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魔術師と教師①

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 学生時代のあだ名は「先生」だった。

「先生!」

 背後からかけられた声に、アーサーは足を止めた。ぱたぱた歩み寄ってきた生徒は「すみません、ここがわからなくて」と持っていた教科書のページを指す。さきほど駆け足で説明してしまったところだ。

「ああ、これはね」

 アーサーはひとつ頷いて解説を始めた。次回は最初にここの復習をしよう、と心に書き留める。

「……あ! わかりました」
「よかった」

 アーサーが微笑むと、女子生徒は頭を下げた。

「ありがとうございました」
「どういたしまして」

 ぱたぱたと己の席に戻っていく生徒を見送り、他の生徒が話しかけてこないことを確認する。そして今度こそアーサーは教室を出た。休日課外は通常授業より休み時間が短い。案の定外で待っていた近代魔術史の教師に会釈し、アーサーは足早にその場を去った。

 アーサーは魔術学院の教師である。といってもまだ二年目の新米で、制服のローブを着てしまえば学生と言っても通るだろう。
 アーサーは学生時代から秀才だった。一を聞いて十を知るような要領の良さはなく、堅実に一を積み重ねて己の知を肥やしてきた。だからだろう、昔から他人がどこで詰まっているのか、その躓きを越えるにはどうすればいいのか見当をつけるのが得意だった。初めは仲の良い友人の相談に乗っていただけだったが、いつのまにか評判になり、「先生」とあだ名がつくようになった。
 そんなアーサーが教師を目指したのは、ごく自然な成り行きだった。学院時代の同級生からは、本当に「先生」になったぞと笑われるが、アーサーは教職こそ己の天職だと考えている。






「ジルベルト」

 教科準備室兼私室に戻ると、すでに客がいた。しかしアーサーに用事がある教員でも、質問に来た生徒でもない。そもそもそういう人なら主が不在の部屋に無断で入らない。そもそも鍵をかけているから普通なら入れないわけで。
 ソファで寝そべっているのは、黒髪も艶やかな男だった。顎のあたりで揃ったまっすぐな毛先と、ローブの上からでもわかるしなやかな体躯。吊り気味の目元も相まって、猫がくつろいでいるようだった。名をジルベルト・オーウェンという。

「……ん、ああ。戻ったか」

 彼は読んでいた分厚い本から視線を上げた。それはこの前アーサーが取り寄せた稀覯本で、他国の術式を知る重要な一冊である。それをソファにごろりと転がって読みふける姿は、まるで部屋の主になったかのようだ。そんな彼は教材を抱えたアーサーを眸に映し、唇をやや尖らせる。

「遅い。この時間ならいると言った」
「生徒の質問を受けていたんだよ」

 実際、必ずいるとは限らないぞ、と伝えたはずだ。なのに部屋へ押し入ってくるなんて、この男ときたら……いや、そもそもこの男は転移魔術で直接やってくるのだ。鍵もへったくれもなかった。
 文句を諦めたアーサーは、奥の戸棚を開く。失礼な来客とは言え、茶くらいは出さねばなるまい。マグカップを二つ出し、ティーバッグの缶を開ける。先月買ったティーバッグは果物の皮が入っていて、茶葉に混じって柑橘の香りがした。
 ポットから湯を注ぎ、アーサーはジルベルトの前にマグを置く。

「それで今日はどうしたんだ、ジルベルト」

 ジルベルトはゆっくりと本から顔を上げ、黄玉の眸を瞬かせた。





 ジルベルトは、学院時代の同級生だ。アーサーは秀才だったが、ジルベルトはそれこそ天才だ。一を聞いて十を知るどころか百や千を知り、入学早々にほとんどすべての教師に教えることはないと言わしめた。

 人間、圧倒的な差の前にはもはや嫉妬も抱かない。ジルベルトは魔術の才もさることながら高位貴族の生まれで、容姿も端麗だ。女神に二物も三物を与えられた彼は、世の不平等の象徴ともいえる。おかげで授業にろくに出ず図書館に籠りきりでも、中庭や温室で昼寝をしていても、人々は孤高だとほめそやし称えた。もちろん、そのそっけない態度や家格の高さを恐れる者もいたけれど。
 アーサー自身、彼と特に関わりはなかった。同級生のよしみで多少言葉を交わしたことはある。しかし、こうして卒業後も会いに来られる覚えはなかった。なんでこうなったかな、と目の前で紅茶をすするジルベルトにしみじみと思う。
 ひとくち飲んだジルベルトが、眉をひそめてマグを置いた。

