遠くて近い世界で

司書Y

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FiLwT

さよなら。と 4

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 あの男はきっと自分を見つけ出す。
 その時にそばに彼らがいたら、どうなってしまうのだろうか。あの執念深い蛇のような男が見逃すはずがない。
 自分が彼らに思いを寄せていると気付かれたら、どんな厄災が彼らに降りかかるのか考えるのが恐ろしい。

 好きだとか、心地いいとか、少女のおままごとのような感情に気を取られて、そんな簡単なことに思い至らなかった自分の愚かさに呆れる。
 ただの仕事仲間だったとしてもきっと迷惑がかかる。アキとユキなら一方的に追い詰められるようなことはないだろう。けれど、自分のために晒されなくていい危険に晒される二人を見るのは嫌だった。そして、あの男が簡単に諦めてくれるような相手でないこともスイはよくわかっていた。

「今度こそ……本当に……」

 この街を出ていかなければいけないかもしれない。そろそろ潮時であったことも確かだ。少しでも見つかる可能性を排除したいなら、一つのところにいてはいけない。5年間。何度も転居を繰り返したのも、それが理由だ。けれど、今度は二人にも見つからない場所まで逃げなければいけない。そう思うと、切なさに涙が零れた。気付いたばかりの小さな思いを簡単に消してしまうのが切ない。いや。きっと簡単に消えてくれはしない。
 きっと、独りになっても思い続けるのだろう。

「壱狼さん。俺。独りに戻れるのかな……」

 生涯、想い合いながらも離れ離れになった愛する人を思い続けた友人に問いかける。会うことすら叶わなかった人を思い続けた年上の友人のようになれるのだろうかと、思う。なれなくてもいい。忘れられるならきっと、その方が幸せだ。けれど、忘れられる気がしない。一度知ってしまった温かな感情が簡単には消えてくれないことも、この5年間でスイが学んだことだった。

「……あれ?」

 後ろから聞こえてきた声に、スイははっとして振り返った。

「あ……れ。シロ君」

 そこには、壱狼の孫の志狼がいた。

「スイさん! ジジイの墓参りきてくれてんの?」

 ジジイ。と、彼はその祖父を呼んでいた。喧嘩ばかりしていたけれど、仲がいい祖父と孫だったと思う。その証拠に口は悪いけれど、手には大きなユリの花束を持っている。彼が好きだった花だ。
 いつもは強いシロが壱狼の死後何も言わずただ涙を零していたのがとても印象的だった。きっと、彼はその祖父が大好きだったのだ。
 だから、祖父の友人の自分を大切にしてくれる。

「うわ。マジで? こんな時間に、こんなところで、スイさんに会えるとか、ついてるな」

 確かに、墓参りするには少々遅い時間だと思う。もう、終電の出る頃だ。スイだって普段はこんな時間に墓参りに来たりはしない。

「ジジイ。感謝してやるよ」

 墓前に花束を置いて、シロは言った。長身で均整の取れたスタイルのいい彼の仕草ははっとするほどに様になっている。

「よし……と。ところで、スイさん。これから、暇?」

 暗くてよくは分からないが、少し離れたところに黒服のお兄さんが何人か待機している。多分、彼の“お付き”の人たちだろう。スイの視線に気づくと、すっと頭を下げる。どこぞの下っ端ヤクザと違って、同じ黒服でも教育が行き届いているらしい。それを手でしっしっと追いやってから、極上の笑顔をうかべて、シロが言ってきた。

「あ……えと」

 家に帰るという選択肢は思い浮かばなかった。
 このまま何も言わずにいなくなるという選択肢は一瞬頭を掠めたけれど、それを実行するには覚悟が足りない。論理的には最善策だとわかっている。でも、感情かそれを許さない。せめて、もう少しでいいから、時間がほしい。軽く情緒が欠落していると、自覚しているスイは、こんなふうに思う日がくるなんて思わなかった。

「なんか、用のあんの?」

 考え込んでしまったスイの顔を、シロが覗き込む。

「……なんか、あった?」

 心配そうな表情。この街を離れることになったら、たぶん、シロとももう、会うことはないだろう。立場上彼は二人に比べれば安全圏にいるが、スイ自身があらゆる関係を絶たなければあの男からは逃れられないと思う。だから、もしかしたら、彼に会うのはこれが最後かもしれない。

「時間あるなら、飲みにいかね? 奢るよ」

 スイがおかしいことに、シロはもちろん気付いているだろう。でも、それを問いただそうとはしない。しないから、友人でいられた。もし、問いただすような人物だったら、別の関係だったかもしれない。少なくとも友人ではなかった。

「ん。いいよ。でも、俺が奢るよ。返してない借り数えきれないし」

 そんなことを考えて、バカなことを考えていると苦笑して、スイは答えた。
 なんにせよ、少し時間がほしい。最後だと思うと、少しでも借りは返しておきたい。

「俺、ザルじゃななくて、ワクっていわれてるけど、大丈夫?」

 時間稼ぎのネタにしている後ろめたさも、表情には出ていたかもしれない。もちろん、最後かもしれないと、思っているのも隠せていたか分からない。けれど、やっぱり、シロは踏み込んでは来なかった。それが、彼の優しさで、曖昧さで、弱さで、それが、スイが彼を心の一番柔らかな部分に踏み込ませない理由だ。と、シロも、スイも、意識してはいない。

「いいよ。でも、先潰れたらごめん」

 心の中に蟠っている全部に蓋をしてスイは笑って見せた。上手くは笑えていないだろうけれど、シロがそれに踏み込んでこないことも知っていた。

「……楽しみにしとくわ」

 一際強い風が吹き抜けて、シロのコートの裾がばたつく。あまりの強さに髪を抑えて肩を震わせると、暗がりの中でようやくスイがかなりの薄着であることに気付いたのか、シロはコートを脱いで肩にかけてくれた。

「いいよ。シロ君が寒いだろ?」

 固辞しようとする手を止められる。それから、その手がスイの細い手を握った。

「すげえ冷てえじゃん。着ててよ。俺は大丈夫、バカだから風邪ひかねえし、俺は後で上着くらい持ってこさせるし」

 しっしと追っ払ったはずなのに遠巻きに見える黒服を顎で示して見せて、シロは言った。

「それより、行こうぜ」

 手を握ったまま引かれて、スイは頷いた。
 少しだけ振り返り、友人の墓標を見る。それから、心の中で呟いた。

 さよなら。

 と。
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