遠くて近い世界で

司書Y

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アキの気持ち

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 本当は、初めて会ったその日だった。

 それは、後で自覚したことで、その時は全く意識はしていなかったと思う。
 第一印象は、毛を逆立てて、シャーシャー言っている猫だった。その猫は、翡翠の色の大きな目が印象的で、撫でると柔らかそうな綺麗な毛色をしていた。
 小さな体を、毛を精一杯逆立てて大きく見せているけれど、その目は何かに脅えているようで、長いこと独りでいたのだろうと、少し可哀そうになったのを覚えている。
 抱き上げたその身体は腕にすっぽりと入ってしまうくらいに小さくて、優しくしたいと思った。

 でも、その印象が変わるまでに、それほど時間は要らなかった。
 彼はとても頭の良い人だった。たった一言の情報から、状況を把握して、作戦を組み立てて、それを実行に移す。まるで魔法を見ているようだと思った。
 成熟して、怜悧で、聡明な魔法使い。少しだけ怖いと思った。彼を本気で怒らせてしまったら、どこまで逃げても追い詰められて、破滅させられるのだろう。と。
 けれど、やっぱり、その翡翠の色の瞳は、とても綺麗で、目を離すのがもったいなくなった。

 それから、再会できるまでの間は、もう一度会いたいという気持ちと、もう会いたくない、否、会ってはいけないという相反する気持ちの間でゆらゆらと揺れていた。今思えば、もう一度会ってしまったら、多分自分自身が変わってしまうような気がしたからだと思う。
 ただ、再会した彼はあの聡明な魔法使いのような姿とはあまりに違っていて、ひどく自信なさげで、心細げだった。でも、それが彼自身の本当の姿だと気づいた。
 だから、やっぱり、もう一度会えてよかったと思った。

 再会してからは、毎日のように顔を見せるようになったその人を不快にも、負担にも思わない自分に驚いていた。自分の個人的領域はかなり広いほうだと思う。その中に入れるのは、弟だけだと思っていた。けれど、いつの間にか、彼がその中にいた。本当に気づかないうちに。
 それどころか、最初は不安げだった笑顔が、次第に柔らかく自然になっていくのを見るのがとてもうれしくて、彼が帰りの挨拶をするたびに、次に彼の顔を見るのが待ち遠しいと思うようになった。まるで、花が開くのを待っているような、そんな気分だった。

 毎日彼と会うようになって、気づいたことがある。
 彼の手は魔法のようだった。
 キーボードを叩いているときも、二人のために料理を作っているときも、ナイフの手入れをしているときも、照明のスイッチを押しているときさえも。
 その細い指先が、美しいと感じないときはなかった。もう、目を離すことなんてできなくなっていた。

 弟の誕生日。彼を誘ってみようと、提案したのは自分のほうだった。弟は少し驚いた顔をしてから、俺もそうしようと思ってた。と笑った。

 その人を傷つけるのが、自分でなければいいと、いつも思う。心も、身体も。自分はその人を守れる男でいたい。そう思う。
 けれど、その人を守りたいだなんていえるほど、自分は強くない。彼は、自分がいなくても大丈夫なくらいに強かった。
 だから、自分を助けに来てくれたその人が傷を負っても声一つあげないのに心が痛んだ。
 だから、自分以外の人のために心を痛めるのが、堪らなく嫌だった。それが、弟のためであっても。
 だから、自分以外の誰かに頼るのも、見たくはなかった。それが、自分のためであっても。

 こんな思いをなんというのか、少しだけ考えてみた。
 けれど、答えは出なかった。いや。出さなかった。答えを出してしまうのが怖かった。
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