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第43話 正体
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それでもしばらくの間はそのまま動けなかった。
相手が戻ってこない確信がなかったから。
がくがくと足も腕も震えている。寒い時のように顎も震えて歯がガチガチと音を鳴らす。
本当の恐怖に会うと人間は全身から力が抜けるのだと思い知った。
気づかれなくてよかった。空き巣が居住者に見つかって、相手が居直り強盗になるなんてよくあるケースなのだから。
そのまま先ほどに賊が入っていった奥の部屋を覗き込む。いつもは入らない場所だが、思い切って足を踏み入れた。
ソファの向こう側にはさまざまなサンプルがかけられているドレッサーがあるのだが、その中に隠されたように黒い箱があった。どうやら金庫のようだ。
そんなところにそんなものがあったなんて、今まで目にすることがなかったので知らなかった。
金庫は開け放たれた状態で、選別後に捨てたのか、その前には書類のようなものがひどく散らばっている。
いや、元々そこが散らかっていたせいなのか、金庫から取り出されたものなのかもわからないが。
しかし、ここに保管されているべきのものが存在しないのには気づいた。
ドレスのデザイン画だ。
シーズンオフだから量は少ないとはいえ、客に頼まれているドレスなども含めて、全部のスケッチその他がなくなっている。細かく色々と書き込まれているから、あれを見て同じドレスを仕立てることができる、ドレスの設計図だ。
そしてなにより、大公妃のサロンで出されるドレスのデザイン画。
今回のショーはデザイン画でなくコンペのために作られたドレスを買い取るという確約をされているが、それは単に労力にたいする対価の保証というわけではない。
普通、ファッションショーに使われたドレスは全てブティックが保管し、何回もあちこちで着て宣伝をする。
しかし、今回デザインして作ったものでは相手方に召し上げられるので、それができないのだ。
ようするにそのドレスの権利まで一緒に買いあげられるというのも同じこと。
そのデザイン画を盗まれたということは、今度のショーに出品できないだけでなく、同じドレスがどこからか出てくる恐れがあるため、作ったドレスも、そのデザインも売ることもできなくなるのだ。
ブティックが潰れるかもしれない不祥事だ。
「すぐに報告しなきゃ……!」
慌てて走り出そうとしたが、まだ膝が笑っていたらしい。
「きゃっ!」
足がもつれて転んでしまった。
いてて、と起き上がろうとしたが、ちょうど手を突いたところは散らばった契約書の上で、チェリー・レイモンドという名前が見える。
好きな人の名前だと何気なく見るだけでも、吸い寄せられるように目がそちらに行くのはなぜだろう。
私は反射的にその書類を覗き込むようにして見ていた。
「これも、契約書?」
しげしげと見ると、出版社の名前もあって、作家個人と専属契約を結ぶようなことなどが書かれていた。
どうやらレーズン出版社関連のものも、まとめてここに管理されていたようだ。
セユンはレーズン出版社のオーナーとも言っていたから、それもそうか、と思いつつ眺めていたが、最後のサインの欄で目を疑った。
震える手で、思わず書類を手にとって、重ねられていた他の書類にも目を落とす。
次々と、同じ名前が続く契約書をめくっていってわかったことがあった。
レーズン出版社は結局は一人の作家の作品を出すためだけの出版社だったということに。
契約書をなぞり、そこに書かれたサインを確認する。
出版契約を結んでいる作者名とその本名。
その契約書はロマンス小説の書き手のチェリー・レイモンドと犯罪小説家ラズリ―は同一人物だと教えてくれていた。
そして……。
過去にその話をしていた時に、チェリーに会ったことがあるかと聴いたら困った顔で否定していたセユンを思い出した。
あの時にレティエの憧れのロマンス小説作家に会ったことがあるとどこか得意げだったクロエは、チェリーに憧れる相手に対して、おのれの優位を誇っていたわけではなかったのだ。
あの顔は、真実を知らない人間に対して、真実を知る者が見せる嘲りの笑いだったのだ。
―――― セユンがチェリー・レイモンド本人だったのだから。
ぐるぐるとあの時の記憶が思い出される。
あの時、誰も嘘はついていなかったが、嘘よりこの現実の方がよほど信じられない。それよりも。
「セユンさん、伯爵として領地の管理して、騎士として働いて、デザインもして、営業もする上に本も書いてるなんて……いつ寝てるんだろう……」
