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第一章 ここは私の知らない世界
第8話 シシリーの先生
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「私は王太子妃になるより、ここにいたいわ。結婚するよりね……それよりこれ、見てちょうだい」
メリュジーヌは話はおしまい、とばかりに、得意そうに何かを取り出してきた。
ふと部屋の中を見ると、古びたカーテンやベッドカバーは細かい目で継ぎあてがされていて。その上を刺繍で飾られて可愛らしい。物が少ない部屋の中で、花が咲いているようだった。
「古いカードに刺繍のように縫ったら、面白い感じになったの」
紙の間の穴や幅を調整して、刺繍をしてあるようだ。
立体的な模様が組みあがっていて面白い。興がのったのか、ちいさな小人の刺繍には、洋服はまるで平織りのように刺されていて、市松模様のシャツを着ているようにも見える。
「お嬢様、素晴らしいですね。この裏に紙を貼ったらカードとして贈ることもできますね。額に入れたら絵にもなります」
「絵を描くのには絵の具が必要だけれど、これだと糸だけでできるものね。リリアンヌがいつも素敵な糸や布を持ってきてくれるからだわ。ありがとう」
「いえいえ。捨てるには惜しいものは再利用しなくてはいけませんから。物は大事に」
刺繍は貴族女性の教養としても習うのだけれど、仕えているシシリーはそれがとても苦手で。しかも飽きっぽい。
1つの図案の刺繍を決めて、糸も選ぶのだけれど、途中で投げ出したものも含めて、刺し終わったものは残った糸も全て捨て、新しいものを縫い始める時にはまた新しい糸を取り出して使うのだ。
糸巻に少しずつ残ったものは「捨てておいて」と言われるので、それを集めてはメリュジーヌお嬢様に横流ししている。
その見事なカードを見ながら、他にもあんなのも作ってみたい、これもしたいとアイディアを口にするメリュジーヌを見ながら、この子、もしかしたら貴族のお嬢様なんてやってるより、デザイナー的な才能を開発した方が向いてるんじゃないかなぁ、と思っていた。
***
リリアンヌの体の中に入って数日経った。
仕事は立ち仕事になるけれど、それほど辛いものではなかった。適当に休めるし。
こんな見知らぬ世界に来たけれど、典型的な現代っ子な自分は生きていけるのかなぁと不安だったけれど、思った以上に慣れるのは早かった。
なんでだろうと思ったら、この屋敷、田舎のおばあちゃんちに似てるんだ。
あの家、庭に古いポンプ式の井戸があるし、汲み取り式のトイレもあるし。それで慣れていたから、そういう事情は余裕だった。人間ってなんでも経験しておくの大事だなぁ。
不便といったら風呂の方なのだけれど、豊かな天然ガスの埋蔵地のここでは使用人も自由に燃料を使っていいとのことで、風呂用の湯を手に入れるのも楽だ。
ただし、水をくむのは各自でするので面倒なのだが、少ない水の量で髪や体を洗う術を覚えたらさほど手間でもないし。
ただ、たっぷりのお湯に体を浸したいなぁ、という欲はあるけれど仕方がない。
困るのは食事の方。基本的にスパイスがなくて大味だなぁとは思うけれど、食べられないわけではないからいいや、と納得している。もっと味付けを濃くした方が美味しいのでは? と思うけれど、リリアンヌの体のせいなのか、前より味覚に敏感になったらしくて、焼いただけの豆が塩すら振ってないのに美味しく感じてびっくりした。
素材の味を生かすって、受け止める人間の鋭敏な感覚器も大事なんだなぁ、と思った。
元々豆が好きではなかったのだけれど、リリアンヌの体だと美味しいと思うのだから、もしかしたらリリアンヌの好物だったのだろうかね。
今日の賄いも豆と卵のオムレツみたいなものが絶品で、味わって食べていたら、「幸せそうに食べるのね」とドロテアの専属メイドのランに笑われた。
