遠くて近い世界で

司書Y

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 両手に抱えた紙袋に、一杯の食材を詰め込んで、スイは二人の部屋に続く階段を上っていた。食材の買い出しは一緒に行くとアキは言ってくれたのだが、一人で大丈夫と断った。断ったのだが、スイは後悔していた。スーパーであれもこれもと放り込むうちにいつしかカートは山盛りに……。結局、両手に大荷物を抱える羽目になった。
 二人の部屋が2階で助かったと心から思う。これで、4階まで上がれと言われたら、容赦なくアキを呼び出していたところだ。

「……いくらなんでも買いすぎか?」

 スイは呟いた。しかし、二人と初めて食事をしたあの日。あの焼き肉屋、以来、スイはユキの食欲だけは過小評価しないと心に決めていたのだ。あの引き締まった身体のどこにあの量の肉が消えていくのか、物理法則を完全に無視しているとしか思えない消費量に、世の中には科学で証明できないことがあるのだと気付かされた。

「……こんくらいは食うだろ」

 そんなことを考えながら、よいしょっと。紙袋を持ち直した瞬間。脇に挟んでいた包みが落ちる。

「……あ」

 慌てて拾うため、手に持っていた荷物を降ろそうとした時、すと横に立った人物がそれを拾い上げた。

「あ。すみません」

 視線を上げると、それは、顔を見知った老夫人だった。二人の部屋の隣に住んでいる老夫婦の奥さんの方だ。

「どうぞ」

 上品に微笑んで荷物を脇に挟んでくれる。
 スイは何故かご老人の受けがすこぶるいい。前の部屋の前のタバコ屋のシゲさんしかり、裏路地の小さな喫茶店の老マスターしかり、公園で将棋を指している将棋同好会のじい様たちしかり。
 この老婦人も二人の所に通ううちに挨拶するようになり、世間話をするようになり、しまいにはおすそ分けまでしてくれるようになっていた。二日と空けずスイがここに通ってきているため、老婦人は、スイがここの住人だと思っている節がある。

「ありがとうございます」

 スイが笑顔でお礼を言うと、老婦人はにこにこ笑いながら話しかけて来た。同じ年頃の大多数のご婦人と同じように、彼女はとても話し好きだ。

「あらあら、今日は何かお祝いでもあるのかしら?」

 そういう老婦人も手に買い物袋を提げている。

「ええ。今日はユキ君の誕生日で」

 そんな答えがなんだか少し面はゆい。背中がむずむずするような感覚。けれど、それは、不快ではない。

「まあ、いいこと。じゃあ、プレゼントも用意したのかしら?」

 その問いにスイは脇に挟んだ包みを視線で指し示した。それもなんdか気恥ずかしいけれど、誇らしいような誰かに聞いてほしいような不思議な気持ちだった。

「ユリさんにさっき拾ってもらったこれですよ」

 ユリさん。
 と、言うのは、老婦人の名前だ。スイは彼女を名前で呼んでいた。おばあちゃん。とは呼ばないところが、彼の老人受けのよさなのだ。歳より扱いしないこと。それが、お年寄りにも好かれる。けれど、彼自身はそれに気付いてはいなかった。

「そうなの。おともだちに祝ってもらったら、きっとよろこぶわね」

 階段を上り切っても老婦人はそのまま立ち話を始める。

「だといいな。……誕生日っていいですよね。男同士の友達だとプレゼントなんて普段は恥ずかしくてできないけど、こんなときなら素直に渡せる」

 少し荷物は重いけれど、スイももう少し話したい気分だった。もう少しだけ、久しぶりに、友達の誕生日を祝うことを誰かに聞いてほしかったのだ。

「でも、本当はいつだって感謝の気持ちを伝えたい。ユキ君にも……アキ君にも……ああ。アキ君の誕生日っていつかな? 誕生日でなくてもいいのかな?」

 それから、もう一つ。自慢したい。祝い事でなくても、普通の日だって楽しくて仕方ない特別な日のように感じさせてくれる人がいること。

「……そんなことしたら、笑われてしまうかな?」

 スイの独りごとの様な問いに、老婦人はさらに笑みを深くした。

「そんなことありませんよ。あら、ごめんなさい。お急ぎでしょう? 私はこれで。……あ。そうそう」

 これで、と言いながら、それでも続きそうな話に、心の中で苦笑して、それでも、笑顔は崩さずにスイは立ち話を続けるのだった。
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