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チロル 3
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◇某所:秋生◇
静かに振っていた雨はいつの間にか本降りになっていた。さあ。と、静かな雨音が耳に心地いい。時折、雨どいから零れた水滴がコンクリートに落ちて、水音を響かせる。
深夜の住宅街は静かだ。治安がいい場所ではないが、雨の夜を選ばずとも、月のない夜を選ばずとも、どうせ犯罪は横行している。だったら、わざわざ濡れてまで危険な橋は渡らない。ここはそんな街だ。
雨のせいなのかひどく冷たい壁に背を預けて、腕組みをしてアキは考え事をしていた。
頭の中を占めるのは、もちろん、スイのことだ。
何故自分たちに何も言わずに危険な場所に行ったのか。
と、聞いたのは、傷ついて震えているスイを追い詰めようと思ったわけではない。ただ、判断ミスだったのなら、正しく咎められることで心を軽くしてやりたかっただけだ。判断ミスではなくて、自分たちに非があるというのなら教えてほしかっただけだ。
けれど、スイが頑なに話そうとしないことを、あの男が、川和志狼が知っているのは嫌だった。ユキから逃げ出したスイが頼ったのがあの男だったことが、堪らなく嫌だった。
だから、問い詰めたのに。
その答えが予想外だった。
「なあ。兄貴」
同じく壁に背を預けてしゃがみこんだユキが見上げている。アキとは違って、ユキはスイのいっていたことをあまり深く考えている様子はない。何故、考えずにいられるのかと、わが弟ながら呆れる。と、アキは思う。ユキはいつもそうだ。物事を深く考えようとはしない。それは、彼のいいところでも悪いところでもあると思う。
深く考えないから、ユキはアキのようにスイを追い詰めたりしない。けれど、深く考えないから、スイを傷つけたりする。足して二で割れたならいいと言おう。いや、足したままならそれでもいい。
そうしたら、今のアキの悩みは解消される。
「なんだ?」
ため息交じりにアキは答える。
やはり、最大のライバルはユキだった。当たり前だ。ユキはアキが育てた最高の男だ。そして、たった一人の家族だ。だから、本当なら全部与えてやりたい。スイ以外なら何でも譲ってやれる。
きっと、ユキにとっては初めて好きになった人がスイだろう。女性経験がないわけではないが、今までアキ以外の人間を『特別』として、扱ったのを見たことはない。天真爛漫に見える心には、深い傷を抱えていて、誰にでも笑顔を向けるけれど、誰にも心を開くことはなかったと思う。
そのユキが安心して寝顔を見せられるような人ができたことを、兄なら祝福してやりたい。しかし、これだけは無理だ。と、アキは思う。スイでなければ誰でも祝福できたのに。
「兄貴さ。覚えてる?」
壁を伝って落ちてくる雫を見つめなら、ユキが言う。
「ガキの頃さ。金なくて、腹減って、寒くて、眠れなくて。俺が泣いてると、よくコンビニでチロル買ってくれたよな」
二人の親は、いわゆる毒親だった。意味もなく暴力をふるう父親と、父の留守に男を連れ込んで子供をクローゼットに押し込んで盛る母親。ユキに自分のような思いをさせたくなくて、親から逃げ出した後、犯罪まがいのことをしながら、二人で身を寄せ合うようにして暮らしていたころのことだ。忘れるわけがない。
「ん。覚えてる」
ユキはその頃、6つかそこらだっただろうか。覚えているとは思わなかった。
「あれさ。いつも、自分の分も買ったって言ってたけど、本当は一個しか買ってなかったんだろ?」
じっと、黒い瞳が見つめている。それから一年も経たないうちに、訳も分からぬまま、ユキを奪われて、血反吐を吐く思いで再会するまで、お互いに口では言えないような、口にも出したくないようなことがあった。けれど、そうしていると、ユキはあの頃と変わっていない。
「……しらん。忘れた」
少年時代。アキにとってはぼろぼろになってでも守ったユキが笑顔を見せてくれるのだけが、支えだった。
その笑顔を失いたくない。
腕組みを解いて、くしゃ。と、ユキの髪を撫でると、まるで、大型犬のように弟は素直にその手を受け入れた。
「……兄貴は忘れてても。俺は覚えてる」
呟くように言って、ユキは口を噤んだ。
アキだって覚えている。
本当は金なんてなくて、どうしようもなかった頃だ。自分のエゴでユキを連れ出したせいで、親を奪ってしまったこと。親元にいれば十分とは言えなくても、家も食事も死なない程度には与えられていた。それすらなくなってしまったこと。毎日、ユキの寝顔にごめんと繰り返しながら、それでも本当に自分の手を汚すこともできなくて、小さなチョコレートだけが罪滅ぼしだった。
ユキに母さんのところに帰りたいと言われたらどうしよう。言われたくないと、必死だった。
それをユキがどうとらえているか、アキは未だに聞くのが怖い。
今、それを言う意味を考えるのが怖い。
ユキから親を奪った自分にユキは何を求めているんだろう。