シシリーの専属メイドは3人いるのだけれど、お互いに休憩は交代で取るのでお喋りしながら食事をするなどできない。しかし、ドロテアや奥様の専属メイドなら、休憩時間が同じタイミングになることもあって、そこで食事しながらランに話しかけてから、なんとなく休憩で会う度におしゃべりする仲になった。
「最近、リリアンヌ、変わったよね」
「え、そう? そんなことないと思うけど?」
「前まではなんか近寄りがたいようなところあったのに。こんな風に気さくに話す人だと思わなかった」
なるべく記憶にあるリリアンヌの行動をトレースをするようにはしているが、元々のリリアンヌは男爵令嬢だったというプライドがあったのだろうか。公爵家の使用人たちと深くなるようなコミュニケーションをとってなかったようだ。
それにこの家はあまり使用人が長続きしていない。それなのに他の使用人と仲良くしても意味がないと思っていたのかもしれない。
「じゃあ、昔の私と、今の私、どっちが好き?」
「もちろん、今の」
「私もラン好きよ~、お礼にキュウリの酢漬けあげる!」
「それ、単に嫌いなものを押し付けてるだけじゃないの?」
ははは、と笑いながら食器を片付けて。さぁ、戻るかと気合を入れてから仕事に戻った。
「ただいま戻りました」
交代の引継ぎを軽く済ませると、すばやくシシリーの元に戻る。今日は待ちかねていた日なので、私も気合いを入れていた。
「セイラ先生、ようこそいらっしゃいました」
そう。シシリーの授業の日。先生はリオン子爵令嬢のセイラ様だ。
先日、先生の忘れ物の本を返しているシシリーの側で、彼女を見た瞬間に「うぉう」と圧倒されてしまった。
女性にしては背が高く堂々とした振舞いで、ドレスを着ていても男性的な雰囲気を持っていて。
女子校にいたら、後輩にモテるタイプだな、と勝手に思ってしまった。
しかも随分とオシャレな人だなぁと、思う。そこまで私がおしゃれがわかるわけではないのだけれど、小柄で可愛らしいのが美の基準というこの国でも、逆にすっきりした長身を生かしてドレスの形を選んでいるようで。
いや、もしかしたらデザインから彼女の見立てかもしれない。
立ち居振る舞いも洗練されていて野暮ったさがない、鄙にまれたるというか、都会的な人というか。要するに格好いい。
シシリーも彼女のこういうところに憧れて、大人しく授業を受けているようだ。
なんでもこちらの領地の人と結婚をして暮らしていたところを伝手を得て家庭教師をしてもらっているらしい。
この国の文化の中心はやはり王都だから、どうしても領地の方での教育は疎かになる。
男の子だったら王都の学校で勉強もさせるが、女の子はそういうわけにもいかず、王都から呼び寄せるほど教育に熱心でなければ、領地で人材を探すしかないだろう。
貴族の娘の教養は多岐にわたるものだが、今日は歴史についてのようで。シシリーはつまらなそうに話しを聞いているが、私には結構面白い。
控えていながら、ついつい耳をそばだてて授業を聞いてしまうのは、塾講師だった性だろうか。一対一の授業と一対多では授業方法はまるで変わるけれど、参考になるものがあるかもしれないし……って今更スキルを高めても無駄なんだけれどね……。
「先生、今日のシシリー様の授業、ありがとうございました」
授業が終わりそうな気配を見計らってドアの近くに立つ。
授業後にはお茶をするという習慣があり、お湯が残っていればメイドも、自分達にお茶を淹れて軽く休憩をしても許される。
先生の見送りをする侍女はそのお相伴に預かることができないので押し付け合いになるのだが、今日は私が見送りを、と先生の前に立ち、あえてその役目をすることにした。
もちろん下心ありありなのだけれどね。
「セイラ先生に、お願いがあります。使用人風情が何を言うとお思いになるかもしれませんが」
前を立って歩きながら、自分から先生に話しかける。本来なら使用人から客人たる人に話しかけるのはタブーなのだけれど、そうも言っていられない事情があるのだから仕方ない。
「いつか私も先生に、経済のお話とか法律とかのお話を伺いたいのですが……その授業はおいくらでお願いできますか?」
この人は学がある。それがわかったのは、彼女が忘れていった本から。
