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差出人S
所有格 3
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店の片づけを終わらせて、自宅に帰ると、すでに9時を回っていた。とはいえ、貴志狼が全部片づけをしてくれたから、葉はレジの締めをしたくらいだ。
猫たちはご飯をあげると、察しのいい緑が紅を引きずって猫部屋に引っ込んだ。紺が『ほどほどにね』と、言ってから、猫ドアを潜っていく。それを見送ると、貴志狼は葉に先に風呂に入るように勧めてくれた。疲れ切っていたから、素直に従って、先に風呂を使うと『ちゃんと、起きてろよ?』と、耳打ちしてから、貴志狼も風呂に入っていった。
畳の間置いたちゃぶ台の前に座って、上半身をその上に投げ出して、葉は火照った身体を扇風機の風で冷ましていた。熱い風呂で流れる汗が扇風機の風で冷やされて心地いい。
起きていろよ。と、言われたけれど、半分微睡んだような状態で、葉は考えていた。
馬鹿正直なことに、あの手紙に書いてあったのは、あの男の本名らしい。佐藤太郎。父親はこの辺りでは有名なチェーンの飲食店を経営する社長で、あの男は高校中退してからの年季の入ったニートらしい。元々は引きこもっていたのだが、無理矢理市民センターにあるハローワークに通わされていたころに、近くで葉を見かけて緑風堂に出入りするようになった。
その頃は、ただ遠くから想いを寄せるだけだったのだが、最近になって葉が以前よりずっと綺麗になったように思えて、あとを尾けたところ、貴志狼との交際に気付いたらしい。嫉妬に狂った男は次第にその思いが歪んで、ストーカー行為へとエスカレートしたそうだ。
元々、葉はかなり愛想はいいほうだと思う。余程嫌いな相手でなければ、邪険にはしない。どちらかというと、好き嫌いははっきりしているけれど、嫌いな相手でも適当ににこにこしてお茶を濁す。さりげなくもう来たくないという状況に追い込むような方法で相手を遠ざける。
だから、特に何とも思っていないあの男には接客用ではあるけれど、笑顔を絶やすことはなかっただろう。しかも、昔からの常連で特に怪しいことがなければ、一見の客よりも特別扱いしていたかもしれない。それが、彼を勘違いさせてしまったようだ。
人の思いはつくづくままならないものだと思う。あんな『普通』に見える人が、毎日帰ったあとにあんな『異常』な手紙を毎日書いていたなんて。確かに、彼は頻繁に緑風堂に来ていた。しかも、来ると長い。大抵は高価なお茶を注文して、おかわりまでしていく。
それに、今になって考えてみれば、席が空いていないときに、彼が来たことはない。おそらく、外から店の中の様子を窺っていたのだ。盗聴機の類はなかったけれど、さすがにそんなものを仕掛けられていたら、猫たちが気づいただろう。
そこで、葉は大きくため息をついた。
自分の感覚器官。五感ではなく、六感。が、完全に働かなかったことなど、初めてのことだった。もしや、感じる力自体がなくなったのでは。と、思うくらいに何も感じなかったのだ。
子供の頃はなくなってほしいと随分と悩んだそれが、当てにならないことがこんなに心細いなんて、知らなかった。
試しに近くに来ていた菫のストーカーを捕まえて見たけれど、特に異常はない。足首を掴まれて、じたばたする姿は通常運転だった。
そらなら、何故アレに気づかなかったのだろう。微弱ではあったけれど、確実に存在していたし、貴志狼に敵意を剥き出しにしていた。そんなものに葉が気づかないわけがない。
菫はいつもこんな気持ちなんだろうか。見えるのによくわからないものが周囲をうろついている。経験上、それらに悪意があることが稀だと分かっていても、答え合わせはできない。きっと、鈴に出会うまでの菫は不安だったと思う。思ってから、対処の仕方を知っている自分がこんなことでどうするんだと、情けなく思う。
りりりり。りりりり。
そんなことを考えて自分自身を叱咤している時だった。不意にすぐそばに置いてあったスマートフォンが鳴る。すぐに取り上げて確認すると、そこには『丸山さん』の文字。
「あ」
『話し合い』が終わったのかな。と、電話に出る。
「もしもし」
電話の向こうからは妙にざわついた空気が伝わってきた。
「あ。葉さんですか?」
電話の相手はディスプレイ通り、晴興だった。
「はい。今日はお疲れ様です。どうしたんですか?」
晴興の声の向こうから、何やら怒声が聞こえてくる。どこかで聞いたことがある声だ。
「そこに川和さんはいますか?」
「え? あ。シロは今、お風呂に入ってます。でも、すぐに出てくると思いますよ? 代わります?」
「いえ。いいです。実は、すみません。さっきの男、少し目を離した隙に逃げられまして」
申し訳なさそうな声に重なって聞こえるのは、翔悟の声だ。どこへ行った。とか。早く探せ。とか。言っているのが聞こえる。
