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俺は明日結婚する。姉の恋人だった人と
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ベッドに寝っ転がりながらスマートフォンをいじっていれば、唐突に部屋のドアが開いた。
いつものこの時間だったらヘッドフォンをしながら本格的なゲーミングPCに向かっているが、今日はスマートフォンだったのですぐに反応できた。
「なに?」
ドアの方を見ずに声だけかけると、案の定相手は姉で。そしてずかずかと勝手に入り込んできた。
「陽介、入っていい?」
「入る前に訊いてくれよな」
「この部屋もすっきりしたわねー」
自分のツッコミをさくっと無視した姉の友里恵は、物がほとんどなくなっている部屋を見まわして、感慨深げにうなずいている。
明日、俺は結婚する。そして24年暮らしていたこの家を出ていく。
所狭しと置いてあった家具や本などは、もうあらかた処分していた。
あんまりなんでもかんでも捨てられると寂しいからと母に言われ、ベッドは置いていくことにしたがここに帰ってきたとしても、きっと寝ることくらいしかできないだろう。
椅子すらなくなっているこの部屋で、友里恵は勝手に俺のベッドに上がってくる。
枕をまるでぬいぐるみのように抱きしめている仕草は、四半世紀以上生きている大人の女性と思えないくらい、昔のままで。
しかし姉は他者からはクールビューティーという評価を得ているようだ。見た目だけで評価するとそうなるだろう。
姉のこういうところを、知ってる人が他にいるかどうかは知らない。きっといないのだろう。彼氏がいないのを知っているし。
姉は睨むように自分を見つめていたかと思うと口を開いた。
「……わかっていると思うけれど、絶対にあのこと、遥香には内緒だからね」
「ああ」
そんなこと、念を押されなくてもわかってる。
そして、具体的に言われなくても何を友里恵が言いたいのかわかっていた。
遥香……それは俺の婚約者の名前。
遥香は姉貴の後輩でもあって親しくしている子だったから気になったのだろうか。念を押す姉貴に俺は黙ってうなずいてみせた。
「わかっている。この秘密は墓下まで持っていくつもりだから」
そして、俺は遥香と幸せな未来を作るんだ。
そう頷いてみせたら、姉は安心したように、ほっと息を吐いた。
遥香のもう一つの顔は『サニー』という。
そして『サニー』は、姉の恋人だった。
* * *
「私の代わりに“サニー”さんとオフで会ってほしいの!」
あの日も、久しぶりに俺の部屋に足を運んだ姉は、唐突に入ってくるなり、お願い! と拝んできた。
そんな友里恵に対して『何を言っているかわからない』という顔で見るのは当然だったと思う。
彼女の話をわかりやすく言うと、姉の代わりに替え玉として誰かに会ってほしいと言ってるだけのことだった。
その相手は彼女がいつもゲーム上で会っている女性プレイヤーらしいのだが。
姉が何やらオンラインゲームにはまっているのは知っていた。
それに対してつべこべ言うような立場に俺はいない。俺だってゲーマーだったのだから。世間一般から見たら、どっちもどっちという感じなのだろう。
俺の方はネットでゲームをするが決してつるまず、お互いを銃で撃ちあうようなサバイバルゲームを好み、彼女がするようなオンラインで知り合った人間と一緒にパーティーを組んだりモンスターを仲良く倒しにいったりするようなものではない。
ぼっちの自分はあくまでもソロプレイ。
陽キャな姉はネットの世界でも陽の者のようだ。
だから、そんな自分は現実の世界でもオンラインで知り合った誰かと会ってお話をしたいという気持ちをまるでわからなかったが。
「なんで姉ちゃん、自分で行かないんだ?」
素朴な疑問はどうしても湧き上がる。
「私、男キャラでやってるのに、中身がこんな華憐な女性だなんて、イメージ丸崩れでしょ?」
妙にくねくねしながら目をそらしている友里恵。それは幼い時から変わらない、何か隠し事をしている時の姉の癖だ。
「二十五歳の女に誰も可憐さを求めないだろ……」
「うっさい」
別にイメージなんか誰も気にしないと思うのだが。
いわゆるネカマとかネナベといわれるように、オンライン上で動かしている人とは違う性別のキャラを操作することだって珍しくないはずだ。
