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第一部: 終わりと始まりの日 - 第四章: 果てなき雲上の尾根にて
第十九話: 二人の悲しみ方
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風と雪が当たって微かに揺れる黒い毛を除けば、どのような動きを見せることもないベア吉。
その毛皮も普段の素晴らしい手触りを失い、大部分が焼け落ちてしまっていた。
前半身全体を覆っていた黒い岩鎧が僅かながら残っているが、その内側も含め真っ赤に爛れた火傷痕をさらしている。
倒れているベア吉の傍らまでカーゴを寄せ、サイドドアを大きく開放した。
「ベア吉……」
直にその様子を確認してみれば、予想以上に無惨な状態だ。
「ベア吉! おい、ベア吉!」
大声で呼びかけるも反応はない。僕は繰り返し、その名を呼び続ける。
「松悟さん、ベア吉はもう……」
「待ってくれ……ああ、そうだ! 手当てが先だ。急がなければ――」
「松悟さん!」
「……いや、うん、分かっている。大丈夫だ。まずは野営の準備だ。うん、こんな吹きさらしで手当てはかわいそうだよな」
「松悟さん……」
月子が僕の頭を胸元に抱き寄せて、言う。
「ベア吉は頑張りましたよ。休ませてあげましょう。松悟さんもまずは落ち着いて――」
「おちつく? 僕は落ち着いていないか?」
「いません。ここは私に任せて、少しだけ休んでいてください」
確かに、上手く頭が回っていない。状況がまるで頭に入ってきてはくれず、今、何をすべきか判断することができない。呑気に休んでいて好いわけがないと心では思いつつ、強ばった身体の力を抜けば、車内の床にへたり込んでしまう。すると、今度は頭の中が真っ白になり――。
気が付くと、カーゴは大きな岩室の中に停められており、車内の居住スペースの端に腰掛けた月子が車体パーツの修復をしている様子が目に入ってきた。
「……月子、僕はどのくらいぼーっとしてたかな?」
「まだ五分も経っていませんよ」
「そうか。ありがとう、なんとか落ち着けたみたいだよ」
まだ大きく開放されていたサイドドアの外にベア吉の姿が見える。
ピクリとも動かない、その意味を、今度はちゃんと理解できた。
「ベア吉は死んでしまったんだな」
「はい」
「僕たちに最後の一手をくれたのはベア吉だった」
「はい」
「すごい活躍だったな。立派だった。大した奴だ」
「はい」
「ほんのちょっと前まであんなに小さかった奴が……こんな……」
「……はい」
月子の作業を手伝いながら僕はベア吉のことを話し続け、僕の言葉に月子は手を動かしながら相づちを打ち続けてくれた。涙は流さずに済んだが、震えた鼻声では格好が付かない。それでも、こちらの様子に彼女は気付かないふりでずっと話を聞いていてくれたのだった。
さして時間も経たないうちに作業が一段落し、お互いの手が同時に止まってしまう。
僕は、最後にもう一度だけと、確認をする。
「本当に、もう何もしてやれることはないのだろうか。できるなら蘇生でも何でも……」
「既に呼吸も心臓も完全に止まっていました。あの傷では手の施しようも」
「もう確認してくれていたのか。すまない、僕は取り乱してしまい……、君が冷静で助かった」
「いえ、仕方のないことだと思います……。私は、よく分からないだけですから……」
「ん? 分からない?」
「死を悼むということが……でしょうか」
まったく似つかわしくない自嘲の表情で紡ぎ出された言葉に、僕は怪訝な顔をしてしまう。
いや、彼女が分かっていないはずはない。
確かに、僕のように無様に取り乱したりはせず、判断は普段と同じく冷静そのものである、が。
「それは違うな」
彼女の震える手を握り、潤みきった瞳を見つめて、僕は言う。
「松悟さん?」
「君が分かっていないのは、ちゃんとした悲しみ方みたいだ」
いつもの手際の良さとは比べものにならないほど、のろのろと作業をしていた月子。
作業の合間、すぐに手を止めてしまい、その度にちらちらとベア吉の方を窺ってもいた。
「感情と身体は悲しいと言っているように見えるよ。それほど心を律しているのは尊敬できるが」
「いえ、生き物が死ぬのは仕方のないことです。野生動物でも愛玩動物でもそれは変わりません。それに、私は……私はベア吉に、一番危険な役目を押し付けたのです……。悲しむなんて」
