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怒れる母
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家に入り靴を脱ぐなり、なぜか母が怒り出した。
「なんなの、あんたの先生!」
しかも怒り先は先生に対してだった。なぜ母が怒っているかさっぱりわからないけれど、私は制服を着たままの姿で母をなだめ始める。
「まぁまぁ、お母さん、落ち着いて……皺が増えるよ?」
「もう増えてる! まったく失礼な先生よね」
母はスーツを脱ぎ散らかし、アクセサリーをはずしながらぷりぷり怒っている。
「この歳で具体的に将来の夢が決まっている方がレアケースじゃないの。そんなことも知らないのかしら、教師のくせに。志望校なんて出願ぎりぎりで決めればいいじゃない!」
私は先生の言うことももっともだと思っていたのでなんとも思わなかったのだが、母は先生の言いぶりがいたく気に入らなかったようだ。
「今、将来の方向性が決まっていない若人が目の前にいるのなら、なじるでなく、相手の中にあるその人のやりたいことの種を探ればいいじゃない、聞き出せばいいじゃない。なんで叱られなきゃいけないのよ。しかも最後はこっちに丸投げしてるし!」
頭をがりがり掻いてイライラしたように歩き回る姿は熊のようだ。しかし、その様子を見ていたらこちらの方が落ち着いてきた。
「将来の夢が決まってないって……お母さんもそうだったの?」
「私の場合はもっとひどいわよ。高校が大学附属だったから成績で振り分けられた推薦枠で、なんとなく決めたんだもの。他の選択肢が情報工学部とか歯学部とかだったから、消去法で建築学部選んだだけ」
「うわぁ、将来建築家になりたいという子に言ったらダメな消極的な夢の選び方だね」
「世の中そんなもんよ」
てきぱきとジーンズとタートルネックのヒートテックとラフな格好に着替えた母は、今度は上着に丁寧にブラッシングをしたり、外したアクセサリーを磨いている。
この後で仕事があるとは言っていたけれど、どうやら今日は家で仕事を片付けるらしいとその様子を見てわかった。
「人間なんてできることしかできないの。知らないことはできないの。まだ生きてる時間短いのに、自分がやってきたことの中から、やりたいことを選び抜くって結構難しいことじゃない? そんなのほいほいできるもんじゃないじゃないわよ。それをなんでまだ時間ある二年の段階でやらせようとすんの? ギリギリまで悩めばいいじゃない。しかもあれ、貴方の希望を聞いているようでいて、大学に行かせる以外の選択肢出してなかったじゃない。それが腹立つのよぉ」
「はぁ……うち、進学校だからねえ……」
そのまま冷蔵庫まで歩いていくと麦茶を取り出している。そのまま私の方にも麦茶を注いでくれた。こういう娘を思いやる冷静な行動と怒りは別物のようだ。
「私は幸い、そういうことを許される環境と時代にいただけというのもあるけどね。ま、選択肢が多すぎると選べないこともあるから、あんまり深く悩まないようにね。人生の先輩から言えることなんてそれだけ」
「でも、みんなもう志望校決めて勉強してんだよね……」
アズサのように、早い段階でちゃんと将来を決めて走り出している人もいる。それが自分が望んだわけではないお仕着せの夢だとしても、それはそれで立派な彼女の夢で、私はそれでも羨ましいと思う時があるのに。
みんなに好きにしていいよ、と言われる度にどうしたらいいのかわからなくなる。
あんまり自由すぎるのは何も与えられていないのと同じ、なんて言ったら、贅沢だと笑われるだろう。
経済的に恵まれていて、親が身をもってやりたいことしかやらない人達で。
なのに自分は彼らのような明確な目標がない。
「祥ちゃん、いいこと教えてあげるわ」
「なに?」
「夢なんてね、大人になってからでも叶うのよ。大人になってからやりたいこと見つければいいの」
「はぁ……」
父はともかく、母の見つけたやりたいこととはなんだろうか。
適当に入ったはずの大学で、そこで得た資格でもって母は今、仕事をしている。それは決してそれしかないからというようなネガティブな発想で選んだわけではないだろうに。
「子供のうちに夢を決めていたら、その夢にやりたいことが引っ張られて、挫折した時になにも残らないわよ?」
「そうなの?」
「だって考えてもみてよ。野球選手になりたいと思ったら野球ばっかりしちゃうでしょ? もしかしたらゴルフの方に才能あったかもしれない。絵を描く方が向いていたかもしれないのに、そっちに視界も思考も行かなくなっちゃう。なんでもかんでも貪欲にやってみて、そして最後にやりたいことを選ぶ、でいいんじゃないの?」
「でもさ、それだとスタートダッシュ遅くて遠回りじゃない? 早い段階で見つけてそれに邁進した方が結局近道なのでは?」
