12 / 32
12.変わらないモノ
しおりを挟む
目が覚めると、電車の中だった。
座席に座っているうちに、すっかり寝こけてしまったようだ。大きな窓ガラスの向こうを、青々とした田んぼが流れている。
ガタン・・・ガタン・・・
なだらかな車両の揺れ。心地よいリズムが、私を夢の中に引き戻していく。
ドスン!
肩に何かぶつかった。横を向くと、多波さんが私の肩にもたれかかっていた。肩をするりと抜けて、彼の頭が目の前に下りてくる。
顎の下に剃り残した髭、大きい瞼、ゴツゴツした鼻。
・・・何年経っても、作りは変わらないんだな。
ぼんやりと思った。唯一変わったのは、多波さんの頭に、白髪がチラホラ生えてきた事だろうか。彼はとても気にしていた。「そのままでいいよ」と言って抱きしめたら、途端に泣き始めるから、焦ったっけ・・・。
多波さんの頭を、そっと自分の膝に乗せた。膝枕の状態。
車内は私達だけだし・・・たまには、いっか。
そっと彼の頭を撫でると、優しい匂いが鼻先をくすぐった。不意に、彼の瞼が開いた。ハッと目を見開いたかと思うと、今度は、ぱちくりさせている。自分の状況を、判断しかねているようだった。やがて、分かったらしく・・・
ガバッ!!
飛び起きた。
「ごめん、望。重かったよな」
望?・・・一瞬、誰かと思った。そうだ、私の名前だ。
どうも多波さんに名前で呼ばれるのは、慣れない。・・・というか、苗字すら殆ど呼ばれなかったような。
「これ、食う?」「何が好き?」「どっちがいい?」
いつも主語がないんだよ、多波さんは。
「○○駅、○○駅」
車内アナウンスが、目的地に到着したことを告げた。多波さんは、網棚の大きなリュックを背負って紙袋を持つと、私に手を差し伸べた。
「行こうか」
彼の手に引き上げられるようにして、私は席から立ち上がった。手を繋いでホームに降りる。今日は快晴。眼下には、どこまでも続く田園。青々とした稲の穂が、風に吹かれて鳴っている。
艶やかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら、空に両手を突き上げて、思いっきり背伸びをした。
「気持ちいい~」
ふと多波さんを見ると、こちらに背を向けて、コソコソとスマホをいじっていた。私は悪い笑みを浮かべて、背を丸めた。彼の死角に潜り込み、大きな手から、スマホをスッと抜き取った。途端に慌てふためく彼。
「あ!返してくれ!」
「ダメだよ。歩きたいって、言ったじゃない」
スマホの画面には、タクシー会社の電話番号が並んでいた。
「でも、遠いぞ。万が一・・・」
「大丈夫だって。も~、本当に心配性なんだから」
多波さんにスマホを返した後、私は強引に彼の手を取り、指を絡めた。恋人繋ぎで田んぼ道を歩いていく。
田園風景を楽しみながら40分ほど歩いて、目的地に到着した。二階建ての大きな日本家屋。立派な庭がついている。庭の入口に進むと、色とりどりの花が出迎えてくれた。花々を通り過ぎ、玄関に向かう。鯉の泳ぐ池、風格のある松、苔むした石灯籠。珍しくて、ついキョロキョロしてしまう。玄関の呼び鈴を鳴らすと、すぐに戸が開いた。
「いらっしゃい」
黒髪ロングの美しい女性が、笑顔で迎えてくれた。FS会のリーダー、サラだ。彼女は私達を見て、一瞬、目を見張ったけれど、やがて穏やかに微笑んだ。サラの後ろから、髭を生やした恰幅のいい男が、廊下をのしのしと踏みしめやってきた。
「初めまして。こんなところまで、疲れたでしょう。上がって、上がって」
サラの旦那さんだ。気さくな笑顔で多波さんと私を歓迎してくれた。
「「こんにちは!」」
旦那さんの後ろから、可愛らしい男の子と女の子が、ぴょこんと顔を出す。サラの子供達だ。
「ねぇねぇ、お土産ある?」
「あるよ、チョコレート好き?」
「好き好き!チョー大好き!」
多波さんが持っていた紙袋を渡してあげると、子供たちは、大はしゃぎで二階へ駆け上がっていった。
「こら!お菓子は、ご飯の後よ!」
サラは小さい背中を叱りつけると、腕を組んで口元を歪めた。