「川和さんといれば大丈夫だとは思いますが。できるだけ、一緒にいてください。見つけ次第連絡します」
そう言って電話が切れる。
猫たちはご飯をあげると、察しのいい緑が紅を引きずって猫部屋に引っ込んだ。紺が『ほどほどにね』と、言ってから、猫ドアを潜っていく。それを見送ると、貴志狼は葉に先に風呂に入るように勧めてくれた。疲れ切っていたから、素直に従って、先に風呂を使うと『ちゃんと、起きてろよ?』と、耳打ちしてから、貴志狼も風呂に入っていった。
畳の間置いたちゃぶ台の前に座って、上半身をその上に投げ出して、葉は火照った身体を扇風機の風で冷ましていた。熱い風呂で流れる汗が扇風機の風で冷やされて心地いい。
起きていろよ。と、言われたけれど、半分微睡んだような状態で、葉は考えていた。
馬鹿正直なことに、あの手紙に書いてあったのは、あの男の本名らしい。佐藤太郎。父親はこの辺りでは有名なチェーンの飲食店を経営する社長で、あの男は高校中退してからの年季の入ったニートらしい。元々は引きこもっていたのだが、無理矢理市民センターにあるハローワークに通わされていたころに、近くで葉を見かけて緑風堂に出入りするようになった。
その頃は、ただ遠くから想いを寄せるだけだったのだが、最近になって葉が以前よりずっと綺麗になったように思えて、あとを尾けたところ、貴志狼との交際に気付いたらしい。嫉妬に狂った男は次第にその思いが歪んで、ストーカー行為へとエスカレートしたそうだ。
元々、葉はかなり愛想はいいほうだと思う。余程嫌いな相手でなければ、邪険にはしない。どちらかというと、好き嫌いははっきりしているけれど、嫌いな相手でも適当ににこにこしてお茶を濁す。さりげなくもう来たくないという状況に追い込むような方法で相手を遠ざける。
だから、特に何とも思っていないあの男には接客用ではあるけれど、笑顔を絶やすことはなかっただろう。しかも、昔からの常連で特に怪しいことがなければ、一見の客よりも特別扱いしていたかもしれない。それが、彼を勘違いさせてしまったようだ。
人の思いはつくづくままならないものだと思う。あんな『普通』に見える人が、毎日帰ったあとにあんな『異常』な手紙を毎日書いていたなんて。確かに、彼は頻繁に緑風堂に来ていた。しかも、来ると長い。大抵は高価なお茶を注文して、おかわりまでしていく。
それに、今になって考えてみれば、席が空いていないときに、彼が来たことはない。おそらく、外から店の中の様子を窺っていたのだ。盗聴機の類はなかったけれど、さすがにそんなものを仕掛けられていたら、猫たちが気づいただろう。
そこで、葉は大きくため息をついた。
自分の感覚器官。五感ではなく、六感。が、完全に働かなかったことなど、初めてのことだった。もしや、感じる力自体がなくなったのでは。と、思うくらいに何も感じなかったのだ。
子供の頃はなくなってほしいと随分と悩んだそれが、当てにならないことがこんなに心細いなんて、知らなかった。
試しに近くに来ていた菫のストーカーを捕まえて見たけれど、特に異常はない。足首を掴まれて、じたばたする姿は通常運転だった。
そらなら、何故アレに気づかなかったのだろう。微弱ではあったけれど、確実に存在していたし、貴志狼に敵意を剥き出しにしていた。そんなものに葉が気づかないわけがない。
菫はいつもこんな気持ちなんだろうか。見えるのによくわからないものが周囲をうろついている。経験上、それらに悪意があることが稀だと分かっていても、答え合わせはできない。きっと、鈴に出会うまでの菫は不安だったと思う。思ってから、対処の仕方を知っている自分がこんなことでどうするんだと、情けなく思う。
りりりり。りりりり。
そんなことを考えて自分自身を叱咤している時だった。不意にすぐそばに置いてあったスマートフォンが鳴る。すぐに取り上げて確認すると、そこには『丸山さん』の文字。
「あ」
『話し合い』が終わったのかな。と、電話に出る。
「もしもし」
電話の向こうからは妙にざわついた空気が伝わってきた。
「あ。葉さんですか?」
電話の相手はディスプレイ通り、晴興だった。
「はい。今日はお疲れ様です。どうしたんですか?」
晴興の声の向こうから、何やら怒声が聞こえてくる。どこかで聞いたことがある声だ。
「そこに川和さんはいますか?」
「え? あ。シロは今、お風呂に入ってます。でも、すぐに出てくると思いますよ? 代わります?」
「いえ。いいです。実は、すみません。さっきの男、少し目を離した隙に逃げられまして」
申し訳なさそうな声に重なって聞こえるのは、翔悟の声だ。どこへ行った。とか。早く探せ。とか。言っているのが聞こえる。
「川和さんといれば大丈夫だとは思いますが。できるだけ、一緒にいてください。見つけ次第連絡します」
そう言って電話が切れる。
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