あの本にはこの国の大学にあたるアカデミーの印が押されていた。つまり、この人はこの国では男性にほぼ独占されている知識層の学識を持っていることがうかがわせられた。
「それは……シシリー様に対する授業とは違う場で、ということでしょうか?」
ああ、よかった。ちゃんとこの人は話を聞いてくれる。
彼女の返事に大きく頷いた。
「はい。私への個人授業と申しますか」
この世界の知識レベルを知りたい。
そして、知恵を借りたい。私は足を止めると、自分より頭半分以上も上にある、その切れ長の目を見返した。
メリュジーヌは話はおしまい、とばかりに、得意そうに何かを取り出してきた。
ふと部屋の中を見ると、古びたカーテンやベッドカバーは細かい目で継ぎあてがされていて。その上を刺繍で飾られて可愛らしい。物が少ない部屋の中で、花が咲いているようだった。
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刺繍は貴族女性の教養としても習うのだけれど、仕えているシシリーはそれがとても苦手で。しかも飽きっぽい。
1つの図案の刺繍を決めて、糸も選ぶのだけれど、途中で投げ出したものも含めて、刺し終わったものは残った糸も全て捨て、新しいものを縫い始める時にはまた新しい糸を取り出して使うのだ。
糸巻に少しずつ残ったものは「捨てておいて」と言われるので、それを集めてはメリュジーヌお嬢様に横流ししている。
その見事なカードを見ながら、他にもあんなのも作ってみたい、これもしたいとアイディアを口にするメリュジーヌを見ながら、この子、もしかしたら貴族のお嬢様なんてやってるより、デザイナー的な才能を開発した方が向いてるんじゃないかなぁ、と思っていた。
***
リリアンヌの体の中に入って数日経った。
仕事は立ち仕事になるけれど、それほど辛いものではなかった。適当に休めるし。
こんな見知らぬ世界に来たけれど、典型的な現代っ子な自分は生きていけるのかなぁと不安だったけれど、思った以上に慣れるのは早かった。
なんでだろうと思ったら、この屋敷、田舎のおばあちゃんちに似てるんだ。
あの家、庭に古いポンプ式の井戸があるし、汲み取り式のトイレもあるし。それで慣れていたから、そういう事情は余裕だった。人間ってなんでも経験しておくの大事だなぁ。
不便といったら風呂の方なのだけれど、豊かな天然ガスの埋蔵地のここでは使用人も自由に燃料を使っていいとのことで、風呂用の湯を手に入れるのも楽だ。
ただし、水をくむのは各自でするので面倒なのだが、少ない水の量で髪や体を洗う術を覚えたらさほど手間でもないし。
ただ、たっぷりのお湯に体を浸したいなぁ、という欲はあるけれど仕方がない。
困るのは食事の方。基本的にスパイスがなくて大味だなぁとは思うけれど、食べられないわけではないからいいや、と納得している。もっと味付けを濃くした方が美味しいのでは? と思うけれど、リリアンヌの体のせいなのか、前より味覚に敏感になったらしくて、焼いただけの豆が塩すら振ってないのに美味しく感じてびっくりした。
素材の味を生かすって、受け止める人間の鋭敏な感覚器も大事なんだなぁ、と思った。
元々豆が好きではなかったのだけれど、リリアンヌの体だと美味しいと思うのだから、もしかしたらリリアンヌの好物だったのだろうかね。
今日の賄いも豆と卵のオムレツみたいなものが絶品で、味わって食べていたら、「幸せそうに食べるのね」とドロテアの専属メイドのランに笑われた。
シシリーの専属メイドは3人いるのだけれど、お互いに休憩は交代で取るのでお喋りしながら食事をするなどできない。しかし、ドロテアや奥様の専属メイドなら、休憩時間が同じタイミングになることもあって、そこで食事しながらランに話しかけてから、なんとなく休憩で会う度におしゃべりする仲になった。
「最近、リリアンヌ、変わったよね」
「え、そう? そんなことないと思うけど?」
「前まではなんか近寄りがたいようなところあったのに。こんな風に気さくに話す人だと思わなかった」
