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第25話 想い

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「セユンさん?」

 そうっと気配を消して近づくと、彼は寝息を立てている。
 こうして見つめても日に焼けた顔は健康的で、右腕だけが発達しているのは彼が本当に剣を持つ、闘う人なのだと思わされた。

 もう一歩、と近づくと、ばっと彼の目が見開き、瞬時にしてソファの上で身構える。即座に警戒態勢になり、厳しい顔で私を見つめたかと思えば、ふわり、と無防備な柔らかい笑顔に面差しが溶けていく。

「なんだ、レティエくんか。驚いた」
「驚かせてごめんなさい」

 その表情が変わっていく様に、私の胸のあたりがグン、と疼いた。

 こんなに近くで、こんな顔を私に見せてくれるのに、この人は決して私に届く人ではない。

 ぐっと喉の奥に感じる、泣きだしたいような気持ちをこらえて、私は笑顔を見せた。
 カーテンも閉めきっていて、部屋の中は薄暗い。明かりもつけず、カーテンの隙間から漏れる明かりだけで、彼はなんらかの作業をしていたのだろうか。
 今はその薄暗さがありがたかった。自分の表情を彼はうまく読み取れないだろうから。

「お帰り。出張販売お疲れ様」
「ありがとうございます。……具合でも、悪いんですか?」
「いや、少し疲れてるだけだよ。心配いらない」

 恐る恐る近寄ると、ソファの上から無遠慮に手が伸びてきて、頭をがしっと掴まれた。その衝撃で私は床にぺたん、と腰を下ろしてしまう。
 驚いて身体を固くしたが、それは彼なりの「いいこ、いいこ」だったようだ。
 がしがしと頭皮が揺らされる。力が強くて乱暴で、少々痛いかもしれない。

「君は本当に可愛いね。いてくれるだけでほっとする」

 愛しそうに頭を撫でられ、肩の力が抜けているような彼に、私はどのような顔を向ければいいのだろう。
 戸惑いつつも黙ったまま二人で何も言わずに、私はただ彼の手を受け止めていた。

 たまに距離感が無遠慮になる時はあるけれど、すぐに自分の行動に気づいてそれを改めるセユンなのに、今日は照れたようにいつも言われる「ごめん」がない。
 それくらい彼は何かに参ってしまっているのだろうか。

 このような静かな時間は嫌いじゃない。どこか落ち着くから。

 セユンを見上げたら顎のあたりがうっすらと髭が生えているのが見えた。
 確かに濡れた髪のまま歩いていたり、シャツを中途半端に着たりと、セユンのだらしないところは見せられていた。
 しかし最低限の身だしなみは整えていた彼の、櫛で髪をとかすこともなく、髭も当たらずにいる姿は初めてだ。
 きっと徹夜で何かをしていたのだろう。 
 よほど仕事というものが大変なようだ。

「……たまに疲れてしまってね」

 ぽつん、と吐き出すセユンの言葉を、このまま聞いていていいのか迷ってしまう。私でない誰かが、この言葉を聞くべきなのではと思うから。
 そう思って彼の方を見つめたら、至近距離に見えた彼の手の端の色が変わっているのが見えた。

「手が汚れてますよ」

 セユンの手が黒く汚れている。しかも右手だけ。暖炉の中に手を突っ込みでもしたのだろうか。
 まだ使う時期ではないから、綺麗に掃除されているはずなのだけれど、薄暗い部屋だとそこだけまるで穴が開いているかのように見えるくらい真っ黒になっている。

「あ、やばい。君が汚れちゃうね」
「それはいいんですけれど……もう少し寝ててください。お休みだったのに邪魔してしまってごめんなさい。手を拭くように濡れた布巾持ってきます」
「ん-、本当はもう起きなきゃいけないんだけどね。ありがとう」
 しかし私が彼の側を離れて、ドアに向かった時にはもうその姿は動かなくなっていたようだった。


