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ヌーッティの秘密・前編

8.いつか見た真昼の悪夢

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 見渡す限り真っ白な空間が現れた。
 ぼんやりとした霧が満ちる空間にヌーッティは一人立っていた。
「ここはどこだヌー? トゥーリ、どこにいるヌー?」
 ヌーッティは一寸先も見えない場所を恐る恐る手探りで歩き始めた。
「トゥーリ? 返事して欲しいヌー。ヘルマンニはもういなくなったヌー? ヌ? ヘルマンニ? ヘルマンニって何だヌー?」
 そのとき、一陣の風が吹いた。
 たちまちのうちに周囲の霧が晴れた。
 すると、突如、目の前に急流が現れた。
 ぱしゃりと水面に水蛇が頭を出した。
 水蛇は川面から頭を出したり引っ込めたりしていた。
「泳げないヌー? ヌーが助けてあげるヌー!」
 ヌーッティは川岸へ駆け寄り、川の中へ手を入れた。
 水蛇は身をくねらせ、ヌーッティの手からするりと体を脱した。
「もしかして、水蛇さんは遊びたいヌー? わかったヌー! ヌーが一緒に遊んであげるヌー!」
 そう言ってヌーッティは何度も水面をぱしゃぱしゃと叩いた。
 水蛇は身をよじってヌーッティの手をかわした。
 そして、ついにヌーッティが水蛇を両手で捕まえたときであった。
「そこで何をしている⁈」
 しゃがれた男性の声がして、ヌーッティは顔を上げた。
 見れば、対岸に、長い白髪を後ろで一つに結った老男性が一人いた。
 老人は弓を肩に掛け、腰に長剣を携えていた。
 老狩人の鋭く険しい目がヌーッティに据えられた。
「俺の水蛇に何をしていると訊いてるんだ!」
 ヌーッティは首を傾げると、
「誰だヌー? ヌーは水蛇さんと遊んでいるヌー。一緒に遊びたいヌー?」
 いつもの調子で尋ねた。
「おい! 小熊! 水蛇が嫌がっているだろう⁈ その手を引っ込めろ!」
 老狩人は厳しい口調でヌーッティに言った。
 ヌーッティはその老狩人の態度に苛立った。
「何で偉そうなんだヌー? ヌーは水蛇さんと遊んでるだけだヌー! 一緒に遊びたいなら、ちゃんと『遊んでもいい?』って言うヌー!」
 そのヌーッティの言動に、老狩人は激怒した。
「この小熊! 俺があのマルカハットゥと知ってて言っているのか⁈」
 老狩人マルカハットゥは言いながら弓を手に取り、背負っている矢筒から矢を取った。
 弓に矢をつがえたマルカハットゥは、
「いい加減にしろよ! 今すぐ止めないと射貫くぞ⁈」
 弦を引き絞り、ヌーッティに警告した。
 ヌーッティは不愉快極まりないといった面持ちで、水蛇を川へ放り入れた。
「ヌーは、ただ水蛇さんと遊んでただけだヌー! それに人間は熊に矢を向けちゃだめだって決まってるヌー! 失礼だヌー!」
 マルカハットゥは舌打ちをすると、
「度しがたい熊め! 冥府トゥオネラへ送ってやる!」
 言い終えるが早いか、矢をヌーッティへ向けて放った。
 矢は真っ直ぐに宙を突き進んだ。
 ヌーッティは既視感を抱いた。
 これまでの状況とこれから起こる帰結がヌーッティの脳内になだれ込んできた。
 やじりがヌーッティの額に突き刺さるまさにその瞬間、
「嫌だヌーっ!」
 ヌーッティは自身の耳に、自身の声が大音量で流れ込んできたのを感じた。
 ぱんっと風船が破裂するかのように、混濁していたヌーッティの意識が明瞭になった。
 ヌーッティははっとして起き上がり、辺りを見回した。
 そこには急流もなければ、老狩人のマルカハットゥもいなかった。
 ヘルマンニの術から脱したヌーッティの瞳に映ったものは、魔物ヘルマンニと、それに記憶を食べられているトゥーリの姿であった。
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