遠くて近い世界で

司書Y

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L's rule. Side Hisui.

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「……いぬかよ」

 キッチンから、出てきたアキが小さく呟く。ユキには聞こえていたかもしれないけれど、さっきのいちゃいちゃのお返しなのか、わざと無視しているようだった。その証拠にスイの細い腰に回した手に少しだけ力が籠る。
 多分。“自分のだ”。と主張しているんだろう。
 そんな姿も可愛くて、スイはまた、そっとユキの髪を撫でる。

「スイさん。俺先に風呂もらうよ?」

 反応を示さないユキに、少し苦笑して、アキは言った。

「あ。うん」

 その言葉に顔を上げると、アキが頬に優しくキスをくれた。それから、その唇がそのまま耳元に囁く。

「今日。いい?」

 耳元で囁く、声が甘い。思わず、ぴくり。と、身体が震えた。ふと、過る心につかえたままの不安感。でも、さっきユキにもらった勇気が後押ししてくれた。恥ずかしいから、頷くだけで答える。
 アキはすごく嬉しそうに笑ってくれた。それから、そっと頬を撫でて、バスルームの方に歩いていく。
 その後ろ姿を、スイは見えなくなるまでぼーっと眺めていた。

 あ。俺。今日、アキ君と……するんだ。

 改めて実感する。
 抱きたいと、アキに言われてから。一応準備はしてきた。もちろん、これからするのがどんなことかは分かっている。知識も経験もないわけではない。けれど、スイにとってはその行為は決して容易ではなかった。普段は忘れられている過去を強烈に意識させられるからだ。
 何も考えないように、機械的にしていても、ふとした瞬間に、過去を思い出して、嘔吐することもあった。

 ただ、辛いと感じても、スイはそれをすることをやめなかった。アキと繋がりたいという気持ちには偽りはなかったし、できることなら、アキの手で上書きしてほしかった。
 アキが好きだから。
 もちろん、スイはユキのことも好きだ。けれど、少年のようなユキにこんな過去を背負った相手なんて重すぎると思う。
 ユキとの関係は急ぎたくない。手を繋いだり、啄ばむようなキスをしたり、膝枕をしたり、そんな関係が心地いい。詳しくは知らないけれど、誰かに奪われたとアキが言っていたユキの少年時代をそうすることで少しでも取り戻せたらいいと思っていた。その先にセックスがあるとしても、今はもう少し時間をかけて歩きたいと思う。
 でも、アキはユキとは違う。
 精神的にも肉体的にもアキは成熟した大人の男だ。多分、ものすごく我慢してくれているのだと思う。スイがニコを救うために起こした様々な事件の後始末や、新しく取得しようとしているライセンスのことや、部屋の改装のことや、家主でリーダーのアキには一番負担が大きかっただろうし、寝ずに情報収集を続けていたスイを気遣ってくれてもいた。きっと、本当はすぐにでも抱きたいという気持ちを押し殺してくれていたのだと思う。
 そして、いつも優しく笑いかけてくれた。それでもいいと、安心させてくれた。
 その彼が、自分を抱きたいと、言ってくれている。だから、応えたい。
 否。きっと、違う。
 アキが望むから。ではない。本当は自分が、彼のものになりたいのだ。
 その腕で、声で、瞳で、優しさで。全部、忘れさせてほしい。
 自分が、アキの(そのときはアキだけの)ものだと、感じたい。

 お前は幸せになんてなれない。

 耳の奥に残るあの男の言葉。スイが幸せを感じるといつでもその声は、遠く低く聞こえる。
 その声だって、きっと、アキと繋がることができれば聞こえなくなる。それでも、あの男が消えてなくなるわけではないけれど、幸せになれないなんて言わせない。自分は、二人と、幸せになったのだと、その男の前でも胸を張れる。

「スイさん」

 よ。と、声に出して、ユキが起き上がった。
 想いに耽っている間、ずっと寄り添っていてくれたのだと気付いて、少し申し訳ないような、頼もしいような気持ちになった。

「俺、そろそろ行くよ」

 スイの頬に触れて、それから、その場所にキスをして、ユキが言う。穏やかだけれど、少し名残惜しそうな表情。スイ自身も、少し名残惜しい。
 でも、三人で決めたルール。この後はスイとアキの時間だ。

「おやすみ」
 
 ソファを立って、ユキが背を向ける。
 なんだか、その背中が寂しそうに見えた。いや、違う。
 スイは思う。
 寂しいのは自分自身だ。

「……あ」

 だから、思わず、スイは立ち上がって、ユキに背中から抱きついていた。

「スイ……さん?」

 ユキの声が戸惑っている。

「ユキ君。ありがとう。大好きだよ」

 愛しいと、思いを込める。声に、腕に、視線に。
 そうすると、そっとスイの腕を離して、ユキが振り返った。

「うん。俺も」

 それから、優しいキスをくれた。

「でも、もう。兄貴帰ってくる。いかないと。ルールだし」

 そういって、もう一度キスをして、ユキは部屋を出ていった。
 その背中をドアが閉まるまで見送って、スイはまたソファに座った。
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