「あのねえ……」
母はわかってないわねえ、といわんばかりに首を振る。その態度はなかなかに腹が立つが。
「遅くて何が悪いの? 若いうちにスタートして衰えたら引退するのが多いアスリートの例えだからわかりにくいだけかもしれないけど、野球で食ってくのは何もプロの野球選手だけじゃないじゃない。野球に使う道具を売るでもよし、バッティングセンターの経営者になるでもよし。職業なんて単なる食べてく手段じゃないの? なんでそんな限定した夢持つ必要あるのよ。自分が好きなことに触れて食べていけばよくない?」
麦茶を飲み干すと母はグラスを手早く洗って手を拭いた。
「怠惰に生きるもよし、強欲に生きるもよし。なーんか世の中他人が決めてる生き方をそんなもんだと受け止めてる人多くない? 要領よく生きるやり方ばかりが蔓延してるけど、私はそういうのがすごく嫌よ。それを子供達に当たり前だと言わんばかりに押し付けてのも許せない……まぁ、学校の先生なんて、大体、教育学部出て教職取って採用試験通って先生になってんでしょ? 他の生き方知らないから、一番ハズレがなさそうな道を勧めてくれるんだろうけどね……」
それはそれで間違ってはないのだけれど、それがみんなの正解になるわけじゃない。
確かに母の言い分は間違ってはないが、先生に求めすぎている気がして、気の毒にもなる。
「そうじゃなくても生きていけるって、我が家には枠にとらわれない前例がいるからね」
「お父さんか」
「正解」
もう顔も朧気になってしまった実父の顔を思い浮かべてため息をついた。
「お母さん、結婚してからお父さんみたいにあんな我儘に生きてても世の中なんとかなるんだなって知ったんだもの。大人になって、結婚という経験を得て、ようやく知ったことだってあるわけなんだから、二十年も生きてないあんたがわからなくてもいいんじゃない? もっとも、適当な大学に入って企業に勤めて~というルートも悪いわけではないんだから。ただし」
そういうと母は私の肩をぽんと叩き、晴れやかに笑って言った。「向いてるかどうかは別」と。
「……なんか向いてないとでもいいそうなんだけど」
私が苦虫をかみつぶしたような顔で言っているのに。
「諦めなさい。貴方は克哉さんの娘よ」
母はとてもいい笑顔だ。
血の繋がりがあるのは理解しているが、理解したくない感情が出てくる。
「私はこの家の良心のつもりなんだけどな。それにお母さんの娘でもあるんだよ?」
「ならますます、何かの歯車になるのって向いてないじゃない」
母はそう言うと、自分のことわかってないわね、とケタケタ笑いながら書斎に入っていってしまった。
「なんなの、あんたの先生!」
しかも怒り先は先生に対してだった。なぜ母が怒っているかさっぱりわからないけれど、私は制服を着たままの姿で母をなだめ始める。
「まぁまぁ、お母さん、落ち着いて……皺が増えるよ?」
「もう増えてる! まったく失礼な先生よね」
母はスーツを脱ぎ散らかし、アクセサリーをはずしながらぷりぷり怒っている。
「この歳で具体的に将来の夢が決まっている方がレアケースじゃないの。そんなことも知らないのかしら、教師のくせに。志望校なんて出願ぎりぎりで決めればいいじゃない!」
私は先生の言うことももっともだと思っていたのでなんとも思わなかったのだが、母は先生の言いぶりがいたく気に入らなかったようだ。
「今、将来の方向性が決まっていない若人が目の前にいるのなら、なじるでなく、相手の中にあるその人のやりたいことの種を探ればいいじゃない、聞き出せばいいじゃない。なんで叱られなきゃいけないのよ。しかも最後はこっちに丸投げしてるし!」
頭をがりがり掻いてイライラしたように歩き回る姿は熊のようだ。しかし、その様子を見ていたらこちらの方が落ち着いてきた。
「将来の夢が決まってないって……お母さんもそうだったの?」
「私の場合はもっとひどいわよ。高校が大学附属だったから成績で振り分けられた推薦枠で、なんとなく決めたんだもの。他の選択肢が情報工学部とか歯学部とかだったから、消去法で建築学部選んだだけ」
「うわぁ、将来建築家になりたいという子に言ったらダメな消極的な夢の選び方だね」
「世の中そんなもんよ」
てきぱきとジーンズとタートルネックのヒートテックとラフな格好に着替えた母は、今度は上着に丁寧にブラッシングをしたり、外したアクセサリーを磨いている。
この後で仕事があるとは言っていたけれど、どうやら今日は家で仕事を片付けるらしいとその様子を見てわかった。
「人間なんてできることしかできないの。知らないことはできないの。まだ生きてる時間短いのに、自分がやってきたことの中から、やりたいことを選び抜くって結構難しいことじゃない? そんなのほいほいできるもんじゃないじゃないわよ。それをなんでまだ時間ある二年の段階でやらせようとすんの? ギリギリまで悩めばいいじゃない。しかもあれ、貴方の希望を聞いているようでいて、大学に行かせる以外の選択肢出してなかったじゃない。それが腹立つのよぉ」
