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母子手帳
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◇◇◇
車を運転していたら目の端に映った見覚えのあるツインタワーが見えてきて声を上げた。
「お母さん、見てよ。まだあるんだね。あのマンション」
「そりゃそうでしょ。あの頃もまだ築浅だったものね。……あそこ、便利なことは便利だったわよね。隣が大型商業施設だし、駅まで1分かからないし」
「高いとこ嫌いだったくせに……」
「今も嫌いよ」
後ろの席の母をバックミラーで見ると、懐かしそうにそちらを見上げている。高いところに住むのは嫌でも、あの場所自体が嫌いだったわけではなさそうだ。
「ミドリちゃん、あそこ、おばあちゃんとママが昔住んでたところなのよ」
母は隣のベビーシートにいる赤ん坊に話しかけている。
話しかけられた当人は喃語で一生懸命返事をしているようだが、何を言ってるかさっぱりわからない。
私は信号待ちの間、青空の下にまっすぐに建ってるそのマンションを眺めていた。
こんな大きなマンションに一時期とはいえ住んでいたなんて信じられない。
ここを引っ越してから、もう、15年経ったのか。
この15年の間は瞬く間に過ぎたようで、そうでもないようで。
その意外な人生で起きた事件ナンバーワンは、この自分ができっこないと思っていた結婚をして娘まで産んだことだろうか。
私と結婚した奇特な相手はフリーのカメラマンで世界中を飛び回っては、会うのは年に数か月くらいのものだが。
私たちの結婚形態を聞いて「なんかどこかで聞いたことのある話ね」と母に言われたが、年に数か月も会っているのだから、どこぞの話よりかはまだましだと思っている。
あのタワーマンションを出た後、私はやりたいことを探すより、今、やるべきことを優先する人生にしようと決めた。
私の中にあるかもしれない夢を見つけるより、できることから消去法で未来につなげていけばいい、と割り切ったのだ。
私が大学進学という道を選ぶことをやめたことを先生たちからは翻意するように何度も何度も説得されたし、私の内申点でも行けそうな大学推薦も提示された。
しかし将来について考える時間を大学に通うことで稼ぐつもりも必要もなかった。
その結果、今の私は何でも屋のようになっている。こんな状況でもそれなりに金も稼げてもいるから不思議なものだ。
人生は一度限りで、結局、どうなっていくかわからないもの。
私が選んだ道を否定する人が親にいなかったのは幸いだったけれど、後からふりかえれば結局はこれが、私のやりたい人生なのかもしれない。
「ねえ、お母さん、お父さんって今、どこにいるの?」
おりこうさんにして我が娘の様子を見ながら母に尋ねる。15年経つ今も、相変わらず父を見かけない人生のままだ。母はそうねえ、と考えこんでいる。
「ネパールで会社立ち上げたみたいな話してたけど、こないだはマレーシアだったし、今の居場所はわからないわね」
「孫が生まれてもほんっと落ち着かない男だね」
四か月前に娘に子供が生まれたというのに、父にまだ孫の顔を見ていない。この点に関しては産んでから三日後に病院にかけつけた夫の方がまだマシだと思うが、それは低次元の争いだとたしなめられてしまった。
「今、日本で震災があって私たちがみんな死んでミドリだけ生き延びたりしたら、お父さんがミドリ育てるんだよ! と言ってはおいたけど……。なんかあの人、当てにならなくない?」
「逃げたりはしないだろうけど、金の力でなんとかする! とますます仕事に精出しそうな気がするわね」
「子育てに必要なのは金より人手だってーのに……」
子供を産んでから、人を育てるのは大変だと知った。大人になるのは当たり前ではない。一人前の人間が育つまで、色々な手間暇がかかるものだ。
