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願い事
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「もう帰らないと」
「もう?」
レイの言葉に反射的にそう返してしまった。
まだ今日はおじさんが来ていない。スマートフォンで時間を確認しても、まだ9時にもなっていなかった。
「私も今日は帰ろうかな」
アズサなんて来たばかりなのに、あっさりとレイに同調している。2人とも疲れているのだろうか。
「ふーん、じゃあ、私も帰ろっと」
レイもアズサもいないなら、私がここに残る理由がなくなってくる。
いつものように二人に手を振って私だけ二号棟に戻ろうと思っていたが、手をレイに掴まれた。
「こっちおいでよ」
「どうしたの?」
最上階のエレベーターホールの脇にある吹き抜けの側にレイは近づく。
45階分の高さ……240mがその下にはある。
そこには子供の身長以上の転落防止の高い柵があるが、レイは軽くジャンプをするとその上に上半身を、まるで鉄棒の前回りをする時のようにのせた。
「こう見ると高いねー」
「ちょっと!やめてよ!見てる方が怖いよ」
とてもいい笑顔で下を見下ろしているレイとは反対に、こちらの足がすくんだ。
「あれ? 高所恐怖症?」
「…………」
弱点をさらすというのはあまり好きではないけれど、本能的に無条件に恐怖を抱くものに対してはそうもいっていられない気がする。
「ようやく窓越しとかなら大丈夫になったばっかなんだからー」
ふてくされて言い切ると、レイに手招きをする。近くに行くと吸い込まれてしまいそうで怖い。
今ここで彼女が貧血でも起こして前に落ちたりしたらと思うと、それだけでこっちの方が失神してしまいそうになる。
ところどころに救助ネットが張ってあるとはいえ、そこに上手く落ちるとは限らないのだし。
「やめなさい、レイ」
厳しいアズサの声に二人してそちらを向く。彼女の表情は本気だ。これはガチギレしている。私のような軟弱な訴え方ではなく、これに歯向かったら喉笛でも噛みつかれてしまいそうな殺気を感じる。
「そういうことするの、冗談でもやめて。少なくとも私の前では」
「落ちないよ」
「でも、うっかりで死ぬこともある。滅多なことはやめといたほうがいいの。人間に絶対はないんだから。うっかりで何かしでかす方が多いし」
私たちをからかうように、まだ下りてこないレイにアズサはため息をついた。
「そんなことしなくても人は死ぬのにね。それ、レイはわかっているはずだよ」
「アズサ?」
なんかアズサがすごくカリカリしている気がする。今はレイが落ちる不安より、静かに怒っているアズサが怖くて、早くレイが下りてきてほしかった。
もしかしてアズサは私以上に高所恐怖症なのだろうか。
「ここ、実際に事故起きてるからね」
「あれ事故じゃなくて自殺でしょ?」
アズサの言葉に情報を付け加えて、レイがようやくこちら側に下りてくる。
しかし、レイの言葉に私はとっさに耳を塞いだ。
「ぎゃー、あえて調べないようにしてたのにー」
「あ、ごめんごめん」
この場所で過去に何かがあったことは地元民には有名な話で。当時は別の場所に住んでいた私はその時のことを詳しくは知らない。
もっとも団地なみの居住者の数を誇るこのマンションなのだから、そのようなものでなくても、普通に病死とか老衰とかで亡くなる人この中にはいるかもしれないのに。
「事故って言われてるけど、本当は自殺だったことみんな知ってると思ってたよ」
「その手のサイトに書かれているくらいだしね」
「ひどいなあ……まあ、一号棟だからいいけどね」
うちの方じゃなければいいやと言ったら、二人が露骨に嫌そうな顔をした。平気そうな顔をしている割には、やはり嫌なものは嫌なようだ。
「あ、月が見える」
レイの声につられて中央から天井の方を見上げれば、吹き抜けの上のガラスドーム越しに夜空が見える。
それはまるでコンクリートに塗り固められた中で、そこだけぽっかりと穴が開いているようにも見えた。
「ちょうど真上に月が来てる時に見えるなんてラッキーだね」
月は日によって上る時間も形も変わるのに。あの場所をあの時間に通るタイミングに行き会うなんてどれくらいの確率なのだろう。
「ここから上を見上げた時に月が見えると、一か月以内に願いが叶う……それがここの場所の伝説」
ぽつっと言ったアズサの言葉に、おお! とレイと声を上げる。