自分だって、ゲームで女性キャラを使用していることもある。
だって、プレイしている後ろ姿がおっさんより、可愛い女の子の方がいいし。
どうせならこれを機会にオフ会で事実をカミングアウトしてくればいいのに。
姉は弟から見ても、結構美人だと思う。
艶やかな長い黒髪に白い肌。アーモンド型の目は理知的で。中学から弓道で鍛えている体は姿勢よく、きりりとしている。
そんな彼女が恰好いい男性キャラをしていたなんて、意外にギャップ萌えと好感度が上がるのではないのだろうか。
そう思うのに姉はいやいや、と手を横に振る。
「私、リアルでも男だって言っちゃってるのよ」
「なんでそんなウソを!?」
「女とばれると面倒なのよ、あのゲーム……」
確かにそれは聞いたことがある。
同じゲームの界隈でも女性プレイヤーを狙ってセクハラをするプレイヤーがいるというのは珍しくない話だ。
オフでやりとりしてトラブル発生というのも聞く。
「古参プレイヤーとして初心者の女の子たちを守ってあげたかったし」
なるほど、わかるわかる、と頷いていたが。
「それに、女の子可愛くて、優しくするの口説いてるみたいで楽しいんだもの」
……最低だった。しかし、なんで自分に頼んでくるのだろう。
姉が知っている存在の中で、自分なんて一番不適格な存在だとわかっているだろうに。
着古したスエットの太腿の上で、ぎゅっと自分の拳を握る。
長く伸びた前髪が頬にあたるのが邪魔で後ろにかきあげた。この髪の毛も最後に切ってから何か月経っていただろうか。我慢しきれなくなって洗面台でセルフカットをしているからひどいものだが。
いわゆる自分は引きこもりだ。
家族が引きこもることを許してくれているからこそ、この狭い世界の中で生きていけるだけの存在。
金はかろうじて稼いではいる。今の時代はパソコンさえあればできる仕事もあるから。
しかし、外界に出されたらきっとそのまま死ねる気しかしない。
こんな自分に、どうして姉はこんな頼み事をしてきたのだろうか。
「会わないでドロンしちゃえばいいじゃん。ゲームもやめてさぁ」
「嫌よ! 私がキャラを育てるのにどれだけ時間と金をつぎ込んだと思ってるの?! それに……どうしてもって言われたら断れなくてさぁ……」
弱りはてたような顔を見て、なんか納得してしまった。
ああ、お人よしな姉貴らしい。
しかし、男だと思っていた人が女だったら、相手はもっとショックを受けるのではないだろうか。
本当に相手のことを思うのだったら、なんと言われようと断るべきだったのに。
そうお相手に同情をしていたのだが。
「なんでも買ってあげるから!」
そう言われて、ぴくっと眉が動いた。
そして俺もお人よしだ。というか、姉に対して頭が上がらないといっても過言ではない。あと万年金欠で欲しいものがたくさんある。
「よし、新しいグラボで手を打つ」
グラフィックボード次第でオンラインゲームの操作性は相当変わる。しかもいいものは6桁以上は余裕でするのだ。
「随分吹っ掛けてきたわね! いいわ。手を打つ」
苦々しそうな顔をするかと思ったが、姉はどこか晴れやかな顔をして手を伸ばしてきた。
パン!と二人の手が合わさった。
俺のおねだりを断るつもりはないらしい。さすが高給取り。こう見えても友里恵は大企業で働いている。そんな彼女がなんでいまだに実家にいることを選んでいるのかわからないのだが。
独り立ちするのに十分な額の給料はもらっているはずなのに。今は貯金にいそしんでいるのだろうか。
もしかしたら、弟の自分の存在を放っておけず、家にいるのかもしれない、ふと、そう思った。
同じ小学校に通っていた頃から優秀だった姉は、中学からは私立に通って、自分は公立に進んだ。
自分は中学でつまづいて通え切れなくなって、そのまま外に出られなくなってしまった。学校だけは通信で高校も大学も通ったけれど。
そんな自分を姉も両親もただ、見守っていてくれた。
ネットの世界だけでもいいから外と繋がるように、と無理して外に引きずり出すようなことをせずにいてくれたのがありがたくも暖かくて。
だからこそ、彼女が自分にしてくれたことの恩くらいは返したい。
彼女はそんなことを、感じてすらいないかもしれないのだけれど。
「俺はどんなキャラを使ってることになってるんだ?」
友里恵のパソコンの画面を見ながら、フルーツプラネットを立ち上げる。