同じように、女であるのも当たり前じゃないと、夜中に泣くミドリを睡眠不足でふらふらになりながらあやしている時には特に思ったりもする。
そんな時、暗闇の中で出会った彼女たちのことを思い出すのだ。
夜に咲く花があるのなら夜に枯れる花もある。そんな話をしていたことも。
あの時に、レイが唐突にいなくなったことの意味は、この15年で悟っていた。
生まれつきの欠損を除いて、片目をなくすということは、大きな病気を意味している。
それが癌だった場合は転移をして、その結果に命を落とす可能性もあったんだと知り、それから理解した。
レイは片目がない子。
それでおしまいにしていて、なぜ目がなくなったのかというその原因を突き止めようともしなかったのは、単なる私の怠慢だ。
それを礼儀とかルールとか、勝手に相手を思いやるふりをして、それは行き過ぎた好奇心だと心を制限をして彼女たちに踏み込まなかった。
いや、彼女たちは踏み込まれることを望まなかっただろうけれど、彼女たちに問いかけることすらしなかったことは随分とぼんやりと生きていたんだな、と思う。
子供を産んで歳をとり、大人になったつもりではいるけれど、大人は子供が思っているより何も知らない。
だから私がこの先、何年も、何十年も歳を重ねたとしても、きっとこの無力感はなくならないのだろう。
何かをしないで後悔することの方が行動しなかったことより、後悔の度合いが大きいというが、してしまったことで悔やむことだってある。
レイが私に渡してくれた義眼がそれだった。
レイの眼球をアズサに預けずに自分で持っていればよかったと今でも悔やんでいる。
真実に気づけなかった私を傷つけないように、アズサはレイが私に託した繋がりを引き受けてくれたのだろうと、今ではわかる。
あの時は形見だなんて言葉は大げさだって思ってしまったけれど、本当に形見だったなんて。
義眼が私の元にあれば、ことあるごとにそれを見てレイのことを思い出し、私がいつか真実に気づくだろうことをアズサは恐れたのだろうか。
そんなことを気遣うくらいなら、レイが化けて出てくることを認めろなんて言わなきゃいいのに。真実を話されても私は受け止めたよ。
そんな勝手なことを思って、勝手に気を使ったアズサにも自分にも怒っていた。
義眼を怖がる親への気遣いなんて、隠しもっていればいいだけの話だったし、悪いことは、ばれなければやっていいのに。
そんな後悔をしていたのも、年月が経つにつれて、三人での逢瀬の現実味が薄れ本当にあそこにいたのかどうかわからなくなってきたからだ。
あんな出会い、絶対忘れないと思っていたのに。
薄まっていく記憶に気づいて、それからの私はなんでも書き残すことにした。
その結果、今は文章を書くことも仕事の1つにするようになったのだから、人生なにが幸いするかわからない。
もっともこれは喘いで生きてきた結果なので、あんなに焦がれた「夢」というものではないのだけれど。
あそこから引っ越してしまった私は、あの展望台に入って確かめる術がもうない。
私より一足先に世界の不条理さを知ってしまったアズサは、今どうしているのだろうか。
駅前から少し離れた場所にある、大きな交差点の信号がなかなか変わらない。
あまりにも暇なので周囲を見回して、見慣れない白い建物を発見した。
「あれ、新しい病院できてる?」
「ううん、あの病院は前からあったわよ」
「え、そう? 全然気づかなかった」
「リフォームしてるみたいだけどね。……あー、長男が医学部行ったって噂は聞いてたけど、新しい科を作ったみたいよ。前は内科だけだったのに眼科が増えてるわ。たしか、あんたとあそこの長男同い年だったのよね。一時期ちょっと荒れてたみたいな話聞いたけど、落ち着くところに落ち着いたのかしら」
「ふーん」
健康な肉体を持っていたから、病院に通うことなんてまるでなくて、病院のあるなしなんてどうでもよかった。
何気ない雑談のつもりだったし。
