【完結】記憶を失くした貴方には、わたし達家族は要らないようです

たろ

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105話

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 話を終えた蛇池が帰ると、入れ替わるように看護師が病室に入ってきた。彼女はテキパキと体温と血圧、それからフェロモンの数値を計り点滴の残量を確認すると、すぐに出ていってしまった。
 早苗は起こしていた体を再び硬いベッドに沈め目を閉じる。すると意識はすぐに早苗の元から離れていった。

 次に目を開けると窓の外からオレンジ色の光が差し込んできていた。時計を確認してみると3時間ほど経っていた。

「結構長い時間寝てたみたいだな」

 寝起きを繰り返していたので、早苗はまだ少しぼんやりとしていた。

 体を起こして首を回すと、頸のあたりに違和感があることに気がついた。恐る恐るその場所に触れてみると、毒虫に刺されたような熱を持ったしこりがある。
 中和剤を打たれた時の傷だろう。

 痛痒い感じがしたから中指の爪で引っ掻くと、ビリリと強い痛みが走った。慌てて手を離したが、ヒリヒリとした痛みがしばらくあとを引いた。下手に傷をつけてしまっただろうか? と不安になりながら優しく手を当てていると、痛みがだんだん弱くなっていくのでホッとする。

 蛇池の話を、ふと思い返してみると早苗は不思議な感覚に陥った。俊哉との番契約は解除されているらしいのだが、早苗はそれを実感できないでいたのである。

 一般的に番を失ったオメガには、かなりの精神的な負荷がかかるとされている。虚脱状態に陥ったり、最悪の場合ストレスによる衰弱で命を落とすケースもあるということを、早苗は知っていた。しかし、早苗にはそういった傾向が全く見られないのだ。

 考えてみれば俊哉と番になった時も、番を得たことによる幸福感を早苗は感じることは無かった。俊哉の態度が浮かれすぎなどと思っていたが、本来番を得るとなるのが普通なのではないだろうか、などと言う考えが浮かんできた。

 早苗の身体に残っているのは、発情期明けのような倦怠感と、見知らぬ男に弄られたという嫌悪感だけだった。一度意識してしまうと、あの時の嫌悪感がじわじわと身体を這い回り嫌な汗が出てくる。

 心臓が迫り上がってくるような感覚を覚え、途端に正しい呼吸の仕方が思い出せなくなった。息苦しさに悶えながら、早苗はナースコールを探す。

「は……っく」

 しかしなかなかそれを見つけることが出来なかった。絶望の文字が脳裏に浮かんだ次の瞬間、床頭台が低い音を立てて振動した。正しくは、その上に置いてある携帯が震えたのだ。

 驚いて一瞬息が止まったことがきっかけになって、早苗は呼吸の仕方を思い出すことが出来た。肺に空気が十分に送り込まれる。心臓は全力疾走をした後のように大きな音を立てていたが、息苦しさはなくなった。

 座り直して携帯を手に取ると、俊哉からのメッセージが届いていた。

【起きてる?】

 俊哉が何を思ってそんなメッセージを送ったのか早苗は分からなかったが、早苗は素直に【はい】とだけ返した。
 メッセージが送信されると直ぐに既読が付いた。早苗も直ぐに既読を付けたから、きっとアプリを開いたまま早苗の返信を待っていたのだろう。

 指先に付いたガラスの破片を払いながら、早苗は俊哉からの返信を待っていた。しかし、既読が付いたにも関わらず俊哉がメッセージを入力する気配はなかった。

 早苗が不思議に思っていると、病室のドアが3回、控えめにノックされる。

「はい」

 早苗が首を傾げながら返事をすると、ゆっくりとドアが開く。その向こうにいた人物は少し窶れた俊哉だった。

「あ……」

 早苗が言葉を発する前に、病室に立ち入ってきた俊哉は倒れ込むように地に額を擦り付けた。
 一連の流れるような俊哉の行動を早苗はただ眺めていることしか出来なかった。驚きのあまり一瞬思考が止まってしまったからである。

「な、何してるんですか!」

 早苗は慌てて起き上がろうとする。

「……ごめん。ごめんなさい、早苗くん」

 そのままの体勢のまま、絞り出すように俊哉が謝罪の言葉を述べる。早苗の動きがはたと止まる。俊哉に返す言葉が見つからなかったからだ。

「先輩」

 謝罪に対して何と返すのが正解なのか分からずとも、俊哉をそのままにしておく訳にも行かないので声をかける。
 しかし、俊哉は顔をあげようとしなかった。

 こうなった相手に対してどういう対応が正解なのか早苗は知らない。だから少し考えて、今すべきことをそのまま言葉にした。

「俊哉先輩、そのままじゃ何も話せません」

 その言葉に俊哉はようやく顔を上げた。いつも自信に溢れていた彼の表情が今にも泣き出してしまいそうなくらい歪んでいて、口の端には痛々しい痣が出来ていた。

「こっちに来てください」

 早苗が呼ぶと俊哉はよたよたと近づいてきて、ベッドの横に膝をついて早苗を見上げる。

「早苗くん……」
「この怪我は?」

 再び自分の名前を呼び謝ろうとする俊哉の言葉を遮るように早苗は、彼の口の端にある赤黒い痣に触れながら問う。

「……早苗くんをあんな目に合わせた罰だよ」
「俊哉先輩は何があったか知ってるんですか?」
「……」

 早苗の問いに俊哉は顔をクシャりと歪める。その瞳の縁に涙が浮かんでいる。泣き顔ですら整っているなんて、卑怯だなと早苗は少しズレた感想を抱く。
 悠長にそんなことを考えていると、俊哉の頬を透明な雫がつたう。早苗は慌てて言葉を発した。

「俊哉先輩、オレは先輩の事を責め立てるつもりは無いんですよ」
「どうして……」
「だって、俊哉先輩の提案に乗ると決めたのはオレです。それに、先輩はこの提案をする時、本当は凄く迷ってましたよね」

 俊哉は少し動揺しているようだった。早苗は更に言葉を続ける。

「俊哉先輩、まさかオレが自分の提案に乗るってくるなんて思ってなかったんじゃないですか?」

 早苗を見つめていた俊哉の目が大きく開かれる。
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