説明を聞かなくてもオンラインゲームは大体どこもログイン画面は一緒である。
ログインをして、友里恵の使用キャラを見て、けっと毒づきたくなった。
自分の場合、ゲームの装備は実用中心で、見た目なんか考えたことはない。
しかし、姉のキャラクターを見たら、それ以外の何かを考えてメイキングしているということがわかる。それはお洒落感だろう。
無駄に色が統一していたり、スタイリッシュなアクセサリーを装備してたりして、男としてみるといけ好かないったらありゃしない。
「なぁ、このキャラメイク、俺に寄せてない?」
「そう? デフォルトが似てたんでしょ」
気のせいか、と思いながら、今度会う予定の子とのチャットログを見る。
ダイレクトメールみたいな場所で、二人きりでやり取りをしているのだけれど、その量が半端ないし、他人の私信を覗きをしているみたいで心がモゾモゾしてくる。
あとバカップルのいちゃつきを延々と見せられているようなのもイライラする。
「一応二人のチャットログは取り出せるだけ取り出したから、読んでできるだけ覚えて!」
そうは言われても……。
文章を読むのは嫌いではない。しかし興味がないからめちゃくちゃ目が滑る。
覚えるもなにも、姉の持ちキャラ『ロード』と、お相手のサニーとの会話で実りある部分というのがまるでなくて。しかし、なんとなく流し見ていたロードのプロフィール欄を見て目が点になった。
「人の個人情報さらすなよ!」
「特定できるような内容じゃないわよ。モデルいるとリアリティ出てくるからさぁ」
「誕生日とかまんまじゃん!」
むしろ、年齢や誕生日設定が必要なゲームがあるというのも驚いたのだが。
ついでに知らない設定に対する説明も求める。
「恋人ってあるけど、なんなのこれ」
「恋人の証という名前の指輪が装備できるのだけれど、バグなのか、複数人からも指輪を受け取れることができるのよね。あるいはハーレム願望をかなえるとか?」
恋人が複数いたら修羅場なのではないかと思うが、やはりゲームの世界はアバウトなようだ。
「じゃあ、サニーさんが恋人ってこと?」
「恋人の一人、になるのかな? くれるというものはもらうことにしているから、そうなってるなら、サニーさんも恋人なんだと思う。こちらからお返しに、と同じ指輪を返せば結婚関係になるらしいけれど、指輪を返したことは一度もないわ。もらう専門アイテムね」
姉の口ぶりからすると、他の人からも指輪をもらっているらしい。リア充すぎて怖い。
リアルだったら、いつか刺されてしまいそうだが。
そして今の言葉でわかった。姉はこの世界でものすごくモテているのだということに。
姉たちがやっているフルーツプラネットは結婚システムがあり、恋人関係から結婚もして、一緒に家を買って暮らすこともできるようだ。
まだ恋人段階であって、結婚にはいたってないらしいけれど。
恋人までは複数作れても、さすがに結婚は一人としかできない仕組みなようで。深入りはしないで、ライト感覚で楽しむ……そのあたりの距離感はさすが姉だろう。
ううむ、と眉を寄せて読んでいたら、姉に髪の毛を引っ張られた。
「知らない人に会うなら、その身なり、なんとかしなさいよ」
それが社会のマナーよ、と言われたらぐぅの音も出ない。
今の自分の顔を見て、昔のクラスメイトだとしても、自分だと気づける人がどれだけいるだろうか。
オンラインで依頼を受けるにしても、全部メールで済ませている自分は、人間社会の中で生きていないと思わされる。
文章だけで済ませられる社会では、マナーも全てどこかからコピーしてきたパターンを改変して、ペーストするだけでいいのだから。
建前だけの敬意と、見せかけの愛想。それでもなんとかなったのに。
「美容室、行かなきゃダメかな……」
想像するだけで冷や汗が出てきて、指先が冷たくなってきたのがわかる。
そんな自分の様子を見て、姉がため息をついた。
幸い近所に訪問で髪を切ってくれる美容室があり、髪を切ってもらうことになったのだが。
本格的に外に出る前に、知らない人と話すのなんて、人生の中で久しぶりすぎた。
この程度ならちょうどいいリハビリだったかもしれない。
こんな調子で知らない人と二人きりで話せるのだろうか。
どうせだったら二人きりではなく、グループで会うようなオフ会にしてほしかった。
