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8.多波の本当の気持ち

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裸足のまま電車に乗り、終点に着くと、多波さんのアパートに急いだ。

足には血が滲んでいる。でも、不思議と痛みはない。そのまま、全速力で走った。

サラには午前10時を指定されたけれど、もう午後10時だ。スタンガンはない。そんな物いらない。

アパートに着く頃には、体は汗でびっしょりと濡れ、肌にブラウスが張り付いていた。一階から多波さんの部屋を見上げると、明かりがついていなかった。それでもかまわず階段を駆け上がる。

「はぁ、はぁ、はぁ・・・ふぅー・・・」

玄関ドアの前で乱れた息を整えた後、意を決してインターホンを鳴らした。古びたドアが不気味な音を立てて、ゆっくりと開く。

ギィー・・・

室内は真っ暗だった。何も見えない。目を凝らしていると、何かが光った。目だ。多波さんの目。ギラギラとした瞳が、私を映している。その目を見て、ハッとした。

・・・サラに、すがっていた時と・・・同じ目だ

漆黒の中に、荒々しい息遣いが響く。大きな影が、肩を震わせ迫ってくる。

・・・怖い。

いつもの・・・多波さんじゃない。

恐怖で後ずさった。なんとか踏みとどまろうと、足を一歩踏み出した、瞬間――

真っ暗な部屋から、大きな手が生えてきた。私の腕を掴む。身体が部屋に呑まれる。視界が跳ねる。意識が千切れ――

ブツッ!

ブラックアウト。

ハッと我に返ると、私の身体は、多波さんの腕に締め上げられていた。

ミシミシ

骨が鳴る。

「いっー!」

ドン!

大きな音がして、全身に衝撃が走った。目を開いているはずなのに、真っ暗で何も見えない。体がどうなっているのか、全く分からない。

痛い、痛い、痛いーーー

ただ、それだけ。

暗闇の中で、私の意識は遠のいていった。

****

・・・いつの間にか、水中を漂っていた。

海だ。
海の中にいる。

一面の青に、私は包まれていた。

体は、どんどん海底に沈んでいく。

早く上がらないと・・・

そう思ったけれど、指一本動かない。

少し開いている口から無数の泡がこぼれ、視界を濁していく。鼻や口から海水が入り込み、体内に満ちていく。

・・・苦しい・・・息ができない

でも

なぜか冷静だった。

水面が、キラキラ光っている。

宝石みたい・・・

口からこぼれた泡が、煌めく水面に吸い寄せられていく。

「・・・ハァ・・・ハァ」

誰かの息遣い。

聞こえる。静かに叫ぶような呼吸が。

・・・誰?

「・・・ウッ・・・ッ」

・・・多波さん?

多波さんの呼吸だ。

不規則で、荒々しい。息を吸っても肺に落ちない、吐いても息は出てこない。そんな風に感じた。

・・・苦しそう

・・・息ができないの?・・・吸えないの?

これじゃ

まるで・・・

・・・溺れているみたい。


そうか・・・

溺れているのは、私だけじゃないんだ。

多波さんも・・・


・・・溺れているんだ。

そこで、意識は途切れた。

***

目が覚めると、ベットの上だった。窓から朝日が降り注いでいる。多波さんの部屋だ。いつも通り、私はブカブカのパジャマを着ている。

ふと、自分の手首を見た。丁寧に包帯が巻いてある。掛け布団をめくって体を確認すると、全身に手当ての跡があった。

多波さんは私の手を握ったまま、ベッドに跪くようにして眠っている。握られている手の横に、彼のスマホが置いてあった。触れてみる。ロックがかかっていない。ためらわずにホーム画面を開く。カレンダーを表示すると、スケジュールが入っていた。

昨日、そう・・・、25日。25日の前日は、会社に泊まっている。この前、私がサラに会った日は?その前日も・・・会社に泊まっている。

サラの言葉が蘇った。

「多波は、シてないと生きていけないのよ」

「多波は、私だから執着してる訳じゃないの」

・・・なるほど、そういうことか。

サラはムカつくけど、腑に落ちた。

「多波は悪魔よ」

サラは言っていた。昨日、まぎれもない悪魔を見た。

たくさんの女と関係をもち、乱暴な行為に走る多波さん。私を優しく受け止めて、癒してくれる多波さん。

どっちも、多波さんだ。

でも、・・・本当の多波さんは、どっち?

