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第5話
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「だけどまだだ。学校にちゃんと行かないと」
幾分か勇気を取り戻した由衣は呟く。
その目は幼き日の彼女と同じ光を携えていた。大海原へ漕ぎ出さんとする希望と不安の入り混じったきらきらと輝く純粋なる瞳。
彼女は決意を新たに顔と歯を洗い、ぼさぼさだった髪にクシを通して整え、制服に袖を通す。綿埃をさっと払い、階段を踏み固めるかのような決意でもって下る。
リビングで彼女のことを心配していた母親に「もう大丈夫だから」と深々と頭を下げて玄関に向かう。
革靴をぴかぴかに磨き上げて写し鏡で完璧な自分を信じて外の世界へ飛び出して行った。
いつもの通学風景が違って見えた。
いや、違ったのは由衣自身だ。
彼女の一生抱えていくであろうものが気付かせてくれたこと。
それは想像以上に痛みを伴うものだが、今まで知ることのなかった側面を見た気がした。
駅前に着いた由衣は、その一端を担ったギター弾きの男性の姿を探した。
彼は確かにそこに居た。だが姿格好は何処にでもいそうなビジネスマンで、スマートフォン片手に何やら頭を何度も下げている。いつもの浮いた洋服とは大違いだ。
「あの」
由衣は何を思ったか、その男性の電話が終わるタイミングで話しかけていた。
「いつもやっている演奏、もうやらないんですか?」
すると男性は嬉しそうに顔を綻ばせ「お、ファンなのかな?」と返した。
「いいえ、全然」
由衣はきっぱりと言い切る。
「そうだよなぁー」
意気消沈する男性。
「ギターをただかき鳴らすのが好きなんだけどね。仕事との兼ね合いが難しくて、活動したり休止したりの繰り返しさ」
彼は由衣が聞いてもいないのに一方的に語りだす。彼女はそんな年上の男性に眉一つ動かさずに静かに佇んでいた。
「君、好きなことはある?」
「はい」
「それで食べていきたいと思っている?」
「……はい」
「それは実に尊いものだ。だが、その選択は時として自分というものを捨てなければならない。その覚悟が君にはあるかい?」
「まだ、分かりません」
由衣は俯いて絞り出すように返す。
なぜ初対面の人間にここまで言われないといけないのか、という厭らしさは不思議となかった。
「それでいいんだ。今は自分を大切にしなさい」
男性はそう言い残し、雑踏の中に消えて行く。由衣はそれを幻でも見たかのように呆けた表情で見送った。
ショートホームルーム寸前ということもあり、校門をくぐり抜ける生徒はまばらだ。
由衣にとってそこは長時間拘束される鈍色の檻だったのだが、今は何の変哲もない鉄門に見える。
これからのことを考えると沈む思いだが、今日の彼女は違った。
「あ、小桜さん」
「よう。久しぶり」
由衣が教室に入るなり、いつきと八木が廊下側すぐの席に詰め寄ってきた。
「……おはよう」
先日、あのような別れかたをしてしまったというのに二人は旧来の友のように出迎えてくれた。
それが本人には小恥ずかしく、ずっと意識していた自分が哀れに思え、彼女らを直視できないでいた。
「みんなで心配していたんだ。何かの病気じゃないかって」
八木に図星を突かれ由衣は一瞬だけ身体を強張らせた。
「小桜さん、ごめんね。私が変なことお願いしたばかりに」
いつきが深々と頭を下げる。
「……気にしてないから。それよりも」
由衣は平謝りするいつきを余所に、学生鞄から一冊の本を取り出す。
「じっ、時間があれば教えてあげるからこの入門書読んでおいて」
「教えてくれるの?」
いつきは花が咲き誇りそうな笑顔で言う。
「時間があればだってば!」
「お、小桜はアレか? ツンデレってヤツか?」
八木が由衣の頭を腕で抱きかかえ、ヘッドロックを極めてじゃれつく。
その光景はいつか小桜由衣が心の底から望んだものだった。
こんなにも近く、慎ましい小さな願い。
大勢に認められたい思いもある。だが、少数でも理解ある友人が今の彼女に必要なものだったのかもしれない。
『人間は島のように孤立するような存在ではない』
ナンセンスだ。わたしは島でも構わない。
それぞれが孤立していて、独自の考え方などの個性を持っている。だけど何処かに所属し、他の「島」と交流するもしないも本人次第。