ああ、連日の防衛戦で傷ついていたベア吉にカーゴを牽いてもらう作戦を支持したことか。
だが、あれはベア吉が言い出したことだし、その後、光の玉に吹き飛ばされてしまったことや超特大火球に追い詰められてしまったこと――ベア吉の死の原因には直接関わりないはずだ。
結果的に見ても、あの場面で他に執れる手段はほとんどなかったように思われる。
いや、今回だけの話ではないのだろう。
元々、月子には物事を割りきり、何かにつけて達観しているようなところがあった。
それは視野の広さや咄嗟の冷静な判断力へと繋がる美点と言えるが、異世界へやって来てから、特に日常生活において豊かな感情を表すようになってきたことで、彼女の中で齟齬が生じてきたのかも知れない。
従うべき理性と理屈でも割りきれないほどの大きな感情を認められずにいる月子。
僕は、その体を抱き締めて言う。
「状況が落ち着いた今なら、思いっきり悲しんでも良いだろう。さっきは僕が情けないところを見せてしまったから、今度は君の番だな」
「私たちは……動物を解体して、お肉を食べて毛皮をまとって、そのお蔭で生きてこられました。……ベア吉とだって、出逢い方が違えばそうなって――」
「でも、そうはならなかった。ベア吉は敵でも獲物でもなく、最初からずっと僕たちを和ませ、助け、最後は自身の意志で生命さえ掛けて救ってくれた大切な仲間だよ」
その言葉にビクリと反応し、勢いよく僕の顔を見上げてきた月子の眼の中が、見る見るうちに透き通った涙で満たされていく。僕は一つ頷くと、彼女の顔をそっと自分の胸へと押し付けた。
「う、うああ~っ、松悟さん、私……」
「うん」
「私、ベア吉が好きでしたっ。ぐすっ、ああっ……ベア吉……!」
「うん……うん……」
もう随分といろいろな感情を見せてくれるようになってきた月子の貌だが、このときの僕は、彼女を抱き締めて胸を貸し、決してその泣き顔を見ないよう上だけを見続けていた。
まぁ、女性が悲しむ顔なんて、男が見ていて良いものじゃないだろう。
既にもう噴煙が吹き上がる轟音や地響きも聞こえてこない静まり返った岩屋の中、僕と月子は互いの顔を見ることも言葉を交わすこともなく、相手の身体の温かさだけをただ感じながら強く、強く抱き締め合い、失ってしまった大切な者のことを悼んだ。
その毛皮も普段の素晴らしい手触りを失い、大部分が焼け落ちてしまっていた。
前半身全体を覆っていた黒い岩鎧が僅かながら残っているが、その内側も含め真っ赤に爛れた火傷痕をさらしている。
倒れているベア吉の傍らまでカーゴを寄せ、サイドドアを大きく開放した。
「ベア吉……」
直にその様子を確認してみれば、予想以上に無惨な状態だ。
「ベア吉! おい、ベア吉!」
大声で呼びかけるも反応はない。僕は繰り返し、その名を呼び続ける。
「松悟さん、ベア吉はもう……」
「待ってくれ……ああ、そうだ! 手当てが先だ。急がなければ――」
「松悟さん!」
「……いや、うん、分かっている。大丈夫だ。まずは野営の準備だ。うん、こんな吹きさらしで手当てはかわいそうだよな」
「松悟さん……」
月子が僕の頭を胸元に抱き寄せて、言う。
「ベア吉は頑張りましたよ。休ませてあげましょう。松悟さんもまずは落ち着いて――」
「おちつく? 僕は落ち着いていないか?」
「いません。ここは私に任せて、少しだけ休んでいてください」
確かに、上手く頭が回っていない。状況がまるで頭に入ってきてはくれず、今、何をすべきか判断することができない。呑気に休んでいて好いわけがないと心では思いつつ、強ばった身体の力を抜けば、車内の床にへたり込んでしまう。すると、今度は頭の中が真っ白になり――。
気が付くと、カーゴは大きな岩室の中に停められており、車内の居住スペースの端に腰掛けた月子が車体パーツの修復をしている様子が目に入ってきた。
「……月子、僕はどのくらいぼーっとしてたかな?」
「まだ五分も経っていませんよ」
「そうか。ありがとう、なんとか落ち着けたみたいだよ」
まだ大きく開放されていたサイドドアの外にベア吉の姿が見える。
ピクリとも動かない、その意味を、今度はちゃんと理解できた。
「ベア吉は死んでしまったんだな」
「はい」
「僕たちに最後の一手をくれたのはベア吉だった」
「はい」
「すごい活躍だったな。立派だった。大した奴だ」
