遠くて近い世界で

司書Y

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FiLwT

激情 6

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 アキに続いてドアをくぐる。
 その先にはスイがいた。
 周りには何人も人が倒れている。10人はいるだろうか、皆、血だらけだ。ぴくり。とも、動かないものも、苦し気な呻きをあげて蹲るものも、悲鳴のような声を上げてのたうち回るものもいる。
 スイは右手に半裸の男の髪を掴んで、左手に彼の愛用のナイフを持っていた。男の両目は刃物で一直線に切られてそこから大量の血が溢れている。けれど、男はピクリとも動かない。よく見ると、その胸のあたりに銃弾の痕。おそらくはそれが致命傷になって息絶えているのだろう。

 べしゃ。
 と、水音を立ててスイはその男を彼が作った水たまりに捨てた。
 致命傷を負っている様子はないが、殴られたのか、右目のあたりが赤く腫れて、身体にもいたるところに傷がある。その上、着衣が乱れて細い鎖骨や、胸元は露になっていた。

 どくん。
 と、身体の奥から負の感情が湧き上がる。
 誰だ?
 スイを傷つけたのは。と、どす黒い何かが殺意という明確な形を持ち始める。

 スイに表情はない。
 ただ、返り血で汚れた、頬を涙が伝っている。
 彼は、一度、床の水たまりに視線を向けてから、ふと、天を仰ぐ。
 そのさまは、はっとするほどに美しかった。
 禁忌を犯しているはずなのに、まるで宗教画を見るような気高さすら、感じる。その背徳的な美しさにアキは目を、否、心を奪われたのだろう。

「何してんだ! 殺せ」

 突然侵入してきたはずのアキやユキに気付く様子もなく、遠巻きにスイを囲んでいたうちの一人が喚き散らした。痩せぎすで神経質そうな男だ。彼の目にはスイはどう見えているのだろう。と、ふと思う。きっと、その男の目には映っているのだ。背中に蝙蝠の羽を生やした翠の瞳の妖艶な姿の悪魔の姿が。

「早くしろ!」

 怯えた様子で命令を聞こうとしない周囲のうちの一人の腕を掴んでスイの方に無理矢理押し出して、痩せぎすの男が続ける。

「やらねえと、お前ら、一生医者にはなれないようにしてやるぞ!」

 その言葉に押し出された男ははっとして、スイに向けて銃を構えた。明らかに素人とわかるぎこちない仕草だ。けれど、アキがすぐにそれに反応した。
 瞬きするほどの間に銃を持った男に近付いて銃に手をかける。撃鉄を押さえつけて、突然の襲撃に相手が怯んだすきにマガジンを抜き、ユキの方に投げる。その上で、喉仏の下あたりに指を突き入れる。多分、相手は何をされたのか分かっていなかっただろう。3秒かからずに銃を持った男は床に崩れ落ちた。

「な……んだ? おま……」

 痩せぎすの男はそこでようやくアキとユキの存在に気付いた。が、遅かった。いや、早かったとしても結果が変わったわけではないだろう。
 そこにいるのは素人ばかりだったし、そうでなかったとしても、動揺している相手を制圧するのは容易い。痩せぎすの男の言葉が終わる前に、アキはその男を拘束した。

「い……いででで」

 背中に腕をひねり上げられて、男が絶叫する。

「銃、捨てろ」

 低く冷たい声でアキが言う。その声は決して大きくはないけれど、逆らうことができない威圧感を持っていた。

「捨てねえなら、腕を折る」

 赤い瞳には温度など一切備わっていないように見えた。ユキにはわかる。アキが怒っている。かろうじて冷静さを保っているのは、スイが生きているからだ。スイが無事だから殺さないでやろうという意味ではない。スイを危険に晒す方法をとりたくないだけだ。
 だから、逆らうなら、折るのはおそらく腕ではなく首だろう。アキがやらなければユキがやる。身体を駆け巡る怒りはいつも歯止めになってくれる兄の不在で荒れ狂っている。

「……い。いう通りにしろ!」

 怯え切った表情で痩せぎすの男が言う。そうでなくても、戦意など欠片も残ってはいなかった男たちはアキの言葉に従っただろう。銃器を持っていた者たちはそれを床に投げ出した。

「あ。あんた何もんだよ? 俺が誰か知ってんのか? 親父は厚生労働大臣の井上源太郎だぞ! こんなことして……ただで済むと……」

「知らねえよ。
 つか、聞きてえことあるんだけど?」

 相手に言葉に一切耳を貸さずに、アキが低く言う。わが兄ながら怖くなるほどの殺気だ。まるで抜身の日本刀のようだと思う。たとえ羽根でも触れたら切れる。そんな兄を見るのは初めてだった。

「あの人を。殴ったの誰だ? あの人……あんなふうにしたの誰だよ?」

 みし。と、音がするほどに痩せぎすの男の腕があらぬ方向を向く。

「……あ……が」

 悲鳴すら上げられずに、男は喘いだ。

「なあ、誰だよ? すぐに殺してやるから教えろ」

 ご。と、鈍い音が響く。
 完全におかしな方向を向いた腕。が。が。と、短く声を上げて、男は泡を吹いて気を失った。アキが手を離すとそのまま足元に崩れ落ちる。

「なんだよ。このくらいで」

 ぞ。っとするような表情で足元の男を見つめてアキははいて捨てた。それから、残った連中に視線を向ける。
 ひ。と、声を上げて一人が逃げ出すと、つられるようにほかのものも後を追って部屋を出て行った。殺してやるとは言ったのだが、アキはそれを追うことはしなかった。
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