はっきりいって想像しただけで逃げ出したい。
しかし、グラボが俺を待っている。
それだけを合言葉に、俺は試練を乗り切ろうとしていた。
いつものこの時間だったらヘッドフォンをしながら本格的なゲーミングPCに向かっているが、今日はスマートフォンだったのですぐに反応できた。
「なに?」
ドアの方を見ずに声だけかけると、案の定相手は姉で。そしてずかずかと勝手に入り込んできた。
「陽介、入っていい?」
「入る前に訊いてくれよな」
「この部屋もすっきりしたわねー」
自分のツッコミをさくっと無視した姉の友里恵は、物がほとんどなくなっている部屋を見まわして、感慨深げにうなずいている。
明日、俺は結婚する。そして24年暮らしていたこの家を出ていく。
所狭しと置いてあった家具や本などは、もうあらかた処分していた。
あんまりなんでもかんでも捨てられると寂しいからと母に言われ、ベッドは置いていくことにしたがここに帰ってきたとしても、きっと寝ることくらいしかできないだろう。
椅子すらなくなっているこの部屋で、友里恵は勝手に俺のベッドに上がってくる。
枕をまるでぬいぐるみのように抱きしめている仕草は、四半世紀以上生きている大人の女性と思えないくらい、昔のままで。
しかし姉は他者からはクールビューティーという評価を得ているようだ。見た目だけで評価するとそうなるだろう。
姉のこういうところを、知ってる人が他にいるかどうかは知らない。きっといないのだろう。彼氏がいないのを知っているし。
姉は睨むように自分を見つめていたかと思うと口を開いた。
「……わかっていると思うけれど、絶対にあのこと、遥香には内緒だからね」
「ああ」
そんなこと、念を押されなくてもわかってる。
そして、具体的に言われなくても何を友里恵が言いたいのかわかっていた。
遥香……それは俺の婚約者の名前。
遥香は姉貴の後輩でもあって親しくしている子だったから気になったのだろうか。念を押す姉貴に俺は黙ってうなずいてみせた。
「わかっている。この秘密は墓下まで持っていくつもりだから」
そして、俺は遥香と幸せな未来を作るんだ。
そう頷いてみせたら、姉は安心したように、ほっと息を吐いた。
遥香のもう一つの顔は『サニー』という。
そして『サニー』は、姉の恋人だった。
* * *
「私の代わりに“サニー”さんとオフで会ってほしいの!」
あの日も、久しぶりに俺の部屋に足を運んだ姉は、唐突に入ってくるなり、お願い! と拝んできた。
そんな友里恵に対して『何を言っているかわからない』という顔で見るのは当然だったと思う。
彼女の話をわかりやすく言うと、姉の代わりに替え玉として誰かに会ってほしいと言ってるだけのことだった。
その相手は彼女がいつもゲーム上で会っている女性プレイヤーらしいのだが。
姉が何やらオンラインゲームにはまっているのは知っていた。
それに対してつべこべ言うような立場に俺はいない。俺だってゲーマーだったのだから。世間一般から見たら、どっちもどっちという感じなのだろう。
俺の方はネットでゲームをするが決してつるまず、お互いを銃で撃ちあうようなサバイバルゲームを好み、彼女がするようなオンラインで知り合った人間と一緒にパーティーを組んだりモンスターを仲良く倒しにいったりするようなものではない。
ぼっちの自分はあくまでもソロプレイ。
陽キャな姉はネットの世界でも陽の者のようだ。
だから、そんな自分は現実の世界でもオンラインで知り合った誰かと会ってお話をしたいという気持ちをまるでわからなかったが。
「なんで姉ちゃん、自分で行かないんだ?」
素朴な疑問はどうしても湧き上がる。
「私、男キャラでやってるのに、中身がこんな華憐な女性だなんて、イメージ丸崩れでしょ?」
妙にくねくねしながら目をそらしている友里恵。それは幼い時から変わらない、何か隠し事をしている時の姉の癖だ。
「二十五歳の女に誰も可憐さを求めないだろ……」
「うっさい」
別にイメージなんか誰も気にしないと思うのだが。
いわゆるネカマとかネナベといわれるように、オンライン上で動かしている人とは違う性別のキャラを操作することだって珍しくないはずだ。
自分だって、ゲームで女性キャラを使用していることもある。
だって、プレイしている後ろ姿がおっさんより、可愛い女の子の方がいいし。
どうせならこれを機会にオフ会で事実をカミングアウトしてくればいいのに。
