点数を生徒ごとにまとめたそれは、学期末の成績評価には欠かせないものである。こうした細々した事務が教務助手の仕事だった。なんなら教師によっては、小テストの採点ごと丸投げする者もいる。その点、アーサーはちょっとばかり仕事を抱え込むきらいがあり、「おれの仕事取らないでください」というのが近頃バジルの口癖になりつつあった。

 カリカリとペン先が紙をひっかく音が響く。アーサーの目の前の紙束が半分を割り、バジルの後処理がほぼ終わる頃、外で夜来鳥が一声鳴いた。もうすぐ日暮れが近いのだ。

「そういえば紅茶、珍しいですね」

 最後の生徒の点数を書き終えたバジルが顔を上げた。アーサーはその視線を追いかける。

「ああ、これ?」
「はい。先生はいつもイェイラじゃないですか」

 イェイラはポピュラーな茶葉だ。香りにも味にも癖がなく、値段も手頃。茶道楽はあれこれこだわるようだが、アーサーは飲めたら気にしない。

「柑橘の香りがします。いい香りですね」
「バジルくんはこういうの好き?」
「そうですね、割と」

 バジルは目を伏せ、匂いを嗅いだ。オレンジかな、と呟く彼に「正解」と告げる。彼の言う通りオレンジの皮を混ぜているらしい。ナイフで実を切りわけたときのような、少し酸っぱい香りがする。こうした茶葉は最近出てきたものらしく、変わり種だが人気はあるらしい。

「……この茶葉、あげようか」
「えっ、いいんですか? 先生のでしょう、これ」
「そうだけど、ね。うーん、あまり好みではなくて……」

 改めてアーサーはまじまじとカップを見る。すっかり冷めてしまった赤い水面に、己の顔が映っていた。爽やかな香りも甘口な味も好きな人には堪らないだろうが、正直アーサーの好みではない。

 ……まったく、飲みたいと言うから買ったのに。

 あっさり飽きた、と言ってのけた魔術師が脳裏に浮かぶ。こうして気まぐれな彼の元好物を処理するのも何度目だろうか。

「好みじゃないのに、わざわざ? 貰い物ですか」

 案の定バジルが首を傾げた。アーサーは苦笑を返す。

「買ったはいいけど好みに合わなくてね。もったいないし、もらってくれるなら助かるかな」

 立ち上がり、棚からオレンジの意匠の缶を取り出した。まだ真新しいそれはほとんど中身が減っておらず、ずっしりと重い。手渡すと、へぇとバジルが眉を上げた。

「結構入ってますね」
「まぁほとんど飲んでないからね」
「本当にいいんですか? これ、片想いのあの人のために買ったんでしょう?」

 突然投げつけられた言葉に、アーサーは言葉を失った。

「あ、やっぱりそうなんですね」
「ど、どうして」
「だって首に痕残ってますよ」
「えっ嘘」
「はい嘘です」

 咄嗟に首筋を押さえたアーサーに、バジルがしてやったりと笑う。深いチョコレート色の眸がいたずらっぽく輝いた。真面目できちんとした教務助手は、しかしちょっとばかりいい性格をしている。年が近い気安さもあるのだろうか。
 バジル・ティリッジは、アーサーにセフレがいる――そしてはその相手に片想いしていることを唯一知っている人間だ。教えたわけじゃない。持ち前の勘の鋭さで言い当ててきたのだ。
 今回もまた図星を突かれたアーサーは、居たたまれない気持ちで目を逸らした。だがバジルは容赦ない。

「で、本当におれもらっちゃっていいんですか? 先生はともかく、相手が飲むでしょう」

 アーサーは観念して息を吐いた。

「……飽きたらしい」
「うわひどいですね。こんなに残ってるのに」

 容赦がない。だがそれはそうだ。アーサーも実際ひどいと思う。封を開けてから一杯飲んだかどうかだ。

「それはいつものことだから、うん。だから押し付けるようで申し訳ないけれど、もらってくれると嬉しい」
「なるほど、そういうことならいただきます。ありがたく」

 バジルが缶を軽く振る。そのまま蓋を開けた彼は、いい香りだと頬を緩めた。

「ちなみに、昨日来てましたよね?」
「うん。よくわかったね」
「まあ雰囲気で」
「雰囲気?」
「なんか事後っぽいなって」
「嘘でしょ」
「嘘です」

 バジルはしれっと頷いた。

「でも、ちょっと雰囲気が気怠げので。いつもと違うな、ああそういえば昨日は午後休みだったな、と思ってカマかけてみました」
「そ、そうなんだ……」

 鋭い。アーサーは舌を巻いた。気をつけようと内心戒める。
 アーサーは、休日の午後には予定を入れない。休日とはいっても、あくまで授業がないだけで自習をしている生徒はいるし、時期によっては昨日のように課外授業もある。
 だが、アーサーは頑なに午後だけは予定を空けていた。名目上は研究のためだが、実際はジルベルトが来るからにほかならない。とはいえジルベルトはあの性格だから来ないことも多く、たいていは名目通り研究に費やしている。おかげで先月にはさっそく今年一本目の論文が書き上がってしまった。
 そんなななか昨日の来訪は、実にひと月ぶりだった。
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