「も~、お行儀が悪くて困っちゃう」
「今、渡したら、まずかったね。ゴメンね」
「ううん、大丈夫よ」
「大学時代の友達なんだって?サラと同じ、文学部なの?」
旦那さんに尋ねられて、私は固まった。冷や汗が頬をつたう。
「ええ、まぁ・・・」
・・・ごめんなさい、旦那さん。私は、別の大学です。
心の中で、謝った。
「こっちよ」
サラはそう言うと、客間に案内してくれた。襖を開けると広い和室だった。天然木でできた飴色の大きな座卓に、藍色の座布団が4つ、座卓にはお茶とお菓子が用意してある。
「三人だけで話しても、いいかしら?」
「もちろんだよ」
サラの要望に、旦那さんはニッコリ笑ってOKした。
「お父さん!みてみて!」
二階から、子供たちの声がする。
「はいはーい、今行く!」
子供たちに急き立てられ、旦那さんは二階に上がっていった。
サラは和室の襖を閉めると、キョロキョロと辺りを見回した。他の襖が開いていないか、確認しているようだった。それが終わると、彼女は私達に向き直った。
私は息を飲んだ。彼女の表情に。唇を震わせ、目に涙を溜めている。スッと一筋、涙が頬を伝う。
「多波・・・」
サラはさめざめと泣いた。こぼれ落ちる涙を手でぬぐうと、濡れた頬に穏やかな笑みを浮かべて、多波さんに尋ねた。
「・・・本当に・・・アナタなの?」
「ああ」
多波さんは、微笑みを湛えていた。優しさと慈愛にあふれ、どこまでも晴れ渡る青空のような微笑み。
以前の彼は、眉間にシワを寄せてへの字口が、お決まりだったのに・・・今では別人のようだ。
奇跡のような変貌を遂げた彼を、サラはただ見つめていた。
多波さんの病状は、何年もの間、一進一退を繰り返していた。けれど、ある時、突然。それは終わりを迎えた。本当に、唐突に、飛躍的に回復していったのだ。
情欲の波に溺れていた多波さんは、荒波を泳ぐ術を身につけ、
そして、ついに・・・
陸に上がったのだ。
悪魔の彼は姿を消し、優しい彼だけがここに留まった。
サラは多波さんに歩み寄ると、頬へと手を伸ばし、瞳に彼を映しながら、言葉にならない何かを呟いていた。指が頬に触れるかと思ったけれど、寸前で下ろされる。
多波さんはその場で正座をして、首を垂れた。俗に言う、土下座。
「本当に迷惑ばかりかけた。許して欲しいとは、言わない。謝罪だけでも、させてもらえないだろうか」
サラも、深々と彼に土下座をした。
「こちらこそ、今までの非礼をどうかお許しください」
私だけ立っているのも、おかしいので、正座をした。二人の土下座が終わると、サラは私に飛びついた。
「多波を救ってくれて、本当に・・・ありがとう」
顔をぐしゃぐしゃにして泣くサラを、私はそっと抱き寄せて、頭を撫でた。
「別に、救ってないよ。多波さんは、自分で陸に上がったんだよ。私はただ、多波さんの側にいただけ・・・」
かつて、多波さんを治療しようと、三年粘った女性がいた。それは紛れもない、サラのことだった。三年間、多波さんと寝食を共にした彼女は、ボロボロになった。そして苦肉の策として、あのFS会を彼に提案したのだった。
初めは、彼女を敵と思っていた。でも「多波さんと一緒に暮らす」と伝えた時に、気がついた。口は悪かったけれど、彼女は私を心配してくれていたのだ。
「もう自分のように、ボロボロになる女性を見たくなかった」
と、彼女は後で言っていた。
多波さんとの生活に疲れて、私が自殺未遂を起こした時、真っ先に彼女は駆けつけてくれた。「なんでも、力になるから」と、手を握りしめ泣いてくれた。私は彼女に、FS会を解散するように頼んだ。彼女は一瞬ためらったけれど、私が望むならと、すぐに解散してくれた。彼女は、多波さんを憎んでいたけれど、同じくらい愛していたのだ。
FS会が解散するにあたり、トラブルが起きないかと気を揉んだけれど、それも稀有だった。夜道で刺される、家に火をつけられる、なんていう物騒な事は、一つもなかった。穏やかに解散できたのは、みんなが、多波さんを愛していたからだと思う。
