遠くて近い世界で

司書Y

文字の大きさ
上 下
57 / 414
HBtF

6-6

しおりを挟む
 ヘッドホンからは、女性シンガーの歌声が流れていた。
 その曲は出会ったその日からずっとただ一人の人を想っているひとの歌だった。

 その曲を聴きながら、スイは階段を上っていた。
 空は、珍しく晴れて、どこまでも青い。その空が、とても綺麗だと思う。
 いつもと同じ空なのに。

 たくさん、失くしてきた。それは、多分、誰でも同じだと思う。
 誰でも、生きているとたくさんのものを失くす。それが、スイは少しほかの人より多かっただけだ。
 けれど、失くしてきたものは全部、かけがえのないものばかりだったから、また立ち上がって前を向くために思ったよりも、ずっと時間がかかってしまったのだろう。

 頬を撫でる風が心地よい。この街にもこんな日があるんだと、初めて知った。そう思うと、この街が好きになった。
 嫌いではない。ではなく、好きになった。

 ヘッドホンからは何度も信じていればきっとかなう。と、聞こえる。励ましてもらっていると感じられるのはきっと、スイ自身が変わったからだ。いや、変わりたいと願っているからだ。

 階段を登り終えて、ドアの前に立つ。ヘッドホンを外す。
 深呼吸をひとつ。
 ドアについたチャイムを鳴らした。

「はい」

 ドアの向こうから、返事がある。それは、よく通る低い声だった。それから、足音。それも、聞きなれた音。きっと、これはユキだ。
 ドアチェーンを外す音がして、ドアが開く。

「あれ? スイさん。どうしたの?? 今日忙しいって言ってなかった?」

 驚いた顔で黒曜石の瞳がスイを見つめる。
 ユキの声に今度は奥から、静かな足音。これは、アキ。

「……スイさん? いらっしゃい。入ってよ」

 今日、いや、多分、今、退院して病院から帰ってきたばかりのアキが顔を出す。もう、すっかりいつもどおりに戻っていて安心した。
 アキの退院の付き添いでさっきまでユキがうちにいなかったのも、スイは知っていた。だから、今日を選んだのだ。

「……あのさ」

 音楽をかけっぱなしのヘッドホンからは少しだけ音が漏れて来る。

 まだ言えないことがたくさんあって。それはずっと隠したままにしておきたと思う。思うけれど、同じくらい強く、知ってほしいとも思う。知っても、二人ならいなくなったりしない。そう、信じたい。

 きっと、これからも、すれ違いは沢山あると思う。傷つけあうこともあるかもしれない。

「隣に引っ越してきました。よろしくお願いします」

 ぺこり。と、頭を下げて、スイは自分にできる限り最高の笑顔を作った。いや、作ったのではない。計画が成功して、ここにいられるのが嬉しくて、思わず笑顔になってしまった。

「「!!!!!!!!」」

 言葉を失うアキとユキ。この顔が見たかった。

「え? え? え?」

 ユキが若干パニックって、疑問詞だけを張りつけている。

「だって、お隣さんは???」

 至極まともな疑問を投げかけて来るアキ。入院していたから、アキが知らないのも無理はない。

「昨日、引っ越したよ。誕生日の日に引っ越しますって、挨拶されたけど? 俺が引っ越してきたは今日。だから、忙しいって言ってただろ?」

 ユキが知らなかったのは驚きだけど、お隣さんはスイがここに住んでいると思っていたので、それも仕方ないかもしれない。スイに話したらユキにも伝わると思っていたのだろう。

「やた! じゃあ、毎日一緒にいられるんだ」

 嬉しそうに笑うユキ。もっと、驚いてくれると思っていたのに、意外にすぐに冷静になっている。いや、冷静なのかは分からないけれど、順応性が高い若者ってすごい。と、スイは思う。

「……毎朝。8時に起こされるわけ?」

 アキが天を仰ぐ。そのわりには、口の端はにやけている。というか、8時は決して早起きではない。

「俺がそばにいるからにはだらけた生活させないからな」

 腰に手を当てて、左手でアキを指差して、ドヤ顔でスイが宣言する。
 まだ、少し怖い。けれど、二人と行こうと決めた。

 女性シンガーがヘッドホンの中で歌う。
 信じていれば、きっと伝わる。

 だから、また、歩き出そう。
 どこまでも、どこまでも青いこの空の下で。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

たしかなこと

大波小波
BL
 白洲 沙穂(しらす さほ)は、カフェでアルバイトをする平凡なオメガだ。  ある日カフェに現れたアルファ男性・源 真輝(みなもと まさき)が体調不良を訴えた。  彼を介抱し見送った沙穂だったが、再び現れた真輝が大富豪だと知る。  そんな彼が言うことには。 「すでに私たちは、恋人同士なのだから」  僕なんかすぐに飽きるよね、と考えていた沙穂だったが、やがて二人は深い愛情で結ばれてゆく……。

【完結】ここで会ったが、十年目。

N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化) 我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。 (追記5/14 : お互いぶん回してますね。) Special thanks illustration by おのつく 様 X(旧Twitter) @__oc_t ※ご都合主義です。あしからず。 ※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。 ※◎は視点が変わります。

朝起きたら幼なじみと番になってた。

オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。 隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた 思いつきの書き殴り オメガバースの設定をお借りしてます

神子は再召喚される

田舎
BL
??×神子(召喚者)。 平凡な学生だった有田満は突然異世界に召喚されてしまう。そこでは軟禁に近い地獄のような生活を送り苦痛を強いられる日々だった。 そして平和になり元の世界に戻ったというのに―――― …。 受けはかなり可哀そうです。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

私の庇護欲を掻き立てるのです

まめ
BL
ぼんやりとした受けが、よく分からないうちに攻めに囲われていく話。

目覚ましに先輩の声を使ってたらバレた話

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
サッカー部の先輩・ハヤトの声が密かに大好きなミノル。 彼を誘い家に泊まってもらった翌朝、目覚ましが鳴った。 ……あ。 音声アラームを先輩の声にしているのがバレた。 しかもボイスレコーダーでこっそり録音していたことも白状することに。 やばい、どうしよう。

処理中です...