遠くて近い世界で

司書Y

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SbM

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 ヘッドホンから流れるのは、何と言ったか今は忘れてしまったが、遠い国の古い歌だった。


 大切な人にそばにいてほしいと、そばにいてくれれば、何があっても怖くないと、馬鹿みたいに信じている男の歌。


 軽やかなリズム。薄っぺらい歌詞。パンチの利いた歌声。
 それは、懐かしい、けれどどこか色あせた花弁が舞い散る心をくすぐる。胸が痛む。痛むのと同じくらい高なる。
 きっと、何かが始まろうとしているからだ。


 信じているからそばにいてと、男が歌う。


 リズムに合わせて、軽やかに動く指先はまるで音楽を奏でているようだ。
 何故だろうと。問いに答えは決まっていた。


 何度も音は、そばにいてほしいと、繰り返す。


 特別製のヘッドホンは外の音を完全に遮断している。
 けれど、感じる。
 一人だけど、独りじゃないこと。
 自分がキーを叩いていられることが、独りでないことの証明だった。こんな感覚をスイは知っていた。


 そして、男は言うんだ。
 君が困ったときには自分がそばにいるよ。
 と。


 この曲をこんな気持ちで聞く日が来ると思わなかった。この曲が、ああ。そうなのだ。と、腑に落ちる日が来るなんて思わなかった。 
 この時間が終わってしまうのがもったいない気がした。
 それでも、大きく息を吐いて、スイはヘッドホンを外した。

「おわった?」

 壁に寄り掛かってアキが問いかけて来る。

「おわったよ」

 重症ではないけれど、そこら中傷だらけで、よく似合っているスーツが台無しだ。でも、どこから取り出したのかロリポップを舐める姿も、なんとなく様になっていた。

「あ~疲れたぁ」

 同じくボロボロのユキは長い手足を床に投げ出して寝転がっている。
 もう、外からは怒号も、銃声も聞こえない。ただ、どこからかうめき声は聞こえてくる。

「そっちも、おわったみたいだな?」

 部屋に入るまでは何事もなかった。部屋にも、あの襲撃以上の何かはあった様には見えなかった。
 ただ、それは戦闘に突入する前の話だ。戦闘終了した現在、部屋は見る影もない。

「なんとか。ね」

 壁に大穴があいているし、ドアは半分以上なくなっている。キッチンの水道は蛇口が飛んで水が噴き出している。蔵書も、レコードも、5台あったPCも、テレビも、ステレオも。もはやガラクタ以外のなにものでもない。

「ぷっ……ははっ」

 それでも、気分は悪くない。いっそ潔くて笑えてきた。

「それ、貸して」

 アキの持っていたハンドガンを指差して、スイは言う。

「どうすんの?」

 聞きながらも、当たり前のようにグリップをこちらに向けて差しだしてくれるのが少し嬉しい。
 銃を受け取って安全装置を外し、スイは壊れかけたPCに向けた。

「こうすんの」

 よく知った、ハードディスクのある場所を正確に打ち抜く。これで、ヤバいデータを誰かに悪用される心配も(とりあえずは)ない。

「本当におしまい」

 アキに銃を返してから、ポケットの中にあったフラッシュメモリを渡した。

「ありがと。たのしかった」

 その戦利品を見つめてから、アキは何か言いたげに顔を上げる。

「……あのさ」

 その一言が彼の口からこぼれる前に、スイは立ち上がった。それから、最後に残った一台のノートPCだけを抱えて、二人に背を向ける。

「あ。フラッシュメモリの1週間でデータが消える呪いは解いておいたから。これはサービスな……じゃ」

 ひらひらと手を振ってドアを潜ろうとした時、ユキが言った。

「翡翠さん。また、メールしていいかな」

 二人に背を向けたまま立ち止まって、目を閉じる。

 もし、全部うまくいったら……。

 二人に聞こえないように呟く。

「“ひ”がついてなかったら、返信してやるよ」

 それから、今度はちゃんと聞こえるように、スイは言った。
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