どっちに、彼の本心がある?

私は目を閉じて、思考を巡らせた。

もし、多波さんが本当に悪魔で、女なら誰でもいいと思っていたら?FS会だけで十分だ。

私を電車で呼び止めたのは、なぜ?自分で女を捕まえたかったから?捕まえることに、喜びを感じているなら、私以外にも部外者がいるはずだ。いや・・・もしかしたら、これから捕まえようとしていた?

もし、

なぜ、

もし、

なぜ、

頭の中で、仮説を並べ立てる。

ひとしきり並べ終えると、ため息が漏れた。

「・・・バカだ、私」

仮説なんて、なんの意味もない。結局のところ、私の信じたいものしか、私は信じられないんだから・・・。

私は、彼の手を自分からそっと離した。ベッドから降りる。立った瞬間、刺すような痛みが全身を襲い、足元が揺れた。それでも体を引きずって、本棚まで歩いた。

古ぼけた本棚には、ぎゅうぎゅうに文庫本が詰まっている。前と同じ。本棚から文庫本を一冊抜き取ると、その本は手からこぼれ落ち、床で跳ねた。はずみで書店のカバーがはずれ、どピンクの表紙が顔を出す。あの甘ったるい恋愛小説。拾い上げて、二、三行読んだ。

・・・やっぱり胸焼けがする。

でも・・・

この本を笑った事を、今はとても後悔してる。

だって、この本は・・・

唯一の希望だから。

本を握りしめ、ベッドの方に振り返ると、多波さんがこちらを向いて立っていた。目を覚ましたらしい。

酷い顔・・・

辛い、悲しい、怖い、ありとあらゆる負の感情が、ないまぜになったような表情だった。彼はこちらに歩み寄ると、震える腕でそっと私を抱きしめた。

「・・・すまなかった」

「・・・大丈夫です」

私は、できるだけ明るい声で言った。彼を心配させたくなかった。たくましい腕の中で、温もりを噛み締めた後、彼の抱擁をそっと解いた。

大丈夫

自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吸う。肺を膨らませて、心を奮い立たせる。

大丈夫

もう一度、心で呟く。

そして、多波さんを真っ直ぐに見据え、強い意志を込めて言い放った。

「多波さん、一生そばにいます」

彼の目が見開く。

ドクン

胸が弾む。

わざと間を開けてから、私は言葉を続けた。

「・・・って言ったら、どうしますか?」

多波さんの視線は空中を彷徨っている。何も答えない。私は自分の胸を鷲掴みにして、はやる心臓を押さえ付け、じっと待った。

沈黙が終わるその時を。

――そして、長い沈黙の後、彼は答えた。

「タチの悪い冗談だ」

いつも通りの声だった。

低く、淡々とした、いつもの声。

プツン

切れた。何かが。脳で。

体中に張り詰めていたモノが、バラバラになっていく。

・・・やっぱり・・・思い違いだったのか

心に黒いモヤが満ちていく。

多波さんは

・・・悪魔だった。

その事実が、心を埋め尽くしていく。

パタ

頬に、何か落ちてきた。

跳ねた。冷たい。

パタパタ

雫だ。

とめどなく、こぼれてくる。雨垂れのように、私の頬を何度も濡らしていく。

見上げると・・・

多波さんは、泣いていた。歯を食いしばり、泣いていた。

噛み殺していた声が、嗚咽に変わり、やがてその場に崩れ落ちた。大きな男が、肩を震わせ咽び泣いている。まるで、小さな子供だ。

うずくまり小さくなった彼を見て、私は確信した。

これが・・・

本当の多波さんだ・・・

心のモヤが一気に晴れていく。

私の信じたかった多波さんが、目の前にいた。

多波さん、多波さん、多波さん・・・

身体中から、愛しさが込み上げてくる。耐えきれなくなって、咽び泣く彼を優しく抱き寄せた。

そして彼の耳元で、きっぱりと告げた。

「私は本気です。」
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