『人は島である。だが、決して孤独ではない』
わたしは新しい居場所を大切にしたい。
幾分か勇気を取り戻した由衣は呟く。
その目は幼き日の彼女と同じ光を携えていた。大海原へ漕ぎ出さんとする希望と不安の入り混じったきらきらと輝く純粋なる瞳。
彼女は決意を新たに顔と歯を洗い、ぼさぼさだった髪にクシを通して整え、制服に袖を通す。綿埃をさっと払い、階段を踏み固めるかのような決意でもって下る。
リビングで彼女のことを心配していた母親に「もう大丈夫だから」と深々と頭を下げて玄関に向かう。
革靴をぴかぴかに磨き上げて写し鏡で完璧な自分を信じて外の世界へ飛び出して行った。
いつもの通学風景が違って見えた。
いや、違ったのは由衣自身だ。
彼女の一生抱えていくであろうものが気付かせてくれたこと。
それは想像以上に痛みを伴うものだが、今まで知ることのなかった側面を見た気がした。
駅前に着いた由衣は、その一端を担ったギター弾きの男性の姿を探した。
彼は確かにそこに居た。だが姿格好は何処にでもいそうなビジネスマンで、スマートフォン片手に何やら頭を何度も下げている。いつもの浮いた洋服とは大違いだ。
「あの」
由衣は何を思ったか、その男性の電話が終わるタイミングで話しかけていた。
「いつもやっている演奏、もうやらないんですか?」
すると男性は嬉しそうに顔を綻ばせ「お、ファンなのかな?」と返した。
「いいえ、全然」
由衣はきっぱりと言い切る。
「そうだよなぁー」
意気消沈する男性。
「ギターをただかき鳴らすのが好きなんだけどね。仕事との兼ね合いが難しくて、活動したり休止したりの繰り返しさ」
彼は由衣が聞いてもいないのに一方的に語りだす。彼女はそんな年上の男性に眉一つ動かさずに静かに佇んでいた。
「君、好きなことはある?」
「はい」
「それで食べていきたいと思っている?」
「……はい」
「それは実に尊いものだ。だが、その選択は時として自分というものを捨てなければならない。その覚悟が君にはあるかい?」
「まだ、分かりません」
由衣は俯いて絞り出すように返す。
なぜ初対面の人間にここまで言われないといけないのか、という厭らしさは不思議となかった。
「それでいいんだ。今は自分を大切にしなさい」
男性はそう言い残し、雑踏の中に消えて行く。由衣はそれを幻でも見たかのように呆けた表情で見送った。
ショートホームルーム寸前ということもあり、校門をくぐり抜ける生徒はまばらだ。
由衣にとってそこは長時間拘束される鈍色の檻だったのだが、今は何の変哲もない鉄門に見える。
これからのことを考えると沈む思いだが、今日の彼女は違った。
「あ、小桜さん」
「よう。久しぶり」
由衣が教室に入るなり、いつきと八木が廊下側すぐの席に詰め寄ってきた。
「……おはよう」
先日、あのような別れかたをしてしまったというのに二人は旧来の友のように出迎えてくれた。
それが本人には小恥ずかしく、ずっと意識していた自分が哀れに思え、彼女らを直視できないでいた。
「みんなで心配していたんだ。何かの病気じゃないかって」
八木に図星を突かれ由衣は一瞬だけ身体を強張らせた。
「小桜さん、ごめんね。私が変なことお願いしたばかりに」
いつきが深々と頭を下げる。
「……気にしてないから。それよりも」
由衣は平謝りするいつきを余所に、学生鞄から一冊の本を取り出す。
「じっ、時間があれば教えてあげるからこの入門書読んでおいて」
「教えてくれるの?」
いつきは花が咲き誇りそうな笑顔で言う。
「時間があればだってば!」
「お、小桜はアレか? ツンデレってヤツか?」
八木が由衣の頭を腕で抱きかかえ、ヘッドロックを極めてじゃれつく。
その光景はいつか小桜由衣が心の底から望んだものだった。
こんなにも近く、慎ましい小さな願い。
大勢に認められたい思いもある。だが、少数でも理解ある友人が今の彼女に必要なものだったのかもしれない。
『人間は島のように孤立するような存在ではない』
ナンセンスだ。わたしは島でも構わない。
それぞれが孤立していて、独自の考え方などの個性を持っている。だけど何処かに所属し、他の「島」と交流するもしないも本人次第。
『人は島である。だが、決して孤独ではない』
わたしは新しい居場所を大切にしたい。
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