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差出人S
常連客 1
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鈴と菫が店を出ると、緑風堂の中は静かになった。
テーブルに残っている女性客は『早く食べちゃいなよ』とか、『ちょっとまって』とか言って、鈴を見るのに夢中で手を付けていなかった日替わりを頬張っている。
それ以外に残っているのは四席あるカウンター席の二人の客だけだ。
「静かになりましたね」
そのうちの一人が声をかけてくる。
「鈴がいなくなると……ね」
葉が答える。
「丸山さんは今日はゆっくりですね」
丸山晴興。この店の常連客だ。弁護士をしていて、近くに事務所を構えている。背が高く、物腰がスマートで、言葉遣いが綺麗ないかにも紳士然とした人物だ。
「ええ。ちょっと、待ち合わせを。ご迷惑ですか?」
少しぬるくなったお茶を口元に運びながら、晴興が言う。
「いえ。いいんです」
葉は笑顔で答えた。それから、さっき菫にしたように口元を手で隠して内緒。と、小さな声になる。
「常連さんは。ね」
晴興にだけ聞こえるようにそういうと、くすり。と、静かな笑いが返ってきた。
「じゃ、遠慮なく」
彼は以前。葉に告白してきた人物だ。人格も、容姿も、社会的地位も、葉には勿体ないような人物だと、葉は思っている。その上、貴志狼に真っ向から敵対してでも、葉と付き合いたいと言ってくれるほど、真剣な思いを伝えてくれた。ゲイと言うわけではないらしい。ただ、葉が好きだと言ってくれた。それでも、彼の思いを受け入れなかったのは、貴志狼がいたからだ。
彼に付き合えないと伝えるとき、葉は覚悟した。
友人として付き合うのはもう、無理かもしれない。
店主と常連客としてつまらない世間話をすることはもうないのかもしれない。
けれど、彼はまるで、何もなかったかのように緑風堂に来てくれる。つまらない世間話をしながら葉の作ったスイーツを食べて、お茶を飲んで、またきます。と、帰っていく。
変わったとしたら、個人的な誘いがなくなったくらいだ。
「過ごしやすくなってきましたね」
天井近くでくるくる。と、忙しなく首を振っている扇風機を見上げて、葉は言った。
「ああ。そうですね。事務所も、夜はエアコンつけなくてよくなりましたけど。ここは、いつも涼しいですよね」
晴興がテーブルに置いた茶器に、手を伸ばしてお代わりを注ぐ。涼やかに笑って目礼をしてから、彼はそれにまた、口をつけた。
「でも、いつも窓開けっ放しで、物騒じゃないですか?」
晴興が店内を見回す。
晴興の隣に常連の男性が一人。テーブル席の女性客はそろそろ食べ終わって、帰ろうかと立ち上がりかけている。
「お客さんがたくさんいるときはいいですけど。一人の時でも開けてあるんでしょう?」
一人の。ではない。エアコンをつけないのは、基本的に猫が嫌がるからなので、客は誰もいなくても、窓を閉めたりエアコンをつけたりはしない。
「この店は奥まってるし」
袋小路の奥の敷地。葉の自宅と緑風堂が並んで立っている。そしてその前は小さいけれど畑になっていて、そのほかには何もない。つまり、その袋小路には緑風堂に用があるものしか立ち入らない。だから、いつもここはひっそりと静かだ。
貴志狼にも物騒だから引っ越せと言われたことがある。けれど、葉にとってはここでなくてはダメなのだ。猫たちと暮らすにはここは最高の立地だった。だからこそ、先代の店主である叔父はここを選んだのだ。
「そんな心配しなくても、現金も高価なものも置いてないですよ?」
晴興は真顔で忠告してくれたけれど、葉は誤魔化すみたいに笑いながら答える。
実際にはそこそこ高価な茶葉は置いてある。けれど、興味のない人にとっては殆ど意味はないし、ネットで売ったところで、信頼がなければ二束三文だ。だから、この店に盗むほどの価値があるものはない。
「金銭に代えられない価値があるものはあるじゃないですか」
そう言って晴興はじっと葉の顔を見つめる。
「そんなもの、ありましたっけ?」
その視線から逃れるように、葉は店内を見回した。それから、はぐらかすように、笑う。
