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差出人S
緑風堂の日常 3
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「そんな大きなため息ついてどうしたの?」
別に、今の会話のせいで鈴はため息をついているわけではないだろう。
だから、何でもない風を装って声をかける。葉の思いを知ってか知らずか、猫たちものんびりと欠伸をしていた。
「別に。なんでも。ない」
鈴は答える。
少し、拗ねたような響き。表情に出していないつもりでも、葉にはなんとなくわかる。長い付き合いだからだ。
「……菫君のことでしょ?」
図星だな。と、思う。鈴の表情は殆ど変わらないけれど、やっぱり、葉にはわかった。
同時に、ざわ。と、店内がざわつく。声。と言うよりも、雰囲気が。だ。
店内の女の子たちの視線は、鈴に集中していた。きっと、菫と言う普通に聞いたら間違いなく女の子を連想させる名前に反応しているのだ。
鈴が少し恨めしそうな顔で見ている。きっと、菫のことが心配なのだろう。
鈴や葉の母親の実家は所謂『祓え人』と呼ばれる家系だ。要するに拝み屋の類。歴史は古い。その上、未だに財界政界の要人からの依頼もあるような現代にも息づく職業霊能力者。僧侶や神主とは違う。宗教的な背景はあまり関係ない。血縁だけを拠り所とする古い古い家柄だ。
職業柄、憑き物憑きの家系はほとんど把握している。あの黒い犬の一件で菫を襲ったのは数十年前から一族最後の一人が辿れなくなった家系だった。もちろん、他にそんな家が存在しないことは確認済みだ。だから、菫がまた似たような目に合うことはない。はずだ。
「はいはい。仕事します」
それでも、鈴は、菫が心配でならないのだ。
だから、葉は鈴に好意を持っているようなギャラリーの前で、菫の話をするのはやめにした。
ちらり。と、鈴に注目を注ぐ女の子たちを見回す。
みんな普通の子たちだ。菫を襲ったあの子もそうだった。けれど、変わってしまう。
それが、人を好きになるということなのだろうか。
「……あぶなっかしいから……」
ぼそり。と、鈴が呟く。
きっと、菫のことだ。
子供の頃は普通の少年だった鈴が表情をなくしたのは、葉が不思議なものを見ることを誰にも言わなくなった年齢と同じころだ。きっと、それが鈴の処世術だったのだろうと想像がつく。けれど、菫に出会って、鈴は変わった。
それが、人を好きになるということだろうか。
人を好きになると、人は変わる。
葉にあの手紙を送ってくる人も、もしかしたら、彼女たちのように普通の人だったのかもしれない。
手紙の中にはその人と葉が出会った日のことが便せん何枚分にも書いてあった。買い物中によろけた葉を支えたのが出会いだったらしい。触れた瞬間に運命を悟ったとか書いてあったけれど、葉はそれを覚えてはいない。
誰かを思う気持ちは形も強さもみんな違う。たとえ、葉と貴志狼のようにお互い好きだと分かりあったとしても、葉の中の貴志狼への思いと、貴志狼の中の葉への思いは形も強さも違う。それがどちらも心の中の一番大切な思いだとしても。同じだと感じられる部分がたくさんあっても。だ。
葉はそれでもいいと思う。違うからこそ、貴志狼を好きでいることに意味があると思う。無理に同じになってほしいとも思わない。
ただ、貴志狼が、貴志狼のやり方で、葉を好きでいてくれればそれでいい。
葉も、葉のやり方で、いつまでも貴志狼を好きでいたい。
その思いを、貴志狼以外の誰かに変えられるなんてごめんだ。
ほぼ毎日投函される手紙に葉はすべて目を通している。猫たちはやめておけと言ってくれるけれど、必ずすべて目を通す。
愉快ではない。自分のことではないと言い聞かせてはいるけれど、過激な性表現や、葉の気持ちを勝手に解釈されているところを読むのは不快だ。
それでも、全部に目を通すのは、逃げたくないからかもしれない。
こんなものを書いたくらいで現実が変わると思っているなら、そのお気楽さには反吐が出るし、葉を追い詰めたいと思っているなら、そんなにやわじゃないと否定したい。
人の悪意は、もっと、もっと、深くて恐ろしい。
人の心の底辺に揺蕩うそれは、他人の救いなどで変わることなどないし、葉はそれを嫌と言うほどに見てきた。だから、こんな児戯くらいで、どうにかなる自分ではない。
自分の足をこんな風にした相手にだって、葉は最後まで屈することはなかった。だから、こんなことくらいは何ともない。
そう思っていたのだ。
けれど、毎日届く手紙を読むたび。思う。
怖い。
文章に書かれた妄想が黒い悪意になって滲みだしてくるのを見るのは怖い。
不自由な足では逃げられないのではないかと思うのが怖い。
いつの間にこんなふうに弱くなってしまったのだろうと思う。
思ってから、答えは自分の中にあると知る。
貴志狼がいるからだ。貴志狼に守られる自分に溺れているからだ。