そのまま私の車は病院の脇を過ぎ、直線の道路をしばらく気持ちよく走っていたが、母がいきなり声を上げた。
「あら、どうしたのかしら。ミドリちゃん、右目の目ヤニがすごいわよ」
「え、結膜炎?」
「祥子、車、戻しなさい!」
「ええ!?」
「さっきの病院に行って。次の信号、左に曲がって!」
さすが元地元民だけあって、一方通行などの場所を把握しきっている。
何もこんなにすぐに病院に駆け込まなくてもいいのでは、と思うが、母はこういう健康面に関しては頑として譲らない。
母親の私より、よほどミドリの保護者だ。
「赤ちゃんなのに小児科じゃなくて眼科でいいの? それに今ってもうお昼で診療時間外……」
「目の疾患なんだから老人だろうと赤ん坊だろうと一緒よ。それと覚えておきなさい。医者はね、患者を断れないのよ。医者の前に急患として飛び込んだもん勝ちなんだから」
そんなトリビアが存在していたなんて知らなかった。
医者って大変な職業だな……と、モンスターペイシェントまっしぐらな母を見て、思わず同情してしまった。
ちょうど午前の診察が終わり、昼休憩に差し掛かろうという時間だったらしい。
「あら、患者さんは赤ちゃんですか? ちょっと先生に確認してきますね」
ドアを開けた私たちを見て、慌てて受付の人が奥に走っていった。
これが患者が赤ちゃんではなかったらきっと断られていただろうな、とも思う。もっともこれが赤ん坊でなかったら、こちらもここまで無理なこともしないのだけれど。
当のミドリはきょとんとした顔をしている。
自分の目が異常をきたしているなんて気づいていないのだろう。
泣かれるよりはるかにましだが、呑気すぎて生命力的にどうなのだろうと不安にもなった。
「初診ですよね。こちらの問診票に記入をお願いします。終わったら診察室の方に……」
「祥子! 私が書いておくから、あんたはミドリを診察してもらって」
「わかった」
母に背中を押されてミドリを抱えて奥に入るとカーテンの向こうで「俺が対応するから休憩入ってていいよ」と指示を出す声が聞こえる。
やはり、自分が飛び込んでしまったからこの医院の休憩時間を押してしまったようで、申し訳なさが残る。母のように図々しくなるのにはまだ年季が必要そうだ。
それにしても……どこかで聞いたことのある声が聞こえた気がした。
誰だろう……。
しかし、ミドリが心配でそれはすぐに忘れてしまったが。
眼鏡をかけた白衣の男性が現れると椅子を勧められる。線が細い優しそうな先生だ。
「お母さん、この子の母子手帳あります?」
「あ、はい」
母子手帳はいつも持ち歩いている。
物が大量に入ったマザーズバッグの中に手を突っ込んで母子手帳ケースをひっぱりだし、中から取り出して渡す。
先生はそれの中を見て丁寧に見て確認してから、私の方を向いた。
「まず目の中の異物を洗いますけど、ちょっと暴れるの防止にタオルで巻かせてもらいますね」
「あ、命に係わること以外でしたら、何してもらっても結構ですから。泣いてもわめいても」
「お母さん、さばけてますね」
先生は苦笑しながら、手早くミドリの洗浄をすすめていく。
案の定、驚いたミドリはぎゃあぎゃあ泣きわめくが、その方が目の汚れて落ちていいわね、くらいにしかこの親は思わない。すまん。
「結膜炎ですね。もう少し大きくなると目薬も嫌がって怖がったりするけど、これくらいならまだ素直にされてくれるかな? 処方箋出すんで、薬局で薬もらってきてください」
大したことなかったようでよかった。
母には大げさなことを、みたいなことを言ったが、やはり診断がつくと安心してしまう。
先生は母子手帳の表紙をじっと見ている。
そこにミドリに関わる情報なんかないのに、どうしたのだろうと不思議に思う。早く返してくれないかな、と思いながら待っていれば。
「ショウコ……貴方はちゃんと咲けたんだね、よかった」
「え?」
「生物は、実をつけてこそだからね」
声が先ほどまでの低くてゆっくりした落ち着いたものとは違う。
