遠くて近い世界で

司書Y

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Internally Flawless

16 論破 5

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「……あなた……お名前は?」

 震える声で、レイが言う。表情がひきつっている。怒っているのだろうか。まあ、怒っているのだろう。

「山田水です」

 偽名だけどね。と、心の中で付け加える。
 ID用に作った偽名の、さらに偽名だ。最早、自分の名前の影すらない。ナオに『なんて名前で登録する?』と聞かれて、すぐそばにあった新聞の一番上にあった名前『山田』にした。水はスイと読めれば何でもよかった。そもそも『スイ』という呼び方も偽名だから、都合がいい。

「できれば、また、お話ししたいわ」

 視線が鋭い。つり目だと睨みがきいていいな。と、他人事のように思う。
 でも、怖いとは全く感じない。彼女は子供なのだ。なんでも言うことを聞いてくれる大人に囲まれて、大人になりきれない子供だ。子供といっても、天真爛漫で、屈託ないユキとは違う。子供であることの悪い面だけが残ってしまった、性質の悪いガキだ。

「ショーが終わった後にでも、お誘いしていいかしら?」

 余裕の頬笑みを作っているつもりかもしれない。けれど、その笑顔は引きつっている。今、この場で感情的な言葉でスイを罵倒することを彼女の富士山。エベレスト、いや、オリンポス山より高いプライドは許してはくれないのだろう。
 この期に及んでまだ、スイが自分の思うどおりになると信じて疑わないのだ。

「オコトワリシマス。
年下の可愛い女の子のお誘いに乗ったなんて、恋人にバレたら愛想尽かされるんで」

 ぺこりと頭を下げて、またにっこりと笑うと、彼女はひきつった笑いを浮かべて、くるりと背中を向けた。

「じゃあ、もう、会うこともないわね」

 なんだかよくわからない捨て台詞をはいて、レイは歩き去ってしまった。

「だと。いいけど。どう思う?」

 固まったまま、レイを見送って、ようやく金縛りが解けたようなナオに話しかける。

「スイさん……あれは言いすぎ。てか、あの子マジこわ。スイさん怖くないの?」

 少し青ざめてナオが言った。
 エリートキャリアのくせに、あんな女の子にビビってどうすんの。と思ってしまう。

「別に。ただのちょっとわがままな女の子だろ?」

「スイさん!!」

 そこで横からぎゅっと手を握られて、スイはぎょっとした。

「あのレイにあそこまで言えるなんて!! 感動だ。やっぱり、君は俺の理想の人だ」

 何故か目を潤ませて、タイガが詰め寄ってきた。

「えと。や。そういの間に合ってるんで」

 握られた手を何とか引き剥がす。

「でもさ。トップモデルにあそこまでいっちゃったら、俺、きっとクビだろうな」

 言い過ぎたことは認める。我儘なだけの女の子相手に大人げなかったことも認める。多分、昨日までの嫉妬の分の仕返しだったことも認める。あの電話のせいで、スイはあの悪夢を抱えたまま、丸一日過ごす羽目になったのだ。しかし、仕事のことを考えたら、少し大人しくしていればよかったかとも思う。目立ち過ぎた。
 ここで得られる情報は、大体揃ったので、最悪クビになってもどうにでもなるとは思う。けれど、最後の仕上げのことを考えると、どちらかと言えば、ここにいられた方がよかった。と、スイは後悔というほどではないが、反省はしていた。

「君は何の仕事を担当しておるのかね?」

 ふと、話に割り込んできたのは、先ほどタイガにホールのオーナーと紹介された人物だった。

「コンピュータ制御の照明の担当です」

 スイが答える。そのスイを、頭から足先まで、じっとりと彼の黒い瞳が眺める。まるで、そのしわがれた手で身体を撫でまわされているような不快な視線だった。

「そうかね。安心したまえ。クビになどさせんよ。あの子にはあれくらいのお灸が必要だろう」

 その黒い瞳。さっきは強烈な意志。と、表現したのだが、違う。
 あの昏い穴だ。この男にも感じる。
 今まで、考えたこともなかった。その昏い穴のような瞳の意味。それを少しだけ考えてみる。それは、とても不快な作業だった。

「山田水君だったか?」

 しかし、問いかけられて、思考はすぐに途切れた。
 答えがすぐそこまで来ていた気がするのに。しかし、一方でほっとする。知らないでいた方がいい気がした。

「はい」

 答えたスイの方にぽん、と彼が手を置く。

「仕事。頑張りたまえよ」

 その掌が触れた部分に寒気が走る。まるで、氷を押しつけられたような感覚だった。

「……はい」

 答えると、男は、背中を向けて、歩き去った。
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