「……この茶葉、嫌だ」
「この前はこれがいいと言っていなかったか」
「飽きた」

 悪びれず言うジルベルトにアーサーはため息を吐いてやおら立ち上がった。棚を開いて茶葉を引っ張り出す。とはいっても、普段アーサーが使っているイェイラという銘柄しかない。

「イェイラしかないよ」
「ああ」
「それから、次から飲みたいものは自分で持ってきなさい」

 そう言うと、ジルベルトはわかったと素直に頷いた。
 ジルベルトは、アーサーが想像していたより取っつきの悪い男ではなかった。ただ少々、いやかなり自由なところがある。ついでに食の好みもすぐに変わる。
 これが好きだ、と言われて用意していた食材が無駄になったことは数知れなかった。この茶葉もアーサーが片付けることになるのだろう。

 ジルベルトが来るのは不定期だ。一週間ほど連日で現れることもあれば、半年くらいぱったり来なくなるときもある。今日の訪問もひと月ぶりだった。そんな男のためにわざわざ茶葉などを用意している自分に気づいて、ふとアーサーはなんとも言えない気持ちになる。
 どうやらジルベルトは己に懐いているらしい。その心当たりはまったくないのだが、普段のジルベルトは塔にこもりきりで人付き合いもないというから、こうして特定の相手のところに通うのは異例に違いなかった。
 そのことに優越を覚えないと言えば嘘になる。誰かに自慢のひとつもしたくなる。

 だがそうしないのは、口外したら二度と来なくなる気がするからだ。わざわざ彼が会いに来る理由は知らない。しかし、アーサーはとにかくこの機会を失いたくなかった。だから黙って部屋に彼の好物を用意し、興味を引きそうな本を揃える。そうして今度いつ来るかもわからない、そもそも再び訪れるかも知れない魔術師を待っている。

「やっぱり、紅茶はいい」

 後ろにひたりと気配が立った。大きな掌がアーサーのそれを覆い、開けかけた紅茶缶を密閉する。

「アーサー」

 ――来た。
 耳を食まれる。鋭く硬質な歯がぐっと押し当てられた。ぎりぎり痛みにならないラインをジルベルトはよくわかっている。缶を置いた手が、やおら腹に回った。身体のかたちを確かめるように動き、サスペンダーの留具を外す。その意図するところは明らかだった。ジルベルトは断られるなんて微塵も思っていないし、実際アーサーは断れない。

「あ、」

 重なった掌を扉に、魔力の境界が溶けた。流れ込んできたジルベルトの魔力がアーサーのそれに混じり、溶け込む。代わりにアーサー自身の魔力も相手に引きずられるのがわかった。相性がいい者同士の魔力は、ときに性的興奮を催すという。だから魔力の交換は慎重に行うべき……という御託はおいて、アーサーとジルベルトはまさにその相性のいい者同士だ。強めの酒を一気に呷ったときのように身体が火照ってくる。シャツをたくし上げるように腹を大きな掌が撫で上げた。それだけでずくずくと疼きが走って、アーサーは唇を噛んだ。
 恥ずかしいのは、その変化はそのままジルベルトに伝わっているということだ。アーサーが抗わないとみると、抱き寄せる力が一気に増す。くるしいと言えば多少緩むが、やっぱり強い。

「アーサー」
「ちょ」

 すんすんと首元を嗅がれて慌てた。離れようとしたがびくともしない。塔にこもりきりのくせにこの腕力はなんだ。

「こら、シャワー浴びてないのに」
「ぼくは気にしない」

 アーサーは気にする。今日はかなり暑かったのに。
 制止もむなしくジルベルトは耳の下に顔を埋め、鼻を擦りつけてくる。すうぅ、と吸い込む音に羞恥が募った。湿り気のある感触が肌を這って、思わず肩が震える。ひっ、と変な声が漏れた。

「……」

 一瞬動きを止めたジルベルトは、おもむろにアーサーの下腹へ手を伸ばした。器用にベルトを外し、下衣を下ろしていく。アーサーの雄が既にもたげているのを確かめ、彼は小さく吐息を漏らした。こういうことをするのは一度や二度じゃないのに、興奮の証を突きつけられるたび消えてなくなりたい気分になる。
 ジルベルトが口の中で呪文を唱える。直後腹の中がぐるりとうごめいた。排泄感に似ているが、漏れているわけではない。男同士が交わるための洗浄術だ。沫のようなものが腹のなかに溢れて、ふやかしていくのがわかる。そして数瞬後には溶け消えて、ただ熟れきった後孔のみが残った。
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