少し高く、かすれてる聞き覚えのある声。先生の顔を見つめて、驚きに目を見張らせてしまった。
「…………。」
嘘。
驚きの声は上げなかったが、息をするのは忘れていたようだ。
知らずに詰めていた呼吸をゆっくりと吐いて、まじまじと目の前の人の顔を見る。
アズサだ。
白衣を着て短髪で、眼鏡をかけているけれど、あの時、暗闇の中で会っていた彼女の面影があった。
あっけにとられたままその顔に見入る。
私たちは無言のまま、しばらく見つめ合っていた。
――そうか。
暗闇の中で君が私に見せていた姿こそが、本当の君の姿でよかったんだ。
もしかしたら、私は今日、ここに来てはいけなかったのかもしれない。
君が知られたくない姿を私は暴いてしまったのだろうか。
しかし、アズサがこうして声をかけなかったら、私は気づけなかっただろうから、それはないか、と思い直してほっとした。
「えーっと、久しぶり」
ちゃんとあの時、彼女たちの事情に踏み込むべきだった、と後悔していたくせに、いざこうなると言わなくてもいいや、となってしまう。きっとあの時もそう思っていたのだろう。
男なのに女のふりをしていたアズサに、騙された、とは思わない。
だって、アズサが今の状況を選んだことはわかったから。
本当は彼女が選びたかった道ではなく、みんながわかりやすく納得しやすく、アズサも楽な道を選んだのだろうということも。
でも私だけは君の努力を認めて、褒めてあげないといけない。
君の本当の姿はこの世に生きている他の誰が知らなくても、あの暗闇の中で出会っていた私は知っているのだから。
「貴方もちゃんと咲いたじゃない」
声がちゃんと出せてる自信がない。でも、どうやらちゃんと私の声は届いていたようだ。
「ちゃんと、夢叶えたんでしょ? 医者になってるってことは」
「うん。言われた通りにね」
にこやかにそう言われると罪悪感が募る。しかし、私は笑顔を作った。
「じゃあ、私たち、ちゃんと枯れずにいられてるということで」
「そうだね」
ははは、となんとなく笑ってしまった。
私は結果的にアズサの夢を叶えた。
そして、アズサは私の夢を叶えた。
そんな夢の叶え方もあるんだなぁ、と不思議な気持ちになる。
「お大事に」
「ありがとうございました」
ミドリを抱きかかえて立ち上がれば、さきほどまであんなにぎゃんぎゃん泣いていたのに疲れたのか、ミドリはうとうとしているようだ。涎を垂らして私の胸元を汚してくれている。
ドアを抜けようとした瞬間になぜ忘れていたのだろう。唐突に大事なことを思い出して振り返った。
今聞かなければ、もう二度とチャンスが訪れないかもしれないというのに。
「先生、あの義眼はまだ持ってらっしゃいますか?」
「…………はい、もちろんです。……必要ですか?」
先生の顔に動揺は走っても、返事はすぐに返ってきた。
それで、ああ、まだこの人の中で、私たち三人のことは風化していないんだ、とわかってしまった。
きっと、ことあるごとにあれを取り出して見ていたのだろう。
あの時、アズサからレイに返すと言っていたのに、やっぱり返してないじゃん。とおかしくなる。
嘘をつくのが下手すぎて、医者がむいてないんじゃないの、と思ったけれど、それは言わないでおこう。
それこそ、既に医者になってしまっている相手にむかって言うセリフではないから。
「いいえ、いりません。先生に預けておきます」
あの義眼は、私より眼医者の先生が持っている方が似合うだろうし。私よりこの人の方がふさわしい気がした。
私があの義眼を受け取っても、持っているだけで、振り返るために見ようとしないだろうから。
それが実をつけてしまった花の行く末だ。
私は眠りそうになるミドリの小さな腕を取って先生に向かって小さく振ると、足でドアを閉めて出て行った。
車を運転していたら目の端に映った見覚えのあるツインタワーが見えてきて声を上げた。
「お母さん、見てよ。まだあるんだね。あのマンション」