「はい」
「ほんのちょっと前まであんなに小さかった奴が……こんな……」
「……はい」
月子の作業を手伝いながら僕はベア吉のことを話し続け、僕の言葉に月子は手を動かしながら相づちを打ち続けてくれた。涙は流さずに済んだが、震えた鼻声では格好が付かない。それでも、こちらの様子に彼女は気付かないふりでずっと話を聞いていてくれたのだった。
さして時間も経たないうちに作業が一段落し、お互いの手が同時に止まってしまう。
僕は、最後にもう一度だけと、確認をする。
「本当に、もう何もしてやれることはないのだろうか。できるなら蘇生でも何でも……」
「既に呼吸も心臓も完全に止まっていました。あの傷では手の施しようも」
「もう確認してくれていたのか。すまない、僕は取り乱してしまい……、君が冷静で助かった」
「いえ、仕方のないことだと思います……。私は、よく分からないだけですから……」
「ん? 分からない?」
「死を悼むということが……でしょうか」
まったく似つかわしくない自嘲の表情で紡ぎ出された言葉に、僕は怪訝な顔をしてしまう。
いや、彼女が分かっていないはずはない。
確かに、僕のように無様に取り乱したりはせず、判断は普段と同じく冷静そのものである、が。
「それは違うな」
彼女の震える手を握り、潤みきった瞳を見つめて、僕は言う。
「松悟さん?」
「君が分かっていないのは、ちゃんとした悲しみ方みたいだ」
いつもの手際の良さとは比べものにならないほど、のろのろと作業をしていた月子。
作業の合間、すぐに手を止めてしまい、その度にちらちらとベア吉の方を窺ってもいた。
「感情と身体は悲しいと言っているように見えるよ。それほど心を律しているのは尊敬できるが」
「いえ、生き物が死ぬのは仕方のないことです。野生動物でも愛玩動物でもそれは変わりません。それに、私は……私はベア吉に、一番危険な役目を押し付けたのです……。悲しむなんて」
ああ、連日の防衛戦で傷ついていたベア吉にカーゴを牽いてもらう作戦を支持したことか。
だが、あれはベア吉が言い出したことだし、その後、光の玉に吹き飛ばされてしまったことや超特大火球に追い詰められてしまったこと――ベア吉の死の原因には直接関わりないはずだ。
結果的に見ても、あの場面で他に執れる手段はほとんどなかったように思われる。
いや、今回だけの話ではないのだろう。
元々、月子には物事を割りきり、何かにつけて達観しているようなところがあった。
それは視野の広さや咄嗟の冷静な判断力へと繋がる美点と言えるが、異世界へやって来てから、特に日常生活において豊かな感情を表すようになってきたことで、彼女の中で齟齬が生じてきたのかも知れない。
従うべき理性と理屈でも割りきれないほどの大きな感情を認められずにいる月子。
僕は、その体を抱き締めて言う。
「状況が落ち着いた今なら、思いっきり悲しんでも良いだろう。さっきは僕が情けないところを見せてしまったから、今度は君の番だな」
「私たちは……動物を解体して、お肉を食べて毛皮をまとって、そのお蔭で生きてこられました。……ベア吉とだって、出逢い方が違えばそうなって――」
「でも、そうはならなかった。ベア吉は敵でも獲物でもなく、最初からずっと僕たちを和ませ、助け、最後は自身の意志で生命さえ掛けて救ってくれた大切な仲間だよ」
その言葉にビクリと反応し、勢いよく僕の顔を見上げてきた月子の眼の中が、見る見るうちに透き通った涙で満たされていく。僕は一つ頷くと、彼女の顔をそっと自分の胸へと押し付けた。
「う、うああ~っ、松悟さん、私……」
「うん」
「私、ベア吉が好きでしたっ。ぐすっ、ああっ……ベア吉……!」
「うん……うん……」
もう随分といろいろな感情を見せてくれるようになってきた月子の貌だが、このときの僕は、彼女を抱き締めて胸を貸し、決してその泣き顔を見ないよう上だけを見続けていた。
まぁ、女性が悲しむ顔なんて、男が見ていて良いものじゃないだろう。
既にもう噴煙が吹き上がる轟音や地響きも聞こえてこない静まり返った岩屋の中、僕と月子は互いの顔を見ることも言葉を交わすこともなく、相手の身体の温かさだけをただ感じながら強く、強く抱き締め合い、失ってしまった大切な者のことを悼んだ。
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