……思わず漏れた言葉はそれだった。
相手が戻ってこない確信がなかったから。
がくがくと足も腕も震えている。寒い時のように顎も震えて歯がガチガチと音を鳴らす。
本当の恐怖に会うと人間は全身から力が抜けるのだと思い知った。
気づかれなくてよかった。空き巣が居住者に見つかって、相手が居直り強盗になるなんてよくあるケースなのだから。
そのまま先ほどに賊が入っていった奥の部屋を覗き込む。いつもは入らない場所だが、思い切って足を踏み入れた。
ソファの向こう側にはさまざまなサンプルがかけられているドレッサーがあるのだが、その中に隠されたように黒い箱があった。どうやら金庫のようだ。
そんなところにそんなものがあったなんて、今まで目にすることがなかったので知らなかった。
金庫は開け放たれた状態で、選別後に捨てたのか、その前には書類のようなものがひどく散らばっている。
いや、元々そこが散らかっていたせいなのか、金庫から取り出されたものなのかもわからないが。
しかし、ここに保管されているべきのものが存在しないのには気づいた。
ドレスのデザイン画だ。
シーズンオフだから量は少ないとはいえ、客に頼まれているドレスなども含めて、全部のスケッチその他がなくなっている。細かく色々と書き込まれているから、あれを見て同じドレスを仕立てることができる、ドレスの設計図だ。
そしてなにより、大公妃のサロンで出されるドレスのデザイン画。
今回のショーはデザイン画でなくコンペのために作られたドレスを買い取るという確約をされているが、それは単に労力にたいする対価の保証というわけではない。
普通、ファッションショーに使われたドレスは全てブティックが保管し、何回もあちこちで着て宣伝をする。
しかし、今回デザインして作ったものでは相手方に召し上げられるので、それができないのだ。
ようするにそのドレスの権利まで一緒に買いあげられるというのも同じこと。
そのデザイン画を盗まれたということは、今度のショーに出品できないだけでなく、同じドレスがどこからか出てくる恐れがあるため、作ったドレスも、そのデザインも売ることもできなくなるのだ。
ブティックが潰れるかもしれない不祥事だ。
「すぐに報告しなきゃ……!」
慌てて走り出そうとしたが、まだ膝が笑っていたらしい。
「きゃっ!」
足がもつれて転んでしまった。
いてて、と起き上がろうとしたが、ちょうど手を突いたところは散らばった契約書の上で、チェリー・レイモンドという名前が見える。
好きな人の名前だと何気なく見るだけでも、吸い寄せられるように目がそちらに行くのはなぜだろう。
私は反射的にその書類を覗き込むようにして見ていた。
「これも、契約書?」
しげしげと見ると、出版社の名前もあって、作家個人と専属契約を結ぶようなことなどが書かれていた。
どうやらレーズン出版社関連のものも、まとめてここに管理されていたようだ。
セユンはレーズン出版社のオーナーとも言っていたから、それもそうか、と思いつつ眺めていたが、最後のサインの欄で目を疑った。
震える手で、思わず書類を手にとって、重ねられていた他の書類にも目を落とす。
次々と、同じ名前が続く契約書をめくっていってわかったことがあった。
レーズン出版社は結局は一人の作家の作品を出すためだけの出版社だったということに。
契約書をなぞり、そこに書かれたサインを確認する。
出版契約を結んでいる作者名とその本名。
その契約書はロマンス小説の書き手のチェリー・レイモンドと犯罪小説家ラズリ―は同一人物だと教えてくれていた。
そして……。
過去にその話をしていた時に、チェリーに会ったことがあるかと聴いたら困った顔で否定していたセユンを思い出した。
あの時にレティエの憧れのロマンス小説作家に会ったことがあるとどこか得意げだったクロエは、チェリーに憧れる相手に対して、おのれの優位を誇っていたわけではなかったのだ。
あの顔は、真実を知らない人間に対して、真実を知る者が見せる嘲りの笑いだったのだ。
―――― セユンがチェリー・レイモンド本人だったのだから。
ぐるぐるとあの時の記憶が思い出される。
あの時、誰も嘘はついていなかったが、嘘よりこの現実の方がよほど信じられない。それよりも。
「セユンさん、伯爵として領地の管理して、騎士として働いて、デザインもして、営業もする上に本も書いてるなんて……いつ寝てるんだろう……」
……思わず漏れた言葉はそれだった。
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