喪女の恋した優しいクズ〜 職場が女ばかりで恋愛経験のない社会人女性が、一生に一度の溺れる恋をする話〜

肝心な時にないアレ

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【番外編4】10年後の2人(5.理想の世界)

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「こっちだ」

多波さんはそう言って、私の手を取った。マンション入り口の自動ドアをくぐり、レンガ調のエントランスを抜けて、エレベーターで8階へ上がる。エレベーターを降りた先は、砂浜色の壁面にコバルトブルーの玄関ドアが並ぶ通路だった。その通路を真っ直ぐ進んでいく。

810。そう刻印された金色の表札の前で、立ち止まる。

「入って」

多波さんが玄関ドアを開けると、上品な甘い香りが鼻腔をくすぐった。真紅の薔薇が12本。木目の美しいシューズボックスの上に、生けてある。

玄関に靴を揃え、無垢のフローリングでできた廊下を踏み締める。ふと、気がつく。手の温もりに。彼はまた、私の手をそっと取っていた。

多波さんは廊下を真っ直ぐ進み、正面のドアをうやうやしく開いて、私を室内に誘った。部屋に一歩踏み入れた瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。

白を基調としたナチュラルな部屋、温かいフォルムのダイニングテーブル、猫足の本棚、窓には爽やかな萌黄色のカーテンがかかっている。対面キッチンの水回りは、空色のタイルがあしらわれていて、なんとも可愛らしい。コンロにはリンゴ型のケトルが、ちょこんと乗っている。

何もかも同じだった。5年前、二人でスクラップブックに描いた世界と。理想の世界に、私は立っていた。

夢のような光景に心を奪われていると、頭上に大きな影が落ちた。ハッとして見上げる。多波さんが陽だまりのような温かい眼差しを、こちらに向けていた。

彼はスッと真剣な表情になり、跪いてスーツのジャケットから小箱を取り出した。小箱がスローモーションで開く。中には、小さなダイヤが輝く銀色の指輪が入っていた。

「俺と結婚して下さい」

「え・・・」

「ずっと待たせて、すまなかった。病気のことで、籍を入れたら望を不幸にしてしまいそうで、怖かったんだ。でも、今なら君を幸せにできる。俺は望に救ってもらった。本当の幸せをもらった。だから、今度は俺が、望に本当の幸せを捧げたい。必ず幸せにする。これからも、俺と一緒に人生を歩んでくれないか」

真っ白。頭が。溶けそう。体が。夢?舞台?映画?現実感がない。

なのに、どんどん涙があふれてくる。頬を伝う涙が、顎に集まって膨らみ、こぼれ落ちていく。彼の握る小箱にボタボタ落ちていく。

濡らしたくない。小箱を受け取って、両手で固く握りしめた。その瞬間、燻っていた思いが、涙と一緒にあふれ出してしまった。

「私達・・・もう、おしまいなのかと思ってた」

そう言った途端、多波さんは驚いたように声をもらし、真っ青になった。

「ありえない!どうしてそんな・・・」

「だって・・・アパートはどんどん綺麗になってくし、多波さんはカッコよくなっちゃうし、帰りも遅いし・・・夜の方も減ってきたし・・・もう終わりなのかなって」

彼は、ばつが悪そうに頭を掻いて、ため息をついた。

「はぁ・・・何やってんだ、俺」

たくましい腕に抱き寄せられ、涙で濡れた私の頬が、分厚い胸板に沈み込む。涙が彼のワイシャツにみるみる吸い取られる。シャツの生地に不恰好な濃いシミを作っていく。多波さんは詫びるように、私の頭をゆっくり撫でた。

「不安にさせて悪かった。プロポーズを考えていた時、このマンションが売りに出ていて、居ても立っても居られなくなった。どうしても、スクラップブックの部屋を、望にプレゼントしたかったんだ。そうしたら、引っ越しを考えだしていて、それでアパートの片付けを。マンションも、すぐ住めるようにしたかった。残業のふりをして、掃除をしたり、家具を揃えたりしていた。先走りすぎだったな。本当に、すまな・・・んっ!?」

私は多波さんの顔を両手で引き寄せて、唇を強引に重ねた。

もう、どうでもいい。細かいことなんか。部屋の掃除も、残業も、全部、全部、私のためだったんだ。ずっと考えてくれてたんだ、私のこと。そう思った途端、今までの不安が吹き飛んでしまった。

頬はまだ涙で濡れているけれど、笑顔と言葉が湧き上がってくる。

「嬉しい。ありがとう」

「良かった」

彼は、ホッとしたように肩の力を抜いて、私のおでこにキスをした。

不器用で、優しくて、大きい多波さん。あの頃より少し老けたけれど、それでも何も変わらない。やっぱり、彼が好き。これだけは、何があっても変わらない。

私は次々に湧き上がる思いを、10年前と同じセリフに詰め込んで、笑顔と一緒に、彼に贈った。

「一生そばにいます」

多波さんの大きな瞳が涙で覆われ、瑞々しく輝いた。雫が今にもこぼれ落ちそうだ。愛おしさのあまり、大きな背中に手を絡めると、彼もそれに応えるように、私を抱きすくめた。