「そんなジンクスあるの?」
「今作った」
「おい」
思わず突っ込んで笑ってしまったけれど、そんな風にしてジンクスとは出来上がるものかもしれない。
「じゃあ、なんか願い言って、それを叶えればいいんじゃない?」
「願い事――――」
「あ、内容は言っちゃダメだよ、願い事って口にするとかなわなくなるっていうじゃん」
そう私が言うと、二人は押し黙り月をまた見上げ始めた。
二人は心の中で何か願い事をしているのだろうか。何を願っているのだろうか。
廊下のLED照明の方がきっと強くて真上から入ってくる月明かりなんてここにどの程度まで届いているかわからない。
しかし上を見上げる二人の横顔は影が青く、ひどく綺麗だった。
「あー、首が痛い」
「案外肩こりのいい運動になったかも」
二人がエレベーターに乗りこむのを見送ってから、私は二号棟への渡り廊下の方へ歩いて行こうとした。
その私に、レイが「ショウコ!」と声をかける。
吹き抜けで下まで声が響くからエレベーターホールで騒ぐことはこのマンションではタブーだ。
それをわかっているはずのレイの大声に「どうしたの!?」と私は慌てて足を止めた。
「たぶん、今日が最後の夜だと思うから。だからバイバイ」
「どういう意味?」
レイが分からないことを言って手を振っている。
「ん-、さよならは言える時に言っておかなきゃいけないものだよね」
「なにそれ」
「マナーは守るもの、ルールは破るもの」
「両方守った方がいいんじゃない?」
そうおどけるレイに思わず突っ込んでしまったが、私たちのためにエレベーターの開ボタンを押してくれてたアズサが呆れた声を出した。
「ほら、エレベーターいつまでも止めてると迷惑だから。ショウコもレイの相手しないの。いつものことなんだから」
アズサの促しに、今度こそじゃあねー、とレイが手を振るのが閉まっていくエレベーターの扉の隙間から見えて。なんだったのだろうと首を傾げつつ、私も連絡通路を歩いて帰路についた。
私も彼女にさよならと言った方がよかったのだろうか。
いや、言わなくてよかったのだろう。まだ預かってる義眼を返していないのだから。
さよならするわけにはいかない。
「それにしても、最後ってなんだろう?」
その意味が分かったのはすぐだった。
その日を境にレイは展望台にぴたりと来なくなってしまったのだった。
「もう?」
レイの言葉に反射的にそう返してしまった。
まだ今日はおじさんが来ていない。スマートフォンで時間を確認しても、まだ9時にもなっていなかった。
「私も今日は帰ろうかな」
アズサなんて来たばかりなのに、あっさりとレイに同調している。2人とも疲れているのだろうか。
「ふーん、じゃあ、私も帰ろっと」
レイもアズサもいないなら、私がここに残る理由がなくなってくる。
いつものように二人に手を振って私だけ二号棟に戻ろうと思っていたが、手をレイに掴まれた。
「こっちおいでよ」
「どうしたの?」
最上階のエレベーターホールの脇にある吹き抜けの側にレイは近づく。
45階分の高さ……240mがその下にはある。
そこには子供の身長以上の転落防止の高い柵があるが、レイは軽くジャンプをするとその上に上半身を、まるで鉄棒の前回りをする時のようにのせた。
「こう見ると高いねー」
「ちょっと!やめてよ!見てる方が怖いよ」
とてもいい笑顔で下を見下ろしているレイとは反対に、こちらの足がすくんだ。
「あれ? 高所恐怖症?」
「…………」
弱点をさらすというのはあまり好きではないけれど、本能的に無条件に恐怖を抱くものに対してはそうもいっていられない気がする。
「ようやく窓越しとかなら大丈夫になったばっかなんだからー」
ふてくされて言い切ると、レイに手招きをする。近くに行くと吸い込まれてしまいそうで怖い。
今ここで彼女が貧血でも起こして前に落ちたりしたらと思うと、それだけでこっちの方が失神してしまいそうになる。
ところどころに救助ネットが張ってあるとはいえ、そこに上手く落ちるとは限らないのだし。
「やめなさい、レイ」
厳しいアズサの声に二人してそちらを向く。彼女の表情は本気だ。これはガチギレしている。私のような軟弱な訴え方ではなく、これに歯向かったら喉笛でも噛みつかれてしまいそうな殺気を感じる。
「そういうことするの、冗談でもやめて。少なくとも私の前では」
「落ちないよ」
「でも、うっかりで死ぬこともある。滅多なことはやめといたほうがいいの。人間に絶対はないんだから。うっかりで何かしでかす方が多いし」