 
「……やっぱり」

 よほど疲れているのだろう。布を探して水で濡らし、持ってくるだけという短い時間なのに、もうセユンは眠りこんでしまった。
 先ほどと違うのは、近づいても、彼はもう跳ね起きなかった。それはレティエが眠る彼の側にいることをセユンが許したかのようで。

「ふふ……」

 あどけない顔をして眠っているセユンの姿が愛らしく思えてしまう。
 大人っぽいのにくるくると変わる表情がとても子供っぽくて。
 人一人を軽々と持ちあげるくらいの力持ちなのに、クロエやリリンのお小言に身を縮めてしまう小心さ。そのギャップが意外で目が離せなくなる。
 古い家系の貴族で男らしい美形で、騎士としての姿は貴婦人たちに人気のある伯爵様で。その裏の顔は様々な事業の支援をし、自分でも率先して働くという新進気鋭の実業家でもあって。
 欠点といえば、部屋の片づけができないことくらいだろうか。
 誰もがこの人を好きにならずにいられない、カリスマとは違う魅力の持ち主。

 そんな相手に褒められて、おだてられて、気にならないままでいられるほど、箱入り娘のレティエは男どころか人に慣れているはずもない。
 そんなことを、きっとこの人だけは気づいていないだろう。

「……っ!」

 セユンを見つめすぎていて足元を見るのがおろそかになっていた。それらは仕事で使うデッサン画だろうか。絵のようなものが床一面に散らばっている。それを踏んで滑りそうになったが、慌てて態勢を整えた。
 これらは私ではわからない大事なものだろうからなるべく動かさないようにしておいたほうがいいだろう。本当はまとめて片付けてしまいたいが、本人なりのルールがあったりしたら困る。
 しかし、目についた床に開かれた状態で落ちているスケッチブックは拾い上げた。

「こんな置き方したら、紙がいたんじゃう……」

 このまま閉じてしまっていいだろうか、と悩んだが、広げた状態で棚の上に置こうと決め、棚に置こうと動く前に見えたその中の絵に思わず見とれた。

「これもデザイン画、かしら?」

 違う、これは人物画だ。しかもそれは見覚えがある。

「……すごい上手」

 いつの間にスケッチされたのだろう。それは私だった。
 窓の外を見ている自分の姿がそこに生き写しになっている。ドレスの柄からそれがいつ頃の絵かすらわかるくらい精緻な描きこみっぷりだ。
 鉛筆で描かれたそれは黒一色だというのに、外からの光の強さも浮き上がって見えるし、色すらついて見えそうだ。訴えかける力が強い絵とはこういうことだろう。

 このブティックでデザインを手掛けているのはクロエだけだから、この絵はクロエが描いたのだろう。
 こんな才能が彼女にあったことに驚きながら、1枚1枚絵を見ていくと、次は花の絵だったり、模様だったり。それらはデザインの参考にでもするのだろうか。
 でも……何かがおかしい。何かが引っかかる。
 私は自分が着た衣装のデザイン画を見たことがある。それはここに描かれている絵のようにではなく、細い線でわかりやすく浄書されたものだったけれど。
 ここの描かれているドレスの絵も、あのデザイン画も同じ人の筆致だと思う。だからこそ、

「あ、俺、寝ちゃってた?!」

 私がスケッチブックを見ることに集中していたら、いつの間に目が覚めたのだろう。セユンはソファの上で慌てて起き上がっていた。

「おはようございます。お茶でも淹れましょうか?」

 もう少し寝かせてあげたかったな、と思いながらセユンに微笑む。そして持っていた濡らした布を彼に渡したのだけれど。
 
「いや、大丈夫だよ……」

 彼はそれで手を拭かず、顔を拭いていた。使用目的が変わってしまったがこの場合、使い道はまあそれで悪くはないだろう。その後で手を拭いてもいたので。
 私は彼から汚れた布を受け取ると、それを洗いに行く前に振り返る。

「セユンさん、お尋ねしますが……もしかして、このブティックのデザインって、全部、セユンさんがされているんですか?」

 できるだけ何気ない様子を装ったのだけれど。
 

 私の言葉に、彼の顔は瞬時に強張った。
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