強く、強く、抱き合う。キスを交わす。丹念で、情熱的で、慈しむようなキス。

もう離れない。ずっと一緒にいよう。ずっと、ずっと。そう唇で誓い合う。

私が舌先で大きな唇の輪郭をなぞると、多波さんの舌がじゃれるように絡みつく。彼は床にゴロリと横たわり、私をゆっくり上に乗せた。服越しに恥部が重なる。彼の下半身は、もう張り詰めている。その硬さを楽しむように、私は腰をじっくりとくねらせた。大きな掌が、私の頭を抱え込む。貪るように口内を味わう。

「はぁ・・・はぁ・・・」

淫らな息遣いが、部屋にあふれていく。息を吸うたびに、濃い匂いが鼻腔をくすぐる。痺れるような感覚が、背筋に落ちていく。

まだ入居前なのに、ダメだよね・・・こんなところで。

そう思ったけれど、止まらない。どうしよう。本能に任せて、口と口が絡み合う。

がちっ!

鈍い音がした。咄嗟に口を離すと、多波さんが「うっ・・・」っと、くぐもった声を漏らしながら、口を手で覆っていた。舌に、私の歯が当たってしまったようだ。

「ごめんね!大丈夫?」

多波さんは少し顔を歪めていたけれど、すぐに笑い出した。

「くくく・・・平気だ。望もがっつくようになったな」

「それは・・・多波さんが、がっつくからだよ」

「フッ、そうだな。望の事になると、俺はいつも余裕がない。もう10年も一緒にいるが、慣れない」

「それは、私も」

微笑み合った後、軽く唇を重ね、どちらからともなく離れた。

ややあって、多波さんは思い出したように体を起こした。スーツのジャケットから何かを取り出し、私の掌にのせる。

「望にやる」

通帳と印鑑だった。通帳を開くと、3に0が7個付いた額が、残高に記されていた。

「どうしたのこれ!?」

突然降ってきた大金に、指が震える。そんな私を見て、彼は笑った。

「俺の名義だが、自由に使っていい。初任給の時から、毎月少しずつ運用に回して、増やしてきた。一生添い遂げる人ができた時のために、貯めてきたんだ」

「増やしたって・・・」

私が不安そうな顔をすると、彼は歯を見せて、更に笑った。

「大丈夫、変なことはしてない。普通の投資だ。独学でな」

「マンション買ったお金は?」

「それは、別に貯めたヤツから出した」

「えー・・・」

驚きすぎて、もはや「えー」しか出てこない。

私の知らないところで、大金が・・・こんなに、こんなに・・・。

通帳に印字された数字を、しげしげと眺めた。

多波さんは肉体派だと思っていた。だから余計に驚いた。まさか、数字もできる肉体派だったとは・・・。

そういえば、彼は物欲がほぼ無い。衣食住、すべて必要最低限の支出だ。だから、こんなに貯まったのかな。すごいな・・・。家事も貯金もできるなんて。もう、いっそ神々しい。目の前のマッチョに、後光が差す。

「えっと、多波さん。ひとまず、貯金でいいかな?」

「ははっ、望らしいな」

「ふふっ、大事にするね」

私が通帳を閉じると、彼は立ち上がってベランダに歩み寄り、窓を開け放った。

涼やかな風が部屋に舞い込む。萌黄色のカーテンが躍動するように広がり、弧を描きながら、くるくると形を変えていく。はためくカーテンの隣で、多波さんが微笑みながら、手招きをしている。

「いい眺めだ」

彼のそばへ寄って、窓の外を見た。傾きはじめた午後の日差しが、街をゆっくりとオレンジ色に染め上げていくところだった。閑静な住宅、古い商店街、空に伸びる雲底、全てが目にしみるようなオレンジ色に変わっていく。遠くには都心のビル群。赤や黄の光を発していて、星ようにキラキラと瞬いている。

「きれい・・・」

私が呟くと、多波さんは肩を抱き寄せた。

「この辺はあまり高い建物がないから、遠くまで見えるんだ」

私は大きな体に寄りかかり、視線を上げた。多波さんと目が合う。彼の瞳は、街と同じオレンジ色に染まり、水面のように揺らめいている。穏やかで美しい海のような眼差しだった。

「多波さん、いつ引っ越そうか?」

「そうだな、なるべく早く」

「じゃあ、来週」

「いいぞ。急がないとな。婚姻届けも出そう」

「そうだね。会社とか、友達とか、あっちこっちに知らせて、手続きもして。忙しくなるね」

「ああ」

「「ふふふ」」

スクラップブックと同じ風景の中で、笑い合った。

一週間後、私達はこのマンションに引っ越し、籍を入れた。
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