番犬と十七夜

司書Y

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差出人S

緑風堂の日常 4

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 からん。

 そんなことを考えていたら、不意にドアベルが鳴った。
 考え事をしていたから反応が遅れて、一瞬間を置いて振り返ると、ものすごい勢いで入ってきた人物に紅が飛び掛かっていくのが見える。

「にゃあああああん」
対訳:いけちゃ~~ん!

 入ってきた人物・菫は困った顔どころか、満面の笑みを浮かべて、飛び掛かってきたキジトラの猫を抱き上げて、頬ずりをした。緑も接客していたテーブル席の客の元を去って、菫の足元に駆けつける。あの気位が高い紺でさえ、そわそわ。と、定位置を立ち上がって、菫の方に行こうかどうか、うろうろしていた。
 菫が入ってきただけで、店の空気が変わった。

「菫さん」

 暗く沈んでいた葉の気持ちすら、少し浮上しているのだから、鈴なんて、天に昇っているだろう。本当に分かりやすく鈴の声は明るくなった。笑顔が零れる。

「鈴。よかった。まだやってた」

 テーブル席に座った女性客たちは固まっていた。お茶やスイーツを口に運びかけたまま、止まっている。
 皆鈴に見惚れているのだ。それはそうだろう。鈴は客相手でも微笑みすら浮かべない。それなのに、こんなにも優しい笑顔ができたの? と、長い付き合いの葉が思うほどの優しい笑顔を浮かべているのだ。

「菫君。いらっしゃい」

 なんだか、救われた気がする。
 鈴が選んだ相手が、菫でよかった。菫が鈴の思いにこたえてくれてよかった。二人の思いがよく似た形をしていてよかった。
 鈴も、菫も、思いが伝わってから変わったけれど、それが、いい方向に向いていることが、葉には嬉しい。
 テーブルに、菫のための水の入ったグラスを置く。

「こんばんわ。今日は、あんまりのんびりできないんですけど」

 そう言いながらも、葉がグラスを用意してくれた席に菫は座った。いつものふにゃり。と、柔らかな笑顔。ほっとする。

「ちょっと。鈴と話がしたくて」

 葉の顔を見てから、菫はちらり。と、鈴に視線を送る。
 緑風堂の猫たちがそうであるように、葉もこの柔らかな雰囲気を持つ常連客が鈴とは違う意味で。だけれど、好きだ。だから、世話をやいてあげたい気分になってしまうのは仕方ないことだと、思う。

「ああ。じゃ、鈴、上がっていいよ。日替わり、一つしか残ってないから、閉める。看板出してくれる?」

 正直口実には丁度いい。鈴が帰れば、常連以外のテーブル席の客は帰るだろう。そうしたら、のんびりとカウンター席の常連客と話でもしながら、貴志狼が来るのを待てばいい。

「あとはやっとく。もうすぐ、シロ来るみたいだし。さっき、LINEあった」

 外はもう暗い。もしかしたら、例の手紙の相手がどこかにいるかもしれない。けれど、常連客がいてくれれば手出しはしてこないだろうし、貴志狼が来てくれれば何も心配することなんてない。

「菫君はテイクアウトね」

 テイクアウト用の箱は、最近完全に池井家用となっている。元々、緑風堂はテイクアウトには対応していない。常連客の誕生日などの特別な場合だけ、予約で対応しているのだ。けれど、最近は椿が店に来るようになって、その箱が活躍することが多くなった。
 依怙贔屓だと自覚はしている。けれど、別に葉は店を繁盛させる気なんてない。スイーツを作るのは元々は貴志狼のためで、今は仲がいい常連客が楽しみにしていてくれるからだから、ほかの客に愛想をつかされても一向に構わないのだ。

「え? や。でも。それじゃ」

 悪いから。と、続けようとする菫を葉は制した。口元に指を当てて静かに。のポーズ。

「鈴がいるとお客さん引かないから」

 それから、内緒話をするように手を添えて、こそり。と、菫にだけ聞こえるような小さな声で囁く。それから、悪戯っぽく笑うと、少しびっくりした顔をしてから、菫も悪戯っぽく笑った。

「鈴。着替えておいで。それまでは菫君に手伝ってもらうよ」

 葉の言葉に鈴は素直に従った。早速エプロンを外している。菫と一緒にいたいという気持ちが溢れ出しているのが微笑ましい。

「ありがとう」

 小さく礼を言って、鈴がバックヤードへと入っていく。
 その姿を見送ると、店の中にため息のような吐息が響く。女性客が『私たちも帰ろうか』と、囁き合っているのが聞こえる。計画通りだ。
 そうして、鈴が帰りの支度を済ませる前に、三つの内二つのテーブルの客は帰っていった。
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