「そりゃそうでしょ。あの頃もまだ築浅だったものね。……あそこ、便利なことは便利だったわよね。隣が大型商業施設だし、駅まで1分かからないし」
「高いとこ嫌いだったくせに……」
「今も嫌いよ」
後ろの席の母をバックミラーで見ると、懐かしそうにそちらを見上げている。高いところに住むのは嫌でも、あの場所自体が嫌いだったわけではなさそうだ。
「ミドリちゃん、あそこ、おばあちゃんとママが昔住んでたところなのよ」
母は隣のベビーシートにいる赤ん坊に話しかけている。
話しかけられた当人は喃語で一生懸命返事をしているようだが、何を言ってるかさっぱりわからない。
私は信号待ちの間、青空の下にまっすぐに建ってるそのマンションを眺めていた。
こんな大きなマンションに一時期とはいえ住んでいたなんて信じられない。
ここを引っ越してから、もう、15年経ったのか。
この15年の間は瞬く間に過ぎたようで、そうでもないようで。
その意外な人生で起きた事件ナンバーワンは、この自分ができっこないと思っていた結婚をして娘まで産んだことだろうか。
私と結婚した奇特な相手はフリーのカメラマンで世界中を飛び回っては、会うのは年に数か月くらいのものだが。
私たちの結婚形態を聞いて「なんかどこかで聞いたことのある話ね」と母に言われたが、年に数か月も会っているのだから、どこぞの話よりかはまだましだと思っている。
あのタワーマンションを出た後、私はやりたいことを探すより、今、やるべきことを優先する人生にしようと決めた。
私の中にあるかもしれない夢を見つけるより、できることから消去法で未来につなげていけばいい、と割り切ったのだ。
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しかし将来について考える時間を大学に通うことで稼ぐつもりも必要もなかった。
その結果、今の私は何でも屋のようになっている。こんな状況でもそれなりに金も稼げてもいるから不思議なものだ。
人生は一度限りで、結局、どうなっていくかわからないもの。
私が選んだ道を否定する人が親にいなかったのは幸いだったけれど、後からふりかえれば結局はこれが、私のやりたい人生なのかもしれない。
「ねえ、お母さん、お父さんって今、どこにいるの?」
おりこうさんにして我が娘の様子を見ながら母に尋ねる。15年経つ今も、相変わらず父を見かけない人生のままだ。母はそうねえ、と考えこんでいる。
「ネパールで会社立ち上げたみたいな話してたけど、こないだはマレーシアだったし、今の居場所はわからないわね」
「孫が生まれてもほんっと落ち着かない男だね」
四か月前に娘に子供が生まれたというのに、父にまだ孫の顔を見ていない。この点に関しては産んでから三日後に病院にかけつけた夫の方がまだマシだと思うが、それは低次元の争いだとたしなめられてしまった。
「今、日本で震災があって私たちがみんな死んでミドリだけ生き延びたりしたら、お父さんがミドリ育てるんだよ! と言ってはおいたけど……。なんかあの人、当てにならなくない?」
「逃げたりはしないだろうけど、金の力でなんとかする! とますます仕事に精出しそうな気がするわね」
「子育てに必要なのは金より人手だってーのに……」
子供を産んでから、人を育てるのは大変だと知った。大人になるのは当たり前ではない。一人前の人間が育つまで、色々な手間暇がかかるものだ。
同じように、女であるのも当たり前じゃないと、夜中に泣くミドリを睡眠不足でふらふらになりながらあやしている時には特に思ったりもする。
そんな時、暗闇の中で出会った彼女たちのことを思い出すのだ。
夜に咲く花があるのなら夜に枯れる花もある。そんな話をしていたことも。
あの時に、レイが唐突にいなくなったことの意味は、この15年で悟っていた。
生まれつきの欠損を除いて、片目をなくすということは、大きな病気を意味している。