サラはFS会の解散後も、私を気にかけてくれた。私に色々な本を貸してくれた。心理学、医学、生物学、社会学、法学、なんでも。FS会の応接間に、ずらっと並んでいた本だった。多波さんと暮らしていた時に、集めたモノだという。
彼女は私に、とっておきのノートをくれた。多波さんの病状を書き留めたノートだ。それが、とても励みになった。私が辛くて夜中に電話をしても、サラ黙って話を聞いてくれた。彼女は、いつも私を支えてくれた。
という訳で、多波さんとの地獄生活を乗り越えられたのは、彼女の尽力が大きかった。初めて会った時は、敵だったけれど、今では盟友だ。
「正直、妬けちゃうわ・・・」
サラは、笑顔で言った。
「えへへ・・・なんだか照れるね、多波さん」
私と多波さんは、顔を見合わせた。
「・・・なぁ、望」
多波さんが、おずおずと言う。
「その・・・多波っていうの、そろそろ、やめないか?同じ多波だろ・・・」
「あはは。ごめんね、誠一さん。ついね、癖で・・・えへへ・・・」
「誠一さん」という言葉を聞いて、多波さんの顔は、真っ赤になった。
「2人とも結婚おめでとう。それから赤ちゃんも。」
サラは、にっこり笑って両手を合わせた。
そう。私は今、妊娠7カ月だ。お腹が、こんもりと膨らんでいる。
結婚出産・・・もうしないかなぁと、思っていたけれど、誠一さんの病状が落ち着いて、私達は籍を入れることにした。子供はどうしようかと、散々悩んだけれど、彼が欲しいと言ってくれたので、そうすることにした。
結婚後、すぐに妊娠した。妊娠を知った時の誠一さんは、そりゃあ、もう・・・言わなくても分かるよね。
「はー、高齢出産かぁ・・・やっぱり不安だよー」
これから待ち受ける嬉しい試練に、私は思いを馳せた。
「大丈夫よ。私が色々教えてあげるから、まかせて!」
サラは、ノリノリだ。
「お古のベビー服出してあるから、選んでいって。性別どっちだっけ?」
「女の子だ」
すかさず、誠一さんが答える。
三人でベビー服を選んだ。それから、皆んなでご飯を食べて、皆んなで笑った。
この10年で、色々なモノが変わった。私も、サラも、誠一さんも・・・。
誠一さんと過ごした古ぼけたアパートは、老朽化で取り壊しになった。今は、引っ越してマンションに住んでいる。綺麗なテーブルと椅子、新調したカーテン、広くなった部屋、本当に何もかも変わった。
あ。
そうそう、
変わっていないモノが、一つだけある。
あの甘ったるい恋愛小説。
あの本は、今も本棚に並んでいる。
*おわり*
最後までお読み下さり、ありがとうございました。
番外編も、もしご興味ありましたら、お付き合い下さい。
※多波の病について
アイディアの元となった病はありますが、彼の体質、症状、心理状態、回復の流れなど、病に関する作中の内容は、全てフィクションです。多波の病は、完全なファンタジーです。現実の病とは、全く関係がありませんので、混同されないようお願い致します。
座席に座っているうちに、すっかり寝こけてしまったようだ。大きな窓ガラスの向こうを、青々とした田んぼが流れている。
ガタン・・・ガタン・・・
なだらかな車両の揺れ。心地よいリズムが、私を夢の中に引き戻していく。
ドスン!
肩に何かぶつかった。横を向くと、多波さんが私の肩にもたれかかっていた。肩をするりと抜けて、彼の頭が目の前に下りてくる。
顎の下に剃り残した髭、大きい瞼、ゴツゴツした鼻。
・・・何年経っても、作りは変わらないんだな。
ぼんやりと思った。唯一変わったのは、多波さんの頭に、白髪がチラホラ生えてきた事だろうか。彼はとても気にしていた。「そのままでいいよ」と言って抱きしめたら、途端に泣き始めるから、焦ったっけ・・・。
多波さんの頭を、そっと自分の膝に乗せた。膝枕の状態。
車内は私達だけだし・・・たまには、いっか。
そっと彼の頭を撫でると、優しい匂いが鼻先をくすぐった。不意に、彼の瞼が開いた。ハッと目を見開いたかと思うと、今度は、ぱちくりさせている。自分の状況を、判断しかねているようだった。やがて、分かったらしく・・・
ガバッ!!
