遠くて近い世界で

司書Y

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 けれど、自分自身の身勝手さを恥じるスイの思いに反して、その視線の端にものすごく優しく笑うアキの顔を見つけて、スイはそのまま固まってしまった。その拍子に翠の目から大粒の涙が零れる。

「スイさん。やっぱり、お礼はこっちに言わせてよ」

 ティッシュの箱を差しだして、アキが言う。
 何もかも、全部綺麗なアキにそんな風に微笑まれたら、破壊力は抜群で。決壊したスイの涙腺はもはや涙を留めることなんてできなくなった。

「俺さ。実はあの催眠療法事件の後、スイさんのこと調べたんだ」

 差しだされたティッシュを数枚引きぬいて顔を拭きながら、スイはアキを見つめる。

「……なにも、わかんなかっただろ?」

 スイには過去がない。何もかも失った後、戸籍を含む自分にかかわる全ての記録を改竄して、この世に存在しない人間になった。今のIDは偽造品で、5年前にこの街に来る前の記録は何もない。
 この街に来てからも、IDは3回替えている。住居にいたっては7回だ。

「ん。なんにもわかんなかった。
 ただ、ひとりだけ、スイさんのこと少し知ってるヤツに知り合えた。成都ってBARのバーテンのヤツ。そいつ、催眠療法事件のこともかなり知ってて、そのことを全部話すならスイさんの情報教えてやってもいいっていってた。
 でも、なんも聞かなかった」

 成都のハスラーであるシムとは以前からの付き合いだ。彼も仕事を請け負うプロで、同じ一匹狼というスタンスのせいか、情報交換をすることもあった。そして、この街に来る手助けをしてくれた人物で、それ以前の自分のことを知る数少ない人物でもある。
 後始末に協力を仰ぐため、催眠療法事件のことをある程度話したのもスイ自身だ。シムのことだ。その後に裏を取るために調べて事態のあらましを知ったのだと思う。

「スイさんが、自分から話してくれるまで、待つってユキと決めた」

 きっと、アキとユキも自分と同じなのだとスイは思う。誰にも頼らず二人だけで生きてきたのだ。
 それなのに、二人だけの領域にスイを入れてくれた。危険かもしれないのに、スイを信じてくれた。その上で、不器用なスイの話を待っていてくれるとまで言ってくれた。

「だから、少しでも話してくれて、すげえ嬉しい。
 ありがとな。もし、できたらでいいんだ。また、話してよ」

 全身で喜びを表すユキの満面の笑顔とは少し違うけれど、穏やかで優しい笑顔だった。

 やっぱり、アキ君の瞳は綺麗だ。

 スイは思う。それから、やっぱり、瞳だけじゃなくて全部綺麗だと思う。
 その笑顔がふと、真顔になる。それから、なにかを思案するよな表情に。最後に、少し改まった顔になってアキは続けた。

「……催眠療法事件のときからさ。言おうと思ってた。
 俺たちも、ずっと二人だけで生きてきたから。こんな風に思う相手ができるなんて思ってもみなかった。あんまりよく知らないのにな」

 今度はアキが少し自嘲気味に笑う。

「それでも……なあ。スイさん。
 俺たちとさ。一緒にやろうよ」

 自分でも持て余しているその感情を、酔っぱらった勢いで話してしまっていることへの恥ずかしさと、どうしてスイのことを特別に思ってしまうのかわからない戸惑い。それから、これからのことを考えるときに湧き上がる子供のような高揚感。そんなものが、彼を自嘲気味にさせている。
 けれど、その言葉は、スイにとっては宝物のように綺麗に思えた。

 アキ君は、言葉までが綺麗だ。
 きらきらして、宝石みたいだ。
 酔っているからかな。

 スイは思う。

 こんな幸せが自分の人生の上にあるなんて思わなかった。

 “お前は幸せになんてなれない”

 と言ったのは、かつて家族だった人だ。スイを自由にしてくれた人。幸せというものがこの世にあるのだと教えてくれた人。そして、スイから全てを奪った人。
 その人から逃げ出したあの日、最後にスイの背中に投げつけられた言葉だった。
 それは呪いだ。その後、今に至るまで一瞬たりともスイを逃してはくれなかった呪いだ。
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