それが癌だった場合は転移をして、その結果に命を落とす可能性もあったんだと知り、それから理解した。
レイは片目がない子。
それでおしまいにしていて、なぜ目がなくなったのかというその原因を突き止めようともしなかったのは、単なる私の怠慢だ。
それを礼儀とかルールとか、勝手に相手を思いやるふりをして、それは行き過ぎた好奇心だと心を制限をして彼女たちに踏み込まなかった。
いや、彼女たちは踏み込まれることを望まなかっただろうけれど、彼女たちに問いかけることすらしなかったことは随分とぼんやりと生きていたんだな、と思う。
子供を産んで歳をとり、大人になったつもりではいるけれど、大人は子供が思っているより何も知らない。
だから私がこの先、何年も、何十年も歳を重ねたとしても、きっとこの無力感はなくならないのだろう。
何かをしないで後悔することの方が行動しなかったことより、後悔の度合いが大きいというが、してしまったことで悔やむことだってある。
レイが私に渡してくれた義眼がそれだった。
レイの眼球をアズサに預けずに自分で持っていればよかったと今でも悔やんでいる。
真実に気づけなかった私を傷つけないように、アズサはレイが私に託した繋がりを引き受けてくれたのだろうと、今ではわかる。
あの時は形見だなんて言葉は大げさだって思ってしまったけれど、本当に形見だったなんて。
義眼が私の元にあれば、ことあるごとにそれを見てレイのことを思い出し、私がいつか真実に気づくだろうことをアズサは恐れたのだろうか。
そんなことを気遣うくらいなら、レイが化けて出てくることを認めろなんて言わなきゃいいのに。真実を話されても私は受け止めたよ。
そんな勝手なことを思って、勝手に気を使ったアズサにも自分にも怒っていた。
義眼を怖がる親への気遣いなんて、隠しもっていればいいだけの話だったし、悪いことは、ばれなければやっていいのに。
そんな後悔をしていたのも、年月が経つにつれて、三人での逢瀬の現実味が薄れ本当にあそこにいたのかどうかわからなくなってきたからだ。
あんな出会い、絶対忘れないと思っていたのに。
薄まっていく記憶に気づいて、それからの私はなんでも書き残すことにした。
その結果、今は文章を書くことも仕事の1つにするようになったのだから、人生なにが幸いするかわからない。
もっともこれは喘いで生きてきた結果なので、あんなに焦がれた「夢」というものではないのだけれど。
あそこから引っ越してしまった私は、あの展望台に入って確かめる術がもうない。
私より一足先に世界の不条理さを知ってしまったアズサは、今どうしているのだろうか。
駅前から少し離れた場所にある、大きな交差点の信号がなかなか変わらない。
あまりにも暇なので周囲を見回して、見慣れない白い建物を発見した。
「あれ、新しい病院できてる?」
「ううん、あの病院は前からあったわよ」
「え、そう? 全然気づかなかった」
「リフォームしてるみたいだけどね。……あー、長男が医学部行ったって噂は聞いてたけど、新しい科を作ったみたいよ。前は内科だけだったのに眼科が増えてるわ。たしか、あんたとあそこの長男同い年だったのよね。一時期ちょっと荒れてたみたいな話聞いたけど、落ち着くところに落ち着いたのかしら」
「ふーん」
健康な肉体を持っていたから、病院に通うことなんてまるでなくて、病院のあるなしなんてどうでもよかった。
何気ない雑談のつもりだったし。
そのまま私の車は病院の脇を過ぎ、直線の道路をしばらく気持ちよく走っていたが、母がいきなり声を上げた。
「あら、どうしたのかしら。ミドリちゃん、右目の目ヤニがすごいわよ」
「え、結膜炎?」
「祥子、車、戻しなさい!」
「ええ!?」
「さっきの病院に行って。次の信号、左に曲がって!」
さすが元地元民だけあって、一方通行などの場所を把握しきっている。
何もこんなにすぐに病院に駆け込まなくてもいいのでは、と思うが、母はこういう健康面に関しては頑として譲らない。