飛び起きた。
「ごめん、望。重かったよな」
望?・・・一瞬、誰かと思った。そうだ、私の名前だ。
どうも多波さんに名前で呼ばれるのは、慣れない。・・・というか、苗字すら殆ど呼ばれなかったような。
「これ、食う?」「何が好き?」「どっちがいい?」
いつも主語がないんだよ、多波さんは。
「○○駅、○○駅」
車内アナウンスが、目的地に到着したことを告げた。多波さんは、網棚の大きなリュックを背負って紙袋を持つと、私に手を差し伸べた。
「行こうか」
彼の手に引き上げられるようにして、私は席から立ち上がった。手を繋いでホームに降りる。今日は快晴。眼下には、どこまでも続く田園。青々とした稲の穂が、風に吹かれて鳴っている。
艶やかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら、空に両手を突き上げて、思いっきり背伸びをした。
「気持ちいい~」
ふと多波さんを見ると、こちらに背を向けて、コソコソとスマホをいじっていた。私は悪い笑みを浮かべて、背を丸めた。彼の死角に潜り込み、大きな手から、スマホをスッと抜き取った。途端に慌てふためく彼。
「あ!返してくれ!」
「ダメだよ。歩きたいって、言ったじゃない」
スマホの画面には、タクシー会社の電話番号が並んでいた。
「でも、遠いぞ。万が一・・・」
「大丈夫だって。も~、本当に心配性なんだから」
多波さんにスマホを返した後、私は強引に彼の手を取り、指を絡めた。恋人繋ぎで田んぼ道を歩いていく。
田園風景を楽しみながら40分ほど歩いて、目的地に到着した。二階建ての大きな日本家屋。立派な庭がついている。庭の入口に進むと、色とりどりの花が出迎えてくれた。花々を通り過ぎ、玄関に向かう。鯉の泳ぐ池、風格のある松、苔むした石灯籠。珍しくて、ついキョロキョロしてしまう。玄関の呼び鈴を鳴らすと、すぐに戸が開いた。
「いらっしゃい」
黒髪ロングの美しい女性が、笑顔で迎えてくれた。FS会のリーダー、サラだ。彼女は私達を見て、一瞬、目を見張ったけれど、やがて穏やかに微笑んだ。サラの後ろから、髭を生やした恰幅のいい男が、廊下をのしのしと踏みしめやってきた。
「初めまして。こんなところまで、疲れたでしょう。上がって、上がって」
サラの旦那さんだ。気さくな笑顔で多波さんと私を歓迎してくれた。
「「こんにちは!」」
旦那さんの後ろから、可愛らしい男の子と女の子が、ぴょこんと顔を出す。サラの子供達だ。
「ねぇねぇ、お土産ある?」
「あるよ、チョコレート好き?」
「好き好き!チョー大好き!」
多波さんが持っていた紙袋を渡してあげると、子供たちは、大はしゃぎで二階へ駆け上がっていった。
「こら!お菓子は、ご飯の後よ!」
サラは小さい背中を叱りつけると、腕を組んで口元を歪めた。
「も~、お行儀が悪くて困っちゃう」
「今、渡したら、まずかったね。ゴメンね」
「ううん、大丈夫よ」
「大学時代の友達なんだって?サラと同じ、文学部なの?」
旦那さんに尋ねられて、私は固まった。冷や汗が頬をつたう。
「ええ、まぁ・・・」
・・・ごめんなさい、旦那さん。私は、別の大学です。
心の中で、謝った。
「こっちよ」
サラはそう言うと、客間に案内してくれた。襖を開けると広い和室だった。天然木でできた飴色の大きな座卓に、藍色の座布団が4つ、座卓にはお茶とお菓子が用意してある。
「三人だけで話しても、いいかしら?」
「もちろんだよ」
サラの要望に、旦那さんはニッコリ笑ってOKした。
「お父さん!みてみて!」
二階から、子供たちの声がする。
「はいはーい、今行く!」
子供たちに急き立てられ、旦那さんは二階に上がっていった。
サラは和室の襖を閉めると、キョロキョロと辺りを見回した。他の襖が開いていないか、確認しているようだった。それが終わると、彼女は私達に向き直った。
私は息を飲んだ。彼女の表情に。唇を震わせ、目に涙を溜めている。スッと一筋、涙が頬を伝う。
「多波・・・」
サラはさめざめと泣いた。こぼれ落ちる涙を手でぬぐうと、濡れた頬に穏やかな笑みを浮かべて、多波さんに尋ねた。
「・・・本当に・・・アナタなの?」
