遠くて近い世界で

司書Y

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Internally Flawless

14 幸福 2

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 もう、喧嘩はしたくない。ちょっとした言い争いくらいならいい。でも、少し怖くなった。もし、昨夜彼と会うことができなかったら。この仕事が終わるまで、彼は彼のままでいられたのだろうか。
 確かに、安定している時のスイは冷静で、聡明で、頼りになる仲間で、その情報に全幅の信頼を置くことができる天才的なハッカーだ。

 スイは、身体的な痛みに対しては驚くほど強い。しかし、彼の精神の脆さは最早致命的と言ってもいい。おそらくそれは、両親にまともな愛情を注がれなかったことと、親代わりと慕って信頼して相手の裏切りという過去によるところが大きい。そのうえ、その手酷い裏切りが性的な暴行という形だったことはさらに彼の傷を大きくさせている。
 多分、彼は気付いていないのだ。彼の心に大きな傷を残したその経験が、彼自身をとても(ある種の人間にとって)魅力的にしてしまっているということに。
 もちろん、彼の生来の外見的な魅力も要素としては大きい。しかし、スイがよくそういう輩に絡まれることも、決して女性的な容姿をしているわけでもないのに、女性より男性に好意を向けられることが多いことも、恐らくそのトラウマによるものが原因の一つだ。
 にもかかわらず、そういう類の好意や、劣情を向けられることに彼は全く耐性を持てない。極端な拒否反応を示してしまう。スイがよく見る監禁されていた頃の夢は、おそらくPTSDというやつだ。
 スイが、自分の魅力を認めたがらないのも、それに起因しているのだと、今回のことで気付いた。
 彼はいつでも恐れているのだ。
 いつか、また、古家泰斗のような男が現れてしまうことを。

「くそっ」

 目覚めた時は最高の朝だと思っていたのに。
 目を閉じれば、その時のスイの姿がすぐに思いだせるのに。

「ぜってー渡さねえ」

 もう、今回のように手を離したりはしないと心に誓う。
 たとえどんなに喧嘩をしても、スイが離してくれと言ったとしても、離さない。渡さない。
 過去のトラウマにも。あの男にも。他の誰にも。
 そう、決意するアキだった。
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