母親の私より、よほどミドリの保護者だ。
「赤ちゃんなのに小児科じゃなくて眼科でいいの? それに今ってもうお昼で診療時間外……」
「目の疾患なんだから老人だろうと赤ん坊だろうと一緒よ。それと覚えておきなさい。医者はね、患者を断れないのよ。医者の前に急患として飛び込んだもん勝ちなんだから」
そんなトリビアが存在していたなんて知らなかった。
医者って大変な職業だな……と、モンスターペイシェントまっしぐらな母を見て、思わず同情してしまった。
ちょうど午前の診察が終わり、昼休憩に差し掛かろうという時間だったらしい。
「あら、患者さんは赤ちゃんですか? ちょっと先生に確認してきますね」
ドアを開けた私たちを見て、慌てて受付の人が奥に走っていった。
これが患者が赤ちゃんではなかったらきっと断られていただろうな、とも思う。もっともこれが赤ん坊でなかったら、こちらもここまで無理なこともしないのだけれど。
当のミドリはきょとんとした顔をしている。
自分の目が異常をきたしているなんて気づいていないのだろう。
泣かれるよりはるかにましだが、呑気すぎて生命力的にどうなのだろうと不安にもなった。
「初診ですよね。こちらの問診票に記入をお願いします。終わったら診察室の方に……」
「祥子! 私が書いておくから、あんたはミドリを診察してもらって」
「わかった」
母に背中を押されてミドリを抱えて奥に入るとカーテンの向こうで「俺が対応するから休憩入ってていいよ」と指示を出す声が聞こえる。
やはり、自分が飛び込んでしまったからこの医院の休憩時間を押してしまったようで、申し訳なさが残る。母のように図々しくなるのにはまだ年季が必要そうだ。
それにしても……どこかで聞いたことのある声が聞こえた気がした。
誰だろう……。
しかし、ミドリが心配でそれはすぐに忘れてしまったが。
眼鏡をかけた白衣の男性が現れると椅子を勧められる。線が細い優しそうな先生だ。
「お母さん、この子の母子手帳あります?」
「あ、はい」
母子手帳はいつも持ち歩いている。
物が大量に入ったマザーズバッグの中に手を突っ込んで母子手帳ケースをひっぱりだし、中から取り出して渡す。
先生はそれの中を見て丁寧に見て確認してから、私の方を向いた。
「まず目の中の異物を洗いますけど、ちょっと暴れるの防止にタオルで巻かせてもらいますね」
「あ、命に係わること以外でしたら、何してもらっても結構ですから。泣いてもわめいても」
「お母さん、さばけてますね」
先生は苦笑しながら、手早くミドリの洗浄をすすめていく。
案の定、驚いたミドリはぎゃあぎゃあ泣きわめくが、その方が目の汚れて落ちていいわね、くらいにしかこの親は思わない。すまん。
「結膜炎ですね。もう少し大きくなると目薬も嫌がって怖がったりするけど、これくらいならまだ素直にされてくれるかな? 処方箋出すんで、薬局で薬もらってきてください」
大したことなかったようでよかった。
母には大げさなことを、みたいなことを言ったが、やはり診断がつくと安心してしまう。
先生は母子手帳の表紙をじっと見ている。
そこにミドリに関わる情報なんかないのに、どうしたのだろうと不思議に思う。早く返してくれないかな、と思いながら待っていれば。
「ショウコ……貴方はちゃんと咲けたんだね、よかった」
「え?」
「生物は、実をつけてこそだからね」
声が先ほどまでの低くてゆっくりした落ち着いたものとは違う。
少し高く、かすれてる聞き覚えのある声。先生の顔を見つめて、驚きに目を見張らせてしまった。
「…………。」
嘘。
驚きの声は上げなかったが、息をするのは忘れていたようだ。
知らずに詰めていた呼吸をゆっくりと吐いて、まじまじと目の前の人の顔を見る。
アズサだ。
白衣を着て短髪で、眼鏡をかけているけれど、あの時、暗闇の中で会っていた彼女の面影があった。
あっけにとられたままその顔に見入る。
私たちは無言のまま、しばらく見つめ合っていた。