貴志狼と想いが通じ合ってから、葉は弱くなったと思う。
それが、人を好きになるということだろうか。
別に、今の会話のせいで鈴はため息をついているわけではないだろう。
だから、何でもない風を装って声をかける。葉の思いを知ってか知らずか、猫たちものんびりと欠伸をしていた。
「別に。なんでも。ない」
鈴は答える。
少し、拗ねたような響き。表情に出していないつもりでも、葉にはなんとなくわかる。長い付き合いだからだ。
「……菫君のことでしょ?」
図星だな。と、思う。鈴の表情は殆ど変わらないけれど、やっぱり、葉にはわかった。
同時に、ざわ。と、店内がざわつく。声。と言うよりも、雰囲気が。だ。
店内の女の子たちの視線は、鈴に集中していた。きっと、菫と言う普通に聞いたら間違いなく女の子を連想させる名前に反応しているのだ。
鈴が少し恨めしそうな顔で見ている。きっと、菫のことが心配なのだろう。
鈴や葉の母親の実家は所謂『祓え人』と呼ばれる家系だ。要するに拝み屋の類。歴史は古い。その上、未だに財界政界の要人からの依頼もあるような現代にも息づく職業霊能力者。僧侶や神主とは違う。宗教的な背景はあまり関係ない。血縁だけを拠り所とする古い古い家柄だ。
職業柄、憑き物憑きの家系はほとんど把握している。あの黒い犬の一件で菫を襲ったのは数十年前から一族最後の一人が辿れなくなった家系だった。もちろん、他にそんな家が存在しないことは確認済みだ。だから、菫がまた似たような目に合うことはない。はずだ。
「はいはい。仕事します」
それでも、鈴は、菫が心配でならないのだ。
だから、葉は鈴に好意を持っているようなギャラリーの前で、菫の話をするのはやめにした。
ちらり。と、鈴に注目を注ぐ女の子たちを見回す。
みんな普通の子たちだ。菫を襲ったあの子もそうだった。けれど、変わってしまう。
それが、人を好きになるということなのだろうか。
「……あぶなっかしいから……」
ぼそり。と、鈴が呟く。
きっと、菫のことだ。
子供の頃は普通の少年だった鈴が表情をなくしたのは、葉が不思議なものを見ることを誰にも言わなくなった年齢と同じころだ。きっと、それが鈴の処世術だったのだろうと想像がつく。けれど、菫に出会って、鈴は変わった。
それが、人を好きになるということだろうか。
人を好きになると、人は変わる。
葉にあの手紙を送ってくる人も、もしかしたら、彼女たちのように普通の人だったのかもしれない。
手紙の中にはその人と葉が出会った日のことが便せん何枚分にも書いてあった。買い物中によろけた葉を支えたのが出会いだったらしい。触れた瞬間に運命を悟ったとか書いてあったけれど、葉はそれを覚えてはいない。
誰かを思う気持ちは形も強さもみんな違う。たとえ、葉と貴志狼のようにお互い好きだと分かりあったとしても、葉の中の貴志狼への思いと、貴志狼の中の葉への思いは形も強さも違う。それがどちらも心の中の一番大切な思いだとしても。同じだと感じられる部分がたくさんあっても。だ。
葉はそれでもいいと思う。違うからこそ、貴志狼を好きでいることに意味があると思う。無理に同じになってほしいとも思わない。
ただ、貴志狼が、貴志狼のやり方で、葉を好きでいてくれればそれでいい。
葉も、葉のやり方で、いつまでも貴志狼を好きでいたい。
その思いを、貴志狼以外の誰かに変えられるなんてごめんだ。
ほぼ毎日投函される手紙に葉はすべて目を通している。猫たちはやめておけと言ってくれるけれど、必ずすべて目を通す。
愉快ではない。自分のことではないと言い聞かせてはいるけれど、過激な性表現や、葉の気持ちを勝手に解釈されているところを読むのは不快だ。
それでも、全部に目を通すのは、逃げたくないからかもしれない。
こんなものを書いたくらいで現実が変わると思っているなら、そのお気楽さには反吐が出るし、葉を追い詰めたいと思っているなら、そんなにやわじゃないと否定したい。
人の悪意は、もっと、もっと、深くて恐ろしい。
人の心の底辺に揺蕩うそれは、他人の救いなどで変わることなどないし、葉はそれを嫌と言うほどに見てきた。だから、こんな児戯くらいで、どうにかなる自分ではない。
自分の足をこんな風にした相手にだって、葉は最後まで屈することはなかった。だから、こんなことくらいは何ともない。
そう思っていたのだ。
けれど、毎日届く手紙を読むたび。思う。
怖い。
文章に書かれた妄想が黒い悪意になって滲みだしてくるのを見るのは怖い。
不自由な足では逃げられないのではないかと思うのが怖い。
いつの間にこんなふうに弱くなってしまったのだろうと思う。
思ってから、答えは自分の中にあると知る。
貴志狼がいるからだ。貴志狼に守られる自分に溺れているからだ。
貴志狼と想いが通じ合ってから、葉は弱くなったと思う。
それが、人を好きになるということだろうか。
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