なるべく記憶にあるリリアンヌの行動をトレースをするようにはしているが、元々のリリアンヌは男爵令嬢だったというプライドがあったのだろうか。公爵家の使用人たちと深くなるようなコミュニケーションをとってなかったようだ。
それにこの家はあまり使用人が長続きしていない。それなのに他の使用人と仲良くしても意味がないと思っていたのかもしれない。
「じゃあ、昔の私と、今の私、どっちが好き?」
「もちろん、今の」
「私もラン好きよ~、お礼にキュウリの酢漬けあげる!」
「それ、単に嫌いなものを押し付けてるだけじゃないの?」
ははは、と笑いながら食器を片付けて。さぁ、戻るかと気合を入れてから仕事に戻った。
「ただいま戻りました」
交代の引継ぎを軽く済ませると、すばやくシシリーの元に戻る。今日は待ちかねていた日なので、私も気合いを入れていた。
「セイラ先生、ようこそいらっしゃいました」
そう。シシリーの授業の日。先生はリオン子爵令嬢のセイラ様だ。
先日、先生の忘れ物の本を返しているシシリーの側で、彼女を見た瞬間に「うぉう」と圧倒されてしまった。
女性にしては背が高く堂々とした振舞いで、ドレスを着ていても男性的な雰囲気を持っていて。
女子校にいたら、後輩にモテるタイプだな、と勝手に思ってしまった。
しかも随分とオシャレな人だなぁと、思う。そこまで私がおしゃれがわかるわけではないのだけれど、小柄で可愛らしいのが美の基準というこの国でも、逆にすっきりした長身を生かしてドレスの形を選んでいるようで。
いや、もしかしたらデザインから彼女の見立てかもしれない。
立ち居振る舞いも洗練されていて野暮ったさがない、鄙にまれたるというか、都会的な人というか。要するに格好いい。
シシリーも彼女のこういうところに憧れて、大人しく授業を受けているようだ。
なんでもこちらの領地の人と結婚をして暮らしていたところを伝手を得て家庭教師をしてもらっているらしい。
この国の文化の中心はやはり王都だから、どうしても領地の方での教育は疎かになる。
男の子だったら王都の学校で勉強もさせるが、女の子はそういうわけにもいかず、王都から呼び寄せるほど教育に熱心でなければ、領地で人材を探すしかないだろう。
貴族の娘の教養は多岐にわたるものだが、今日は歴史についてのようで。シシリーはつまらなそうに話しを聞いているが、私には結構面白い。
控えていながら、ついつい耳をそばだてて授業を聞いてしまうのは、塾講師だった性だろうか。一対一の授業と一対多では授業方法はまるで変わるけれど、参考になるものがあるかもしれないし……って今更スキルを高めても無駄なんだけれどね……。
「先生、今日のシシリー様の授業、ありがとうございました」
授業が終わりそうな気配を見計らってドアの近くに立つ。
授業後にはお茶をするという習慣があり、お湯が残っていればメイドも、自分達にお茶を淹れて軽く休憩をしても許される。
先生の見送りをする侍女はそのお相伴に預かることができないので押し付け合いになるのだが、今日は私が見送りを、と先生の前に立ち、あえてその役目をすることにした。
もちろん下心ありありなのだけれどね。
「セイラ先生に、お願いがあります。使用人風情が何を言うとお思いになるかもしれませんが」
前を立って歩きながら、自分から先生に話しかける。本来なら使用人から客人たる人に話しかけるのはタブーなのだけれど、そうも言っていられない事情があるのだから仕方ない。
「いつか私も先生に、経済のお話とか法律とかのお話を伺いたいのですが……その授業はおいくらでお願いできますか?」
この人は学がある。それがわかったのは、彼女が忘れていった本から。
あの本にはこの国の大学にあたるアカデミーの印が押されていた。つまり、この人はこの国では男性にほぼ独占されている知識層の学識を持っていることがうかがわせられた。
「それは……シシリー様に対する授業とは違う場で、ということでしょうか?」
ああ、よかった。ちゃんとこの人は話を聞いてくれる。
彼女の返事に大きく頷いた。
「はい。私への個人授業と申しますか」
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