遠くて近い世界で

司書Y

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 アキを見送りながら、また、意識は思考に沈んでいく。ずっと、心の底に沈むそれを見ないように、触れないようにしてきた。怖かったのだ。触れてしまえば、再び舞い立つ澱に自分自身も沈んでしまいそうで。
 ただ、その奥に懐かしい優しい暖かい思いが沈んでいるのもスイは知っていた。

「あのさ」

 ぼーっとアキが入っていったドアを見つめていたスイに、ユキが話しかけてきた。

「翡翠って綺麗な名前だよな?」

 おおよそ悪意とはかけ離れた屈託ない笑顔。

「………………はあ!?」

 おそらく、今日一番の驚きにスイの声が裏返る。
 それは、この街に来てからは、殆ど名乗ったことがないスイの本名だった。

「翡翠さんっていうんだろ? シゲさんが教えてくれた。シゲさん以外にはスイって名乗ってるって。なんで?」

 恨むよ。シゲさん……。

 スイは心の中で天を仰いだ。

「……大抵……」

 嘘をついてもよかったと思う。でも、ユキの笑顔がまるで子供みたいで、その綺麗な深い黒の瞳に嘘をついても、全部見透かされてしまう気がした。

「……その名前を言うと、絶世の美女を想像されるから……」

 だから、スイは正直に答えた。
 きっと、シゲさんもそうだったのだろう。スイのメアドを教えたことも、誰にも言っていない秘密を教えたことも。きっと、ユキだからだ。
 なにもかも失ったあの頃、ただ一人スイが心を開いたその人。シゲさんを目の前の青年は認めさせたのだ。信じるに足る人物だと。

「ふはっ」

 拗ねたように言ったスイの言葉に、少しの間きょとんとしてから、ユキは笑い出した。
 でも、怒りは湧いてこなかった。かわりに、そんなこと気にしていたのが馬鹿みたいに感じられた。

「もったいないよ。いい名前じゃん。オレ、翡翠さんって呼ぼ」

 スイの意見は聞かずそういうユキ。それは、これからも名前を呼んでくれるような関係でいられるということなのだろうかと、思う。
 
 “翡翠”

 誰かの声が聞こえた気がした。
 それは、舞い立つ澱に混ざったかつて美しく咲いた花弁。かつては優しかった記憶の欠片。
 あまりに辛いことがあったから。辛いことを思い出さずに、その記憶に触れることはできなかったから、心の奥にしまい込んでいた。

「翡翠さん?」

 もう一度、その花が咲くことがあるのだろうか。
 名前を呼んでくれる人を信じられる日がくるんだろうか。
 スイは思う。
 そんな日がくればいい。

「……あのさ」

 スイは口を開いた。ユキに聞こうとしていた。けれど、何を聞こうとしていたのか、後で思い返してもよく思い出せない。大事なことだった気がする。
 でも、その言葉は、ドアの開いた音に消えた。

「おまたせ」

 開いたドアの元に立っていたのは、アキだった。
 先ほどまでのラフな格好から、黒のスーツに着替えている。闇に沈むような弟の方とは対照的に、白と黒のコントラストは強烈で悪目立ちしている。せめてもの救いは、先ほどまでのメガネからサングラスに掛け替えているから、あの恐ろしく印象的な赤い瞳が見えないこと。

「戦闘準備完了」

 戦闘服というにはあまりに。なんというか、格好つけすぎに思う。
 ただ、彼らは信じてやまないのだ。それが、そのスタイルが、それを貫くことが強さなのだということ。それは、信仰にも似ていた。

「なに? 兄貴に惚れちゃった?」

 横からちゃちゃをいれてくる弟の方と並ぶと、長身の二人は悔しいくらいに絵になった。
 
「どだろ?」

 そこに、自分も並べたら。

 そう思う。
 思ってから、そう思った自分に驚く。いや。本当は驚いてはいない。当たり前だ。
 
 だってさ。格好よすぎじゃね?

 スイは運命なんて信じてはいない。だから、これは運命ではない。神様は自分には微笑まないことなんて知っていた。
 5日間の命をかけた(と自分では信じていた)暗号解読からの逃避行。何が何だかわからないうちに追われて、銃を突きつけられて、担がれて、兄の方のドラテクに廃人になりかけて、弟のドッキリに自信喪失して。
 でも、なぜだろう。今。なんとかなると、確信めいた思いがある。

「さて。じゃ、今度こそ行こうか」

 にやりと笑って、アキがユキとスイを先導するように歩き出す。

 この二人といられたら……。

 スイは思う。

 どこにでも行けそうな気がするから。
 だから、そこにいたいなら、自分で掴みとるしかない。

「お願いがさ。あるんだけど……」

 その二人の姿を見ていて形になった思いを、スイは素直に言葉にした。
 ドアに手をかけて、首だけで振り返るアキと、その後ろで不思議そうな顔で振り返るユキ。

「……俺のために死ぬのだけは勘弁してくれる?」

 沢山、たくさん。
 罪を犯してきたけれど。
 自分が殺したこともあるし、自分のために死んでしまった人もいたけれど。
 何もかもなくした日、独りになろうと誓ったのは自分が好きになった人が壊れていくのはもう見たくないと思ったからだ。

「……ああ。そうじゃなくて……」

 伝えたいこととは違っている気がして、スイは言い淀んだ。
 大体、今日、初めて会ったばかりの二人に、こんなことを言うのも変な気がした。
 あまりいろいろなことがあって、思考回路が簡略化されすぎているのかも知れない。いや、きっと、あの刷り込まれたキーワードがここでも、自分の意思を縛っているのだ。

 その衝動に身を任せろ。
 と。
 だから、衝動のまま、まとまってもいない言葉が零れ落ちた。

「りょーかい!」

「みなまでいうな」

 そんなスイ自身の混乱をまるですべてわかっているというように、二人が答える。

「じゃあ、帰ったら祝杯な。翡翠さんの奢りで」

 わかっていて、それでもすべて笑い飛ばすように、ユキが言った。
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