姉は弟から見ても、結構美人だと思う。
艶やかな長い黒髪に白い肌。アーモンド型の目は理知的で。中学から弓道で鍛えている体は姿勢よく、きりりとしている。
そんな彼女が恰好いい男性キャラをしていたなんて、意外にギャップ萌えと好感度が上がるのではないのだろうか。
そう思うのに姉はいやいや、と手を横に振る。
「私、リアルでも男だって言っちゃってるのよ」
「なんでそんなウソを!?」
「女とばれると面倒なのよ、あのゲーム……」
確かにそれは聞いたことがある。
同じゲームの界隈でも女性プレイヤーを狙ってセクハラをするプレイヤーがいるというのは珍しくない話だ。
オフでやりとりしてトラブル発生というのも聞く。
「古参プレイヤーとして初心者の女の子たちを守ってあげたかったし」
なるほど、わかるわかる、と頷いていたが。
「それに、女の子可愛くて、優しくするの口説いてるみたいで楽しいんだもの」
……最低だった。しかし、なんで自分に頼んでくるのだろう。
姉が知っている存在の中で、自分なんて一番不適格な存在だとわかっているだろうに。
着古したスエットの太腿の上で、ぎゅっと自分の拳を握る。
長く伸びた前髪が頬にあたるのが邪魔で後ろにかきあげた。この髪の毛も最後に切ってから何か月経っていただろうか。我慢しきれなくなって洗面台でセルフカットをしているからひどいものだが。
いわゆる自分は引きこもりだ。
家族が引きこもることを許してくれているからこそ、この狭い世界の中で生きていけるだけの存在。
金はかろうじて稼いではいる。今の時代はパソコンさえあればできる仕事もあるから。
しかし、外界に出されたらきっとそのまま死ねる気しかしない。
こんな自分に、どうして姉はこんな頼み事をしてきたのだろうか。
「会わないでドロンしちゃえばいいじゃん。ゲームもやめてさぁ」
「嫌よ! 私がキャラを育てるのにどれだけ時間と金をつぎ込んだと思ってるの?! それに……どうしてもって言われたら断れなくてさぁ……」
弱りはてたような顔を見て、なんか納得してしまった。
ああ、お人よしな姉貴らしい。
しかし、男だと思っていた人が女だったら、相手はもっとショックを受けるのではないだろうか。
本当に相手のことを思うのだったら、なんと言われようと断るべきだったのに。
そうお相手に同情をしていたのだが。
「なんでも買ってあげるから!」
そう言われて、ぴくっと眉が動いた。
そして俺もお人よしだ。というか、姉に対して頭が上がらないといっても過言ではない。あと万年金欠で欲しいものがたくさんある。
「よし、新しいグラボで手を打つ」
グラフィックボード次第でオンラインゲームの操作性は相当変わる。しかもいいものは6桁以上は余裕でするのだ。
「随分吹っ掛けてきたわね! いいわ。手を打つ」
苦々しそうな顔をするかと思ったが、姉はどこか晴れやかな顔をして手を伸ばしてきた。
パン!と二人の手が合わさった。
俺のおねだりを断るつもりはないらしい。さすが高給取り。こう見えても友里恵は大企業で働いている。そんな彼女がなんでいまだに実家にいることを選んでいるのかわからないのだが。
独り立ちするのに十分な額の給料はもらっているはずなのに。今は貯金にいそしんでいるのだろうか。
もしかしたら、弟の自分の存在を放っておけず、家にいるのかもしれない、ふと、そう思った。
同じ小学校に通っていた頃から優秀だった姉は、中学からは私立に通って、自分は公立に進んだ。
自分は中学でつまづいて通え切れなくなって、そのまま外に出られなくなってしまった。学校だけは通信で高校も大学も通ったけれど。
そんな自分を姉も両親もただ、見守っていてくれた。
ネットの世界だけでもいいから外と繋がるように、と無理して外に引きずり出すようなことをせずにいてくれたのがありがたくも暖かくて。
だからこそ、彼女が自分にしてくれたことの恩くらいは返したい。
彼女はそんなことを、感じてすらいないかもしれないのだけれど。
「俺はどんなキャラを使ってることになってるんだ?」
友里恵のパソコンの画面を見ながら、フルーツプラネットを立ち上げる。
説明を聞かなくてもオンラインゲームは大体どこもログイン画面は一緒である。
ログインをして、友里恵の使用キャラを見て、けっと毒づきたくなった。
自分の場合、ゲームの装備は実用中心で、見た目なんか考えたことはない。