私たちをからかうように、まだ下りてこないレイにアズサはため息をついた。
「そんなことしなくても人は死ぬのにね。それ、レイはわかっているはずだよ」
「アズサ?」
なんかアズサがすごくカリカリしている気がする。今はレイが落ちる不安より、静かに怒っているアズサが怖くて、早くレイが下りてきてほしかった。
もしかしてアズサは私以上に高所恐怖症なのだろうか。
「ここ、実際に事故起きてるからね」
「あれ事故じゃなくて自殺でしょ?」
アズサの言葉に情報を付け加えて、レイがようやくこちら側に下りてくる。
しかし、レイの言葉に私はとっさに耳を塞いだ。
「ぎゃー、あえて調べないようにしてたのにー」
「あ、ごめんごめん」
この場所で過去に何かがあったことは地元民には有名な話で。当時は別の場所に住んでいた私はその時のことを詳しくは知らない。
もっとも団地なみの居住者の数を誇るこのマンションなのだから、そのようなものでなくても、普通に病死とか老衰とかで亡くなる人この中にはいるかもしれないのに。
「事故って言われてるけど、本当は自殺だったことみんな知ってると思ってたよ」
「その手のサイトに書かれているくらいだしね」
「ひどいなあ……まあ、一号棟だからいいけどね」
うちの方じゃなければいいやと言ったら、二人が露骨に嫌そうな顔をした。平気そうな顔をしている割には、やはり嫌なものは嫌なようだ。
「あ、月が見える」
レイの声につられて中央から天井の方を見上げれば、吹き抜けの上のガラスドーム越しに夜空が見える。
それはまるでコンクリートに塗り固められた中で、そこだけぽっかりと穴が開いているようにも見えた。
「ちょうど真上に月が来てる時に見えるなんてラッキーだね」
月は日によって上る時間も形も変わるのに。あの場所をあの時間に通るタイミングに行き会うなんてどれくらいの確率なのだろう。
「ここから上を見上げた時に月が見えると、一か月以内に願いが叶う……それがここの場所の伝説」
ぽつっと言ったアズサの言葉に、おお! とレイと声を上げる。
「そんなジンクスあるの?」
「今作った」
「おい」
思わず突っ込んで笑ってしまったけれど、そんな風にしてジンクスとは出来上がるものかもしれない。
「じゃあ、なんか願い言って、それを叶えればいいんじゃない?」
「願い事――――」
「あ、内容は言っちゃダメだよ、願い事って口にするとかなわなくなるっていうじゃん」
そう私が言うと、二人は押し黙り月をまた見上げ始めた。
二人は心の中で何か願い事をしているのだろうか。何を願っているのだろうか。
廊下のLED照明の方がきっと強くて真上から入ってくる月明かりなんてここにどの程度まで届いているかわからない。
しかし上を見上げる二人の横顔は影が青く、ひどく綺麗だった。
「あー、首が痛い」
「案外肩こりのいい運動になったかも」
二人がエレベーターに乗りこむのを見送ってから、私は二号棟への渡り廊下の方へ歩いて行こうとした。
その私に、レイが「ショウコ!」と声をかける。
吹き抜けで下まで声が響くからエレベーターホールで騒ぐことはこのマンションではタブーだ。
それをわかっているはずのレイの大声に「どうしたの!?」と私は慌てて足を止めた。
「たぶん、今日が最後の夜だと思うから。だからバイバイ」
「どういう意味?」
レイが分からないことを言って手を振っている。
「ん-、さよならは言える時に言っておかなきゃいけないものだよね」
「なにそれ」
「マナーは守るもの、ルールは破るもの」
「両方守った方がいいんじゃない?」
そうおどけるレイに思わず突っ込んでしまったが、私たちのためにエレベーターの開ボタンを押してくれてたアズサが呆れた声を出した。
「ほら、エレベーターいつまでも止めてると迷惑だから。ショウコもレイの相手しないの。いつものことなんだから」
アズサの促しに、今度こそじゃあねー、とレイが手を振るのが閉まっていくエレベーターの扉の隙間から見えて。なんだったのだろうと首を傾げつつ、私も連絡通路を歩いて帰路についた。
私も彼女にさよならと言った方がよかったのだろうか。
いや、言わなくてよかったのだろう。まだ預かってる義眼を返していないのだから。
さよならするわけにはいかない。
「それにしても、最後ってなんだろう?」
その意味が分かったのはすぐだった。
その日を境にレイは展望台にぴたりと来なくなってしまったのだった。
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