「ああ」
多波さんは、微笑みを湛えていた。優しさと慈愛にあふれ、どこまでも晴れ渡る青空のような微笑み。
以前の彼は、眉間にシワを寄せてへの字口が、お決まりだったのに・・・今では別人のようだ。
奇跡のような変貌を遂げた彼を、サラはただ見つめていた。
多波さんの病状は、何年もの間、一進一退を繰り返していた。けれど、ある時、突然。それは終わりを迎えた。本当に、唐突に、飛躍的に回復していったのだ。
情欲の波に溺れていた多波さんは、荒波を泳ぐ術を身につけ、
そして、ついに・・・
陸に上がったのだ。
悪魔の彼は姿を消し、優しい彼だけがここに留まった。
サラは多波さんに歩み寄ると、頬へと手を伸ばし、瞳に彼を映しながら、言葉にならない何かを呟いていた。指が頬に触れるかと思ったけれど、寸前で下ろされる。
多波さんはその場で正座をして、首を垂れた。俗に言う、土下座。
「本当に迷惑ばかりかけた。許して欲しいとは、言わない。謝罪だけでも、させてもらえないだろうか」
サラも、深々と彼に土下座をした。
「こちらこそ、今までの非礼をどうかお許しください」
私だけ立っているのも、おかしいので、正座をした。二人の土下座が終わると、サラは私に飛びついた。
「多波を救ってくれて、本当に・・・ありがとう」
顔をぐしゃぐしゃにして泣くサラを、私はそっと抱き寄せて、頭を撫でた。
「別に、救ってないよ。多波さんは、自分で陸に上がったんだよ。私はただ、多波さんの側にいただけ・・・」
かつて、多波さんを治療しようと、三年粘った女性がいた。それは紛れもない、サラのことだった。三年間、多波さんと寝食を共にした彼女は、ボロボロになった。そして苦肉の策として、あのFS会を彼に提案したのだった。
初めは、彼女を敵と思っていた。でも「多波さんと一緒に暮らす」と伝えた時に、気がついた。口は悪かったけれど、彼女は私を心配してくれていたのだ。
「もう自分のように、ボロボロになる女性を見たくなかった」
と、彼女は後で言っていた。
多波さんとの生活に疲れて、私が自殺未遂を起こした時、真っ先に彼女は駆けつけてくれた。「なんでも、力になるから」と、手を握りしめ泣いてくれた。私は彼女に、FS会を解散するように頼んだ。彼女は一瞬ためらったけれど、私が望むならと、すぐに解散してくれた。彼女は、多波さんを憎んでいたけれど、同じくらい愛していたのだ。
FS会が解散するにあたり、トラブルが起きないかと気を揉んだけれど、それも稀有だった。夜道で刺される、家に火をつけられる、なんていう物騒な事は、一つもなかった。穏やかに解散できたのは、みんなが、多波さんを愛していたからだと思う。
サラはFS会の解散後も、私を気にかけてくれた。私に色々な本を貸してくれた。心理学、医学、生物学、社会学、法学、なんでも。FS会の応接間に、ずらっと並んでいた本だった。多波さんと暮らしていた時に、集めたモノだという。
彼女は私に、とっておきのノートをくれた。多波さんの病状を書き留めたノートだ。それが、とても励みになった。私が辛くて夜中に電話をしても、サラ黙って話を聞いてくれた。彼女は、いつも私を支えてくれた。
という訳で、多波さんとの地獄生活を乗り越えられたのは、彼女の尽力が大きかった。初めて会った時は、敵だったけれど、今では盟友だ。
「正直、妬けちゃうわ・・・」
サラは、笑顔で言った。
「えへへ・・・なんだか照れるね、多波さん」
私と多波さんは、顔を見合わせた。
「・・・なぁ、望」
多波さんが、おずおずと言う。
「その・・・多波っていうの、そろそろ、やめないか?同じ多波だろ・・・」
「あはは。ごめんね、誠一さん。ついね、癖で・・・えへへ・・・」
「誠一さん」という言葉を聞いて、多波さんの顔は、真っ赤になった。
「2人とも結婚おめでとう。それから赤ちゃんも。」
サラは、にっこり笑って両手を合わせた。
そう。私は今、妊娠7カ月だ。お腹が、こんもりと膨らんでいる。
結婚出産・・・もうしないかなぁと、思っていたけれど、誠一さんの病状が落ち着いて、私達は籍を入れることにした。子供はどうしようかと、散々悩んだけれど、彼が欲しいと言ってくれたので、そうすることにした。
