遠くて近い世界で

司書Y

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 そこに彼がいた。

 背が高く、胸板の厚い男だった。黒いスーツに黒のネクタイをきっちりと結んだその立ち姿にはおよそ隙というものがない。
 無造作に逆立った黒髪。男らしい精悍な顎のラインに髭をたくわえ、厚めの唇を強く引き結んでいる。
 でも、一番印象的なのはその瞳だった。

 ふと、頭に浮かんだのは、狼。
 黒い狼が、その夜の闇の色の瞳が、まっすぐにスイを見ていた。

 まわりは、先ほどまでと変わらずたくさんの人が行き来している。でも、その瞬間、まるで誰もいないかのように感じられた。喧騒が遠のき、その遠吠えが聞こえた気がした。
 
「どこへ、行きやがった!」

 どたどたと近づく足音にスイははっと我に返った。ガラの悪いスーツの男たちが数人走って来るのが見える。
 酔っぱらいを押しのけ、水商売風の女性を突き飛ばして慌てふためく姿に一瞬気を取られ、もう一度視線を向けると黒い狼はいなくなっていた。視線を切る最後の瞬間。ふ。と彼が笑ったように感じたのは気のせいだろうか。

「おい」

 黒いスーツの男の一人が乱暴に肩をつかみ、声をかけて来る。

「は?」

 気づけば、あの黒狼がいなくなったことを、少しだけ残念に思っている自分がいた。そんな自分自身に驚きながら、スイは興味なさげに答える。

「女を見なかったか?黒服の女だ」

「さあ?」

 ちらり。と男を一瞥する。正直、係わりたい手合いの人間には見えない。喧嘩のせいなのか、生まれつきなのかわからないが、つぶれた鼻や、これ見よがしな顔の傷。だらしなく襟もとのあいたシャツも、その筋の人間ですと名札をつけて歩いているといった男だった。
 しかし、葬式帰りでもあるまいに、この黒スーツ。まさかとは思うが、さっきの黒狼と関係があるのだろうか。
 いや。きっと、そんなことはないだろう。そう思う気持ちと、偶然と呼ぶには良すぎるタイミングにスイは収まりの悪いような何かを感じていた。
 この世に偶然なんてない。
 それは経験に裏打ちされた絶対的な回答だった。

「こっちだ!」

 女の去って行った方から、おそらくその男の仲間と思われる、こちらも人相の悪い黒服の男が、呼んでいる。その声に軽く返事を返すと、鼻のつぶれた男は、スイの肩を掴んでいた腕を離し、礼も詫びも言わず、走り去った。
 その背中を今度は見送ることもせず、スイは再びコンビニに向かって歩き出す。
 そんな一瞬の出来事などすぐに忘れたように、街はいつも通りの喧騒へと帰って行った。
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