遠くて近い世界で

司書Y

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ユキの気持ち

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 出会ったのは、雨の降る街だった。
 細い雨が空から糸を引いて、地表に落ちる。

 その雨の中に彼はいた。
 第一印象は、なんだか、とても不機嫌な顔をしていると思った。この世には何一つ楽しいことなんてないと、諦めているように見えた。
 どうしてそんな顔をするのだろうと。少しだけ興味がわいた。

 彼を知る人に出会った。
 タバコ屋の老人。
 不機嫌な顔の正体をしりたくて、老人に聞いたけれど、何も分からなかった。
 その代り、その人の名前がとても美しいと知った。

 翡翠。

 その名前は彼にぴったりだと思った。彼の、不機嫌だけれど、どこか儚げに揺れる翡翠色の瞳によく似合うと思った。
 それでも、結局、最後まで彼が不機嫌だった理由は分からなかった。

 兄と話をしている彼は、少し遠くに感じる。自分の分からない世界に二人が行ってしまったようで、自分も早く大人になりたいと思った。それでも、決して自分の年齢が二人に追いつくことはない。それが、悔しいような、歯がゆいようなそんな気持ちになった。

 あの大きな事件の後、再会した彼は、不機嫌な顔をしなくなっていた。かわりに、目を細めて良く笑うようになった。
 つまらない冗談で。彼の作った料理を拙い言葉で褒められて。罰ゲームで買い出しに行かされることになっても。お早うとドアを開けた時も。お休みと背中を向ける前にも。
 自分は、その顔がとても好きだった。それから、どうしてそんな顔をしてくれるようになったのか、知りたくなった。

 多分、そのころだと思う。兄が彼にとても優しいと気づいたのは。
 訪ねてきた彼が、うちへ帰ると別れの後、閉まったドアを見つめる兄はいつも寂しげだった。その表情の意味も知りたいと思った。

 自分の誕生日。兄が彼を誘おうと言った時には、少し驚いた。兄は、とても警戒心が強い。それは、多分幼かった自分を守るために身につけたものだと思う。今、戦闘技術は兄より自分の方が上だと思うけれど、それでも、兄にとって、自分は守るべきものなのだ。
 その兄が、自分たちの領域に誰かを招き入れる事があるなんて思わなかった。けれど、それが嬉しかった。その相手が彼で良かったと思った。
 彼の笑顔に返す、兄の笑顔も、とても心地よかったから。

 言ってはいけないことを彼に言った日。
 言わなければよかったと後悔した日。
 他に誰にも思ったことのなかったことを思った。

 嫌われたくない。

 不思議な感覚だった。今までは、誰が通り過ぎても、いなくなっても、何とも思ったことはない。ただ、兄だけを除いて。でも、兄は自分を嫌いになることなんてないと確信できた。ただ、その人は、そんな自分にも優しく笑ってくれた。
 だから、今度はどうしてそんな風に思ったのか知りたくなった。

 ある朝。目が覚めると、ダイニングから、兄とその人の声が聞こえてきた。兄のことを気遣うその人とそれに答える兄の声。

 どうしてだろう。
 今も思う。
 けれど、わからない。

 ただ、分かったことは、兄はその人が好きなのだということ。

 それからは、ずっとその人を見ていた。
 どうして、兄はこの人を好きになったのだろう。知りたいことがまた増えた。

 その人はとても優しかった。
 その人はとても頭のいい人だった。
 その人は綺麗な翡翠色の瞳をしていた。
 その人はよく通る声をしていた。
 その人は細い指をしていた。
 その人は柔らかそうな翠の髪をしていた。
 その人は言いたいことを飲みこんでしまうことがよくあった。
 その人は過去を語るのを恐れていた。
 その人はその翠の瞳でここではない遠くを見ていた。
 その人はいつも誰かに呼ばれるのを恐れていた。

 それから、その人はここにいるのに、いつかどこかへ消えてしまいそうだった。

 自分は気づいていた。だけど、それを兄にすら、言えなかった。
 多分、その人自身すら、気づいていない。
 時折、振り向くのだ。誰かに呼ばれたように。呼ばれたことを恐れるように。
 それから、それを振り払うように笑う。その笑顔は痛々しくて、自分は好きではなかった。

 でも、兄が彼を好きになった理由は分かった。分かった気がする。
 その人は何もかも綺麗で、儚くて、強くて、一瞬でも目を離すのがもったいないと思ったから。

 だから、自分も目を離せなくなった。
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