「ありますよ。この店で一番価値があるのは……」
晴興は笑わなかった。少し改まったような顔をして、続ける。
テーブルに残っている女性客は『早く食べちゃいなよ』とか、『ちょっとまって』とか言って、鈴を見るのに夢中で手を付けていなかった日替わりを頬張っている。
それ以外に残っているのは四席あるカウンター席の二人の客だけだ。
「静かになりましたね」
そのうちの一人が声をかけてくる。
「鈴がいなくなると……ね」
葉が答える。
「丸山さんは今日はゆっくりですね」
丸山晴興。この店の常連客だ。弁護士をしていて、近くに事務所を構えている。背が高く、物腰がスマートで、言葉遣いが綺麗ないかにも紳士然とした人物だ。
「ええ。ちょっと、待ち合わせを。ご迷惑ですか?」
少しぬるくなったお茶を口元に運びながら、晴興が言う。
「いえ。いいんです」
葉は笑顔で答えた。それから、さっき菫にしたように口元を手で隠して内緒。と、小さな声になる。
「常連さんは。ね」
晴興にだけ聞こえるようにそういうと、くすり。と、静かな笑いが返ってきた。
「じゃ、遠慮なく」
彼は以前。葉に告白してきた人物だ。人格も、容姿も、社会的地位も、葉には勿体ないような人物だと、葉は思っている。その上、貴志狼に真っ向から敵対してでも、葉と付き合いたいと言ってくれるほど、真剣な思いを伝えてくれた。ゲイと言うわけではないらしい。ただ、葉が好きだと言ってくれた。それでも、彼の思いを受け入れなかったのは、貴志狼がいたからだ。
彼に付き合えないと伝えるとき、葉は覚悟した。
友人として付き合うのはもう、無理かもしれない。
店主と常連客としてつまらない世間話をすることはもうないのかもしれない。
けれど、彼はまるで、何もなかったかのように緑風堂に来てくれる。つまらない世間話をしながら葉の作ったスイーツを食べて、お茶を飲んで、またきます。と、帰っていく。
変わったとしたら、個人的な誘いがなくなったくらいだ。
「過ごしやすくなってきましたね」
天井近くでくるくる。と、忙しなく首を振っている扇風機を見上げて、葉は言った。
「ああ。そうですね。事務所も、夜はエアコンつけなくてよくなりましたけど。ここは、いつも涼しいですよね」
晴興がテーブルに置いた茶器に、手を伸ばしてお代わりを注ぐ。涼やかに笑って目礼をしてから、彼はそれにまた、口をつけた。
「でも、いつも窓開けっ放しで、物騒じゃないですか?」
晴興が店内を見回す。
晴興の隣に常連の男性が一人。テーブル席の女性客はそろそろ食べ終わって、帰ろうかと立ち上がりかけている。
「お客さんがたくさんいるときはいいですけど。一人の時でも開けてあるんでしょう?」
一人の。ではない。エアコンをつけないのは、基本的に猫が嫌がるからなので、客は誰もいなくても、窓を閉めたりエアコンをつけたりはしない。
「この店は奥まってるし」
袋小路の奥の敷地。葉の自宅と緑風堂が並んで立っている。そしてその前は小さいけれど畑になっていて、そのほかには何もない。つまり、その袋小路には緑風堂に用があるものしか立ち入らない。だから、いつもここはひっそりと静かだ。
貴志狼にも物騒だから引っ越せと言われたことがある。けれど、葉にとってはここでなくてはダメなのだ。猫たちと暮らすにはここは最高の立地だった。だからこそ、先代の店主である叔父はここを選んだのだ。
「そんな心配しなくても、現金も高価なものも置いてないですよ?」
晴興は真顔で忠告してくれたけれど、葉は誤魔化すみたいに笑いながら答える。
実際にはそこそこ高価な茶葉は置いてある。けれど、興味のない人にとっては殆ど意味はないし、ネットで売ったところで、信頼がなければ二束三文だ。だから、この店に盗むほどの価値があるものはない。
「金銭に代えられない価値があるものはあるじゃないですか」
そう言って晴興はじっと葉の顔を見つめる。
「そんなもの、ありましたっけ?」
その視線から逃れるように、葉は店内を見回した。それから、はぐらかすように、笑う。
「ありますよ。この店で一番価値があるのは……」
晴興は笑わなかった。少し改まったような顔をして、続ける。
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