――そうか。
暗闇の中で君が私に見せていた姿こそが、本当の君の姿でよかったんだ。
もしかしたら、私は今日、ここに来てはいけなかったのかもしれない。
君が知られたくない姿を私は暴いてしまったのだろうか。
しかし、アズサがこうして声をかけなかったら、私は気づけなかっただろうから、それはないか、と思い直してほっとした。
「えーっと、久しぶり」
ちゃんとあの時、彼女たちの事情に踏み込むべきだった、と後悔していたくせに、いざこうなると言わなくてもいいや、となってしまう。きっとあの時もそう思っていたのだろう。
男なのに女のふりをしていたアズサに、騙された、とは思わない。
だって、アズサが今の状況を選んだことはわかったから。
本当は彼女が選びたかった道ではなく、みんながわかりやすく納得しやすく、アズサも楽な道を選んだのだろうということも。
でも私だけは君の努力を認めて、褒めてあげないといけない。
君の本当の姿はこの世に生きている他の誰が知らなくても、あの暗闇の中で出会っていた私は知っているのだから。
「貴方もちゃんと咲いたじゃない」
声がちゃんと出せてる自信がない。でも、どうやらちゃんと私の声は届いていたようだ。
「ちゃんと、夢叶えたんでしょ? 医者になってるってことは」
「うん。言われた通りにね」
にこやかにそう言われると罪悪感が募る。しかし、私は笑顔を作った。
「じゃあ、私たち、ちゃんと枯れずにいられてるということで」
「そうだね」
ははは、となんとなく笑ってしまった。
私は結果的にアズサの夢を叶えた。
そして、アズサは私の夢を叶えた。
そんな夢の叶え方もあるんだなぁ、と不思議な気持ちになる。
「お大事に」
「ありがとうございました」
ミドリを抱きかかえて立ち上がれば、さきほどまであんなにぎゃんぎゃん泣いていたのに疲れたのか、ミドリはうとうとしているようだ。涎を垂らして私の胸元を汚してくれている。
ドアを抜けようとした瞬間になぜ忘れていたのだろう。唐突に大事なことを思い出して振り返った。
今聞かなければ、もう二度とチャンスが訪れないかもしれないというのに。
「先生、あの義眼はまだ持ってらっしゃいますか?」
「…………はい、もちろんです。……必要ですか?」
先生の顔に動揺は走っても、返事はすぐに返ってきた。
それで、ああ、まだこの人の中で、私たち三人のことは風化していないんだ、とわかってしまった。
きっと、ことあるごとにあれを取り出して見ていたのだろう。
あの時、アズサからレイに返すと言っていたのに、やっぱり返してないじゃん。とおかしくなる。
嘘をつくのが下手すぎて、医者がむいてないんじゃないの、と思ったけれど、それは言わないでおこう。
それこそ、既に医者になってしまっている相手にむかって言うセリフではないから。
「いいえ、いりません。先生に預けておきます」
あの義眼は、私より眼医者の先生が持っている方が似合うだろうし。私よりこの人の方がふさわしい気がした。
私があの義眼を受け取っても、持っているだけで、振り返るために見ようとしないだろうから。
それが実をつけてしまった花の行く末だ。
私は眠りそうになるミドリの小さな腕を取って先生に向かって小さく振ると、足でドアを閉めて出て行った。
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【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
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前回の、彼女が〜のお話もすごく素敵でしたので、新作とても楽しみです…!
応援しています
>大喜様
うわぁ、前作も読んでいただいていたんですね、ありがとうございます!!
テイストが違う作品になりますが、楽しんで読んでいただければ幸いです<(_ _)>