遠くて近い世界で

司書Y

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 肩越しに後ろから伸びてきた手。
 その指先には、microSDが抓まれている。

「ああ。紹介が遅れたな。挨拶しろよ」

 びくり、と身体を強張らせて、スイは後ずさった。そのままの勢いで視線を向ける。

「ども」

 そこには見知った顔があった。あの黒い狼のような男。スイの肩越しにカードを差し出していたのは彼だ。
 しかし。

「……いつ……の間に?」

 溺れて喘ぐような情けない声が漏れる。

「いや……話しこんでたから、声かけちゃ悪いかと思って。俺、難しい話とか無理だし」

 全く、気付かなかった。
 足音も、呼吸音も、ドアを開ける音ですら。
 それどころか、気配も、温度も、空気の流れも。
 何一つ。変わっていたことに気付かなかったのだ。

「ユキです」

 昨夜見たままの黒いスーツ。表情は昨夜とは少し違って、まるで少年のようだ。自己紹介する顔は天真爛漫という言葉がまさにぴったりとはまりそうな笑顔だった。
 けれど、それがさらにスイの中の混乱を深くする。
 確かにそこに彼はいる。だが、今の今まで全く彼がいる痕跡はなかったのだ。
 最早、瞬間移動してきた。といわれても、信じてしまいそうになる。

「ああ。そいえば、一つ嘘ついた。“中身は推測になるけど”って、言ったけど、本当は知ってた。“空”だ」

 アキの赤い瞳が自信たっぷりに見返してくる。
 その表情に気付く。
 これが違和感の正体だった。これが、彼の強さの正体だった。

「……すり替えたのか?」

 ようやくのこと声を絞り出してそれだけ言う。
 もう、自分の感覚を信じる事ができそうにない。これでも、危機を察知する能力は優れている方だと思っていた。その自信も完全に崩れてしまった。

「さすがにあなたの所からすり替えるのは無理。すり替えたのは黒い女の人が持ってた時だよ」

 microSDをアキに渡して、ユキが言った。
 確かに自分はこれを多分、身体から離していない。アキとも、ユキとも接触もしていない。もしかしたら、別の仲間の存在があったとしても、そもそも誰とも接触などしていないのだ。
 そういえば、と、思い出す。ユキを初めて見たのは、あの女に会った時だった。

「昨夜の状態じゃ、あんた話聞いてくれそうになかったからな。とりあえず、危険だけ遠ざけて、あと、セカンドハウスの方はユキが守ってた」

 だから、あのタイミングでの狙撃か。一体どこにいたのやら、スイは目が悪い方ではないが、その姿を視認することができなかった。
 相当の腕を持っていると分かる。だからこその、信頼。
 だから、アキは信じて笑っていられるのだと、思う。

「いや。ほんと。マジで眠かった。兄貴、絶対目離すな。守れよ。とかいうし」

 おどけたようにアキに向かって、ユキが言う。
 それから、彼は少年のような笑顔をスイに向けた。
 一撃で確実に急所を打ち抜く冷静さと冷酷さ。どう見ても20代前半に見える年齢にそぐわない技術力。それなのに、その笑顔。

「メール気づいてくれてよかったよ。あそこが一番タイトだったんだ」

 なぜ。そんな顔で笑えるんだろう。
 スイは思う。
 でも、その笑顔に、納得はいった。
 部屋で受け取ったあのメール。想像通り、盗聴器の相手とは違っていた。どこでメールアドレスを知ったかは謎だが、確かにあのメールには盗聴器とは違って、害意のようなものは感じられなかった。いやな予感はしたけれど。

「あ。メアドはお向かいのタバコ屋のシゲさんに教えてもらった。すげぇいい人な」

 考えていることを見透かしたようなユキの言葉に、スイは力が抜けた。
 お向かいのタバコ屋の店番である、御歳82歳のシゲさんは将棋仲間である。ちなみにスイの愛飲しているタバコも置いているが、深夜には営業していないため、コンビニまでタバコを買いに行く羽目になったのだ。

「でもさ。兄貴“俺がやる”とかカッコつけといて、結局ごり押しで担ぎあげた時は笑ったわ」

 心底おかしそうに笑っている黒髪の狼、ユキに少しばつが悪そうにアキは言う。

「しょうがないだろ? あいつら、意外と手際よかったんだよ」

 兄貴という言葉にスイには少し思い当たることがあった。3か月ほど前から、スイの情報網にも引っ掛かっていた二人組の“ハウンド”がいた。たしか、素性はほとんど謎なのだが、兄弟だという話だったと思う。
 相当腕は立つらしい。たった二人で1個小隊全滅させたとか、極秘で入国した某国の王族を誘拐して身代金払わせたとか、どこまで本当かわからない、とんでも話の宝庫になっている。

「そんで? これからどうする?」

 ひとしきり兄をからかった後、弟が問う。
 その問いは、兄にというより、スイに対しての問いだったらしい。

「保護……してもらったりする?」

 何故なのかは知らないが、恐る恐るといった感じで聞いてくる。

「まさか」

 少し食い気味にスイが答えると、弟の方、ユキは嬉しそうに笑った。
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