「はぁ……うち、進学校だからねえ……」
そのまま冷蔵庫まで歩いていくと麦茶を取り出している。そのまま私の方にも麦茶を注いでくれた。こういう娘を思いやる冷静な行動と怒りは別物のようだ。
「私は幸い、そういうことを許される環境と時代にいただけというのもあるけどね。ま、選択肢が多すぎると選べないこともあるから、あんまり深く悩まないようにね。人生の先輩から言えることなんてそれだけ」
「でも、みんなもう志望校決めて勉強してんだよね……」
アズサのように、早い段階でちゃんと将来を決めて走り出している人もいる。それが自分が望んだわけではないお仕着せの夢だとしても、それはそれで立派な彼女の夢で、私はそれでも羨ましいと思う時があるのに。
みんなに好きにしていいよ、と言われる度にどうしたらいいのかわからなくなる。
あんまり自由すぎるのは何も与えられていないのと同じ、なんて言ったら、贅沢だと笑われるだろう。
経済的に恵まれていて、親が身をもってやりたいことしかやらない人達で。
なのに自分は彼らのような明確な目標がない。
「祥ちゃん、いいこと教えてあげるわ」
「なに?」
「夢なんてね、大人になってからでも叶うのよ。大人になってからやりたいこと見つければいいの」
「はぁ……」
父はともかく、母の見つけたやりたいこととはなんだろうか。
適当に入ったはずの大学で、そこで得た資格でもって母は今、仕事をしている。それは決してそれしかないからというようなネガティブな発想で選んだわけではないだろうに。
「子供のうちに夢を決めていたら、その夢にやりたいことが引っ張られて、挫折した時になにも残らないわよ?」
「そうなの?」
「だって考えてもみてよ。野球選手になりたいと思ったら野球ばっかりしちゃうでしょ? もしかしたらゴルフの方に才能あったかもしれない。絵を描く方が向いていたかもしれないのに、そっちに視界も思考も行かなくなっちゃう。なんでもかんでも貪欲にやってみて、そして最後にやりたいことを選ぶ、でいいんじゃないの?」
「でもさ、それだとスタートダッシュ遅くて遠回りじゃない? 早い段階で見つけてそれに邁進した方が結局近道なのでは?」
「あのねえ……」
母はわかってないわねえ、といわんばかりに首を振る。その態度はなかなかに腹が立つが。
「遅くて何が悪いの? 若いうちにスタートして衰えたら引退するのが多いアスリートの例えだからわかりにくいだけかもしれないけど、野球で食ってくのは何もプロの野球選手だけじゃないじゃない。野球に使う道具を売るでもよし、バッティングセンターの経営者になるでもよし。職業なんて単なる食べてく手段じゃないの? なんでそんな限定した夢持つ必要あるのよ。自分が好きなことに触れて食べていけばよくない?」
麦茶を飲み干すと母はグラスを手早く洗って手を拭いた。
「怠惰に生きるもよし、強欲に生きるもよし。なーんか世の中他人が決めてる生き方をそんなもんだと受け止めてる人多くない? 要領よく生きるやり方ばかりが蔓延してるけど、私はそういうのがすごく嫌よ。それを子供達に当たり前だと言わんばかりに押し付けてのも許せない……まぁ、学校の先生なんて、大体、教育学部出て教職取って採用試験通って先生になってんでしょ? 他の生き方知らないから、一番ハズレがなさそうな道を勧めてくれるんだろうけどね……」
それはそれで間違ってはないのだけれど、それがみんなの正解になるわけじゃない。
確かに母の言い分は間違ってはないが、先生に求めすぎている気がして、気の毒にもなる。
「そうじゃなくても生きていけるって、我が家には枠にとらわれない前例がいるからね」
「お父さんか」
「正解」
もう顔も朧気になってしまった実父の顔を思い浮かべてため息をついた。
「お母さん、結婚してからお父さんみたいにあんな我儘に生きてても世の中なんとかなるんだなって知ったんだもの。大人になって、結婚という経験を得て、ようやく知ったことだってあるわけなんだから、二十年も生きてないあんたがわからなくてもいいんじゃない? もっとも、適当な大学に入って企業に勤めて~というルートも悪いわけではないんだから。ただし」
そういうと母は私の肩をぽんと叩き、晴れやかに笑って言った。「向いてるかどうかは別」と。
「……なんか向いてないとでもいいそうなんだけど」
私が苦虫をかみつぶしたような顔で言っているのに。
「諦めなさい。貴方は克哉さんの娘よ」
母はとてもいい笑顔だ。
血の繋がりがあるのは理解しているが、理解したくない感情が出てくる。
「私はこの家の良心のつもりなんだけどな。それにお母さんの娘でもあるんだよ?」
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