そんなことが頭を過ったときだった。
がちゃ。
不意に、目の前のドアが開いた。
静かに振っていた雨はいつの間にか本降りになっていた。さあ。と、静かな雨音が耳に心地いい。時折、雨どいから零れた水滴がコンクリートに落ちて、水音を響かせる。
深夜の住宅街は静かだ。治安がいい場所ではないが、雨の夜を選ばずとも、月のない夜を選ばずとも、どうせ犯罪は横行している。だったら、わざわざ濡れてまで危険な橋は渡らない。ここはそんな街だ。
雨のせいなのかひどく冷たい壁に背を預けて、腕組みをしてアキは考え事をしていた。
頭の中を占めるのは、もちろん、スイのことだ。
何故自分たちに何も言わずに危険な場所に行ったのか。
と、聞いたのは、傷ついて震えているスイを追い詰めようと思ったわけではない。ただ、判断ミスだったのなら、正しく咎められることで心を軽くしてやりたかっただけだ。判断ミスではなくて、自分たちに非があるというのなら教えてほしかっただけだ。
けれど、スイが頑なに話そうとしないことを、あの男が、川和志狼が知っているのは嫌だった。ユキから逃げ出したスイが頼ったのがあの男だったことが、堪らなく嫌だった。
だから、問い詰めたのに。
その答えが予想外だった。
「なあ。兄貴」
同じく壁に背を預けてしゃがみこんだユキが見上げている。アキとは違って、ユキはスイのいっていたことをあまり深く考えている様子はない。何故、考えずにいられるのかと、わが弟ながら呆れる。と、アキは思う。ユキはいつもそうだ。物事を深く考えようとはしない。それは、彼のいいところでも悪いところでもあると思う。
深く考えないから、ユキはアキのようにスイを追い詰めたりしない。けれど、深く考えないから、スイを傷つけたりする。足して二で割れたならいいと言おう。いや、足したままならそれでもいい。
そうしたら、今のアキの悩みは解消される。
「なんだ?」
ため息交じりにアキは答える。
やはり、最大のライバルはユキだった。当たり前だ。ユキはアキが育てた最高の男だ。そして、たった一人の家族だ。だから、本当なら全部与えてやりたい。スイ以外なら何でも譲ってやれる。
きっと、ユキにとっては初めて好きになった人がスイだろう。女性経験がないわけではないが、今までアキ以外の人間を『特別』として、扱ったのを見たことはない。天真爛漫に見える心には、深い傷を抱えていて、誰にでも笑顔を向けるけれど、誰にも心を開くことはなかったと思う。
そのユキが安心して寝顔を見せられるような人ができたことを、兄なら祝福してやりたい。しかし、これだけは無理だ。と、アキは思う。スイでなければ誰でも祝福できたのに。
「兄貴さ。覚えてる?」
壁を伝って落ちてくる雫を見つめなら、ユキが言う。
「ガキの頃さ。金なくて、腹減って、寒くて、眠れなくて。俺が泣いてると、よくコンビニでチロル買ってくれたよな」
二人の親は、いわゆる毒親だった。意味もなく暴力をふるう父親と、父の留守に男を連れ込んで子供をクローゼットに押し込んで盛る母親。ユキに自分のような思いをさせたくなくて、親から逃げ出した後、犯罪まがいのことをしながら、二人で身を寄せ合うようにして暮らしていたころのことだ。忘れるわけがない。
「ん。覚えてる」
ユキはその頃、6つかそこらだっただろうか。覚えているとは思わなかった。
「あれさ。いつも、自分の分も買ったって言ってたけど、本当は一個しか買ってなかったんだろ?」
じっと、黒い瞳が見つめている。それから一年も経たないうちに、訳も分からぬまま、ユキを奪われて、血反吐を吐く思いで再会するまで、お互いに口では言えないような、口にも出したくないようなことがあった。けれど、そうしていると、ユキはあの頃と変わっていない。
「……しらん。忘れた」
少年時代。アキにとってはぼろぼろになってでも守ったユキが笑顔を見せてくれるのだけが、支えだった。
その笑顔を失いたくない。
腕組みを解いて、くしゃ。と、ユキの髪を撫でると、まるで、大型犬のように弟は素直にその手を受け入れた。
「……兄貴は忘れてても。俺は覚えてる」
呟くように言って、ユキは口を噤んだ。
アキだって覚えている。
本当は金なんてなくて、どうしようもなかった頃だ。自分のエゴでユキを連れ出したせいで、親を奪ってしまったこと。親元にいれば十分とは言えなくても、家も食事も死なない程度には与えられていた。それすらなくなってしまったこと。毎日、ユキの寝顔にごめんと繰り返しながら、それでも本当に自分の手を汚すこともできなくて、小さなチョコレートだけが罪滅ぼしだった。
ユキに母さんのところに帰りたいと言われたらどうしよう。言われたくないと、必死だった。
それをユキがどうとらえているか、アキは未だに聞くのが怖い。
今、それを言う意味を考えるのが怖い。
ユキから親を奪った自分にユキは何を求めているんだろう。
そんなことが頭を過ったときだった。
がちゃ。
不意に、目の前のドアが開いた。
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