遠くて近い世界で

司書Y

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 エレベーターまで続く廊下には誰もいなかった。深夜だから当たり前のことなのだが、薄暗い常夜灯しか光源がない廊下は、いくつか並んだドアや、給湯室への通路や、トイレの入り口から、今にも”敵”が現れそうで落ち着かない。
 まだ、気持ちが高ぶったままなのだ。もちろん、完全に安全を確認できるまではそうでなくてはいけないということも、アキには分かっていた。

「……兄貴」

 インカムの向こうから、ユキが躊躇いがちに声をかけて来る。正直、平気なふりをして返事をするのはきつかったが、これ以上ユキに心配はさせたくなかった。

「ん?」

 だから、せめて手短に聞き返す。

「これ。スイさんに聞こえてる?」

 ユキの問いにちらりとスイを窺う。スイは、俯き加減で、スマートフォンを取り出して、何かを打ち込んでいた。こちらを気にしている様子はない。
 その頬が少し青ざめているのが気にかかる。

「……いや」

 答えると、しばし躊躇い。

「……俺。スイさんにひどいこと言った」

 ああ、やっぱりと思う。多分、アキを助けに行くと駄々を捏ねたのだろう。

「どうしよう」

 叱られた子供のように、しょげかえった声を出すユキ。情けないとは思わなかった。それでも、ユキは彼の精一杯で自分を助けてくれた。ユキがいなかったら、アキもスイも今生きてはいない。

「大丈夫。俺が言っといてやるから。後でお前もちゃんと謝れよ?
 それから、お前ははやくそこを離れろ。もう、切るぞ」

 うん。と素直に返事をする弟に苦笑してインカムを外す。それから、それをスイに返した。

「悪かったな。ユキ。駄々捏ねたんだって?」

 アキの顔を見てから、スイがインカムを受け取る。一瞬、その翠色の瞳が瞬いて、すと、視線を逸らす。それが、エレベータのボタンを押すためだったのか、それとも瞳に映る悲しい色を隠すためだったのかは分からない。
 立ち止まって、スイの細い指がエレベータのボタンを押す。それから、そのまま、スイの視線がアキに戻って来ることはなかった。

「仕方ないさ。アキ君のことがそれだけ大切なんだ」

 その横顔が寂しげに微笑む。瞳はボタンに向けたままだった。
 目を離したら、スイが消えているような気がして、アキはスイに掴まる手に力を込めた。

「……ガキみたいだろ? これじゃ、スイさんがいやだって言うはずだよな」

 消えないでほしいと。そう願っていたと思う。

「え?」

 しかし、俯き加減だったスイの翡翠の色の瞳が驚いたようにもう一度、アキの方を向く。悲しい色は見えなかった。

「いやだなんて、言った覚えないけど……」

 不思議そうにアキの顔を見つめるスイ。黒目がちで大きな瞳を縁取る長い睫毛が二・三度、瞬く。

「はあ?」

 噛み合っていない会話に声を上げた瞬間、また、傷が痛んだ。
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