しかし、姉のキャラクターを見たら、それ以外の何かを考えてメイキングしているということがわかる。それはお洒落感だろう。
無駄に色が統一していたり、スタイリッシュなアクセサリーを装備してたりして、男としてみるといけ好かないったらありゃしない。
「なぁ、このキャラメイク、俺に寄せてない?」
「そう? デフォルトが似てたんでしょ」
気のせいか、と思いながら、今度会う予定の子とのチャットログを見る。
ダイレクトメールみたいな場所で、二人きりでやり取りをしているのだけれど、その量が半端ないし、他人の私信を覗きをしているみたいで心がモゾモゾしてくる。
あとバカップルのいちゃつきを延々と見せられているようなのもイライラする。
「一応二人のチャットログは取り出せるだけ取り出したから、読んでできるだけ覚えて!」
そうは言われても……。
文章を読むのは嫌いではない。しかし興味がないからめちゃくちゃ目が滑る。
覚えるもなにも、姉の持ちキャラ『ロード』と、お相手のサニーとの会話で実りある部分というのがまるでなくて。しかし、なんとなく流し見ていたロードのプロフィール欄を見て目が点になった。
「人の個人情報さらすなよ!」
「特定できるような内容じゃないわよ。モデルいるとリアリティ出てくるからさぁ」
「誕生日とかまんまじゃん!」
むしろ、年齢や誕生日設定が必要なゲームがあるというのも驚いたのだが。
ついでに知らない設定に対する説明も求める。
「恋人ってあるけど、なんなのこれ」
「恋人の証という名前の指輪が装備できるのだけれど、バグなのか、複数人からも指輪を受け取れることができるのよね。あるいはハーレム願望をかなえるとか?」
恋人が複数いたら修羅場なのではないかと思うが、やはりゲームの世界はアバウトなようだ。
「じゃあ、サニーさんが恋人ってこと?」
「恋人の一人、になるのかな? くれるというものはもらうことにしているから、そうなってるなら、サニーさんも恋人なんだと思う。こちらからお返しに、と同じ指輪を返せば結婚関係になるらしいけれど、指輪を返したことは一度もないわ。もらう専門アイテムね」
姉の口ぶりからすると、他の人からも指輪をもらっているらしい。リア充すぎて怖い。
リアルだったら、いつか刺されてしまいそうだが。
そして今の言葉でわかった。姉はこの世界でものすごくモテているのだということに。
姉たちがやっているフルーツプラネットは結婚システムがあり、恋人関係から結婚もして、一緒に家を買って暮らすこともできるようだ。
まだ恋人段階であって、結婚にはいたってないらしいけれど。
恋人までは複数作れても、さすがに結婚は一人としかできない仕組みなようで。深入りはしないで、ライト感覚で楽しむ……そのあたりの距離感はさすが姉だろう。
ううむ、と眉を寄せて読んでいたら、姉に髪の毛を引っ張られた。
「知らない人に会うなら、その身なり、なんとかしなさいよ」
それが社会のマナーよ、と言われたらぐぅの音も出ない。
今の自分の顔を見て、昔のクラスメイトだとしても、自分だと気づける人がどれだけいるだろうか。
オンラインで依頼を受けるにしても、全部メールで済ませている自分は、人間社会の中で生きていないと思わされる。
文章だけで済ませられる社会では、マナーも全てどこかからコピーしてきたパターンを改変して、ペーストするだけでいいのだから。
建前だけの敬意と、見せかけの愛想。それでもなんとかなったのに。
「美容室、行かなきゃダメかな……」
想像するだけで冷や汗が出てきて、指先が冷たくなってきたのがわかる。
そんな自分の様子を見て、姉がため息をついた。
幸い近所に訪問で髪を切ってくれる美容室があり、髪を切ってもらうことになったのだが。
本格的に外に出る前に、知らない人と話すのなんて、人生の中で久しぶりすぎた。
この程度ならちょうどいいリハビリだったかもしれない。
こんな調子で知らない人と二人きりで話せるのだろうか。
どうせだったら二人きりではなく、グループで会うようなオフ会にしてほしかった。
はっきりいって想像しただけで逃げ出したい。
しかし、グラボが俺を待っている。
それだけを合言葉に、俺は試練を乗り切ろうとしていた。
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