結婚後、すぐに妊娠した。妊娠を知った時の誠一さんは、そりゃあ、もう・・・言わなくても分かるよね。
「はー、高齢出産かぁ・・・やっぱり不安だよー」
これから待ち受ける嬉しい試練に、私は思いを馳せた。
「大丈夫よ。私が色々教えてあげるから、まかせて!」
サラは、ノリノリだ。
「お古のベビー服出してあるから、選んでいって。性別どっちだっけ?」
「女の子だ」
すかさず、誠一さんが答える。
三人でベビー服を選んだ。それから、皆んなでご飯を食べて、皆んなで笑った。
この10年で、色々なモノが変わった。私も、サラも、誠一さんも・・・。
誠一さんと過ごした古ぼけたアパートは、老朽化で取り壊しになった。今は、引っ越してマンションに住んでいる。綺麗なテーブルと椅子、新調したカーテン、広くなった部屋、本当に何もかも変わった。
あ。
そうそう、
変わっていないモノが、一つだけある。
あの甘ったるい恋愛小説。
あの本は、今も本棚に並んでいる。
*おわり*
最後までお読み下さり、ありがとうございました。
番外編も、もしご興味ありましたら、お付き合い下さい。
※多波の病について
アイディアの元となった病はありますが、彼の体質、症状、心理状態、回復の流れなど、病に関する作中の内容は、全てフィクションです。多波の病は、完全なファンタジーです。現実の病とは、全く関係がありませんので、混同されないようお願い致します。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
女子大生家庭教師・秘密の成功報酬
芦屋 道庵 (冷月 冴 改め)
恋愛
弘前さくらは、大手企業・二村建設の専務の家に生まれた。何不自由なく育てられ、都内の国立大学に通っていたが、二十歳になった時、両親が飛行機事故で亡くなった。一転して天涯孤独の身になってしまったさくらに、二村建設社長夫人・二村玲子が救いの手を差し伸べる。二村の邸宅に住み込み、一人息子で高校三年の悠馬の家庭教師をすることになる。さくらと悠馬は幼なじみで、姉と弟のような存在だった。それを受けたさくら。玲子はさらに、秘密のミッションを提示してきた……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
管理人さんといっしょ。
桜庭かなめ
恋愛
桐生由弦は高校進学のために、学校近くのアパート「あけぼの荘」に引っ越すことに。
しかし、あけぼの荘に向かう途中、由弦と同じく進学のために引っ越す姫宮風花と二重契約になっており、既に引っ越しの作業が始まっているという連絡が来る。
風花に部屋を譲ったが、あけぼの荘に空き部屋はなく、由弦の希望する物件が近くには一切ないので、新しい住まいがなかなか見つからない。そんなとき、
「責任を取らせてください! 私と一緒に暮らしましょう」
高校2年生の管理人・白鳥美優からのそんな提案を受け、由弦と彼女と一緒に同居すると決める。こうして由弦は1学年上の女子高生との共同生活が始まった。
ご飯を食べるときも、寝るときも、家では美少女な管理人さんといつもいっしょ。優しくて温かい同居&学園ラブコメディ!
※特別編10が完結しました!(2024.6.21)
※お気に入り登録や感想をお待ちしております。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
カナリア
春廼舎 明
恋愛
ちやほやされて、サクセスストーリーやシンデレラストーリーに乗る女の子たちが羨ましい、妬ましい。
そう思うのは、努力してる私こそむくわれるべきという不満の現れ傲慢の塊なんだろうか。
手に入れても、掴んだと思った途端指の間からこぼれ落ちていく。
仲間に恵まれないのは仲間をつなぎとめておけない自分のせいなのか。
外から見たらありふれたシンデレラストーリー。自分の目で見ればまた違って見えると気がついた。
※閑話含め全50話です。(49+1)
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる