遠くて近い世界で

司書Y

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#3

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「スイさん」

 アキが、機嫌なんていいはずがないのに、にっこりと笑っている。
 あ。これ、ヤバいヤツだ。
 ユキは思う。

「スイさんは何にも悪くないんだから。そいつは殺そ」

 きっと、アキは本気だ。いや、ユキだって、スイに触った指を何本か落としてやりたいとは思うけれど、アキは完全に殺る気だ。

「だから、スイさん。JRの車内監視カメラの映像ハッキングして? 顔分かったら俺が殺りに行くから」

 笑顔がめっちゃ怖い。以前、仲間を人質に取られて、死にかけた時よりさらに怒りのゲージが上にいるのが分かる。

「あ。いや。そこまでは……それに、仕返しはちゃんとしてきたし……」

 少し、きまりが悪そうに視線を逸らして、スイは言う。

「仕返し?」

 ちょっと怖い。催眠療法事件の時やこないだのBIG Hの時の恐ろしい仕返しが思い出される。スイは自分に敵意(??)を向けた相手に容赦はしない。

「え? いや。その……椅子の脇の手すりの棒に結束バンドで両手縛って、背中に“私は男に痴漢した変態です。SNSに投稿してください”って張り紙して、ベルトとパンツのゴム切って下がるようにしてきた」

「うあ……」

 電車でそれをやられたら……人生終わると思う。
 まあ、人生終わらされても仕方ないことしてるとは思うけれど。

「さすが、スイさん」

 その仕返しに、少しは溜飲を下げたのか、アキの表情が和らいだ。

「……でも……」

 また、スイの表情が暗くなってしまう。まだ何かあるんだろうか。

「どうしたの? 他にも何かあった?」

 近寄って顔を覗きこんでその頬に触ると、外が相当寒かったのか、まだその頬は冷たかった。

「……電車降りて、歩いてたら、なんか通る人の視線を感じるっていうか、指差されてるって言うか……。何だろうって思ってコート脱いでみたら……多分カッターみたいなので、穴開けられてて。その周りに……多分、あいつのだと思うけど……ついてた……」

 言われてベッドに広げたコートを見ると、確かに何か鋭利なもので付けたような穴が開いていて、その周りについていた。恐らく、その痴漢男の出した粘着質の液体。

「……ユキ君からもらったコート……すごく気に入ってたのに……」

 泣きそうな顔はそのためだったのか。ユキは思う。
 状況も忘れて、『カワイイ!』と、思ってしまったのは、恋する男の悲しい性だ。けれど、すぐに思い直す。

「スイさんには? 怪我はないの? 大丈夫?」

 ユキの言葉に、驚いたようにスイが見上げてきた。そんなことも気にならないほど、気持ち悪い思いをしたのだと思うと、スイが可哀そうでならなかった。

「あ。俺は大丈夫。さすがに、身体に切りつけられたら電車の中で気付くよ」

 でも、ユキの心配にスイは笑顔を返してくれた。

「でも、コート……洗ったら落ちるかな……」

 コートに触れようとするスイの細い指を取って、握りしめる。

「そんなもん、捨てろよ」
「そんなもん、捨ててよ」

 アキと、ユキの言葉は殆ど同時だった。誰かの精液が着いたコートなんて、恋人に着せたいわけがない。自分のプレゼントを大切にしてくれるのは嬉しいけれど、代わりなんていくらでも買ってあげるから、そんなもの捨ててほしい。

「こんなばっちいもん。スイさんに着せられるわけないだろ? 明日、ごみ出し確定!」

 てか、触れてほしくもない。
 大体、人の恋人を勝手に触って、いや、勝手じゃなくても絶対にダメなんだけど、おかずにした挙句、かけ逃げって、ああ。殺したくなってきた。

「でも、ユキ君がくれたのに……ごめん」

 少しだけユキに寄り掛かって、謝られて、スイは悪くないのにと思うと、余計に腹が立ってきた。でも、これ以上怒ったそぶりを見せると、スイが気にしてしまうと思う。

「いいんだよ。また、一緒に買いに行こう? スイさん何でも似合うけど、一番いいの俺が見つけるから」

 だから、スイが安心できるように笑顔でユキは言った。

「ありがと……でも、そんな無駄遣いしなくていいよ。もう、温かくなるし」

 そうすると、スイも笑顔をくれた。
 その笑顔があんまり可愛くて、抱きしめたくなってしまう。

「それにしても……気持ち悪かっただろ?」

 その気持ちに気付いたように、アキが言う。擽るみたいに耳元を撫でながら。多分、自分へのけん制なんだって分かる。
 こう言う時のアキは本当にさりげなくて、絶対に敵わないと思ってしまう。

「うん。でも、二人の顔見たら、もう、忘れちゃったよ」

 ユキも、アキも、その花が開くような笑顔に見惚れてしまった。
 二人の腕を取って、その腕をぎゅっと抱きしめてそんなことを言うスイが、やっぱり最強だ。

「すぐに飯作るな」

 ああ。結局この笑顔には敵わない。
 ユキは思う。
 明日は火曜日だから。コートのなくなってしまった恋人を自分の腕で包んで買い物に行こう。それから、彼に似合う初夏のアウターを探して、プレゼントしよう。無駄遣いと怒られても構わない。スイが喜んでくれるなら、無駄なんて一つもない。
 けれど、多分、電車は使わない。いや、自分が一緒なら、満員電車もいいかな。そう思うユキだった。
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