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街には霧のような細い雨が降っていた。けばけばしいネオンの色が湿気を含んだ空気に乱反射して、滲んでいる。
この街には霧が多い。地形など理由はいくつかあるらしいが、そんなものよりも、この街に漂う先を見通すことのできない閉塞感のようなものが、古びた石畳から滲みだしているのではないかと、スイは思う。
霧は、いつも腕に、脚にまとわりつき、逃げられないのだと囁き続けているようだった。
それでも、スイはこの街が嫌いではなかった。
遠く聞こえる怒号も。客引きの嬌声も。
どこからともなく流れる酒の匂いも。ぬぐいきれない硝煙の匂いも。
肌を撫ぜる湿った空気も。街の人々の眼に宿る諦めも。
何もない自分にはちょうどいい。
そう思う。
いつもなら、そう思うのだが。なぜか今日はそんないつも通りの街のざわめきが苛立ちを募らせていく。まるで、ネコ科の猛獣の舌で柔らかな肉をこそげ落とされているような。そんな、気持ちの悪い感覚にスイは眉を寄せた。
舌打ちを一つ。寝転がる酔っぱらいを避けながら、スイは大通りから1本離れた裏路地をいつもより少しだけ早いペースで歩く。裏路地といても、小ぢんまりしたBARや、安酒を飲ませてくれる飲み屋がわずか2・3メートル間隔で並んでいる飲み屋街だ。人通りは決して少なくはない。
それにしても、平日の真夜中だというのに世界は平和なことだ。
いや。平日の真夜中だからこそ。か。
「忘れたいことが多いんだな」
スイは、一人ごちた。それなら自分も。だ。
目当てのコンビニはもう1ブロック先にある。コンビニなどどこにでもあるのだが、スイの愛飲しているタバコが必ず売っているという前提がつくとそこが一番近かった。疲れた身体と、頭にはそれはひどく遠く感じられる。慣れた道がいつもより長く思えて、スイはスマートフォンを取り出し、時間を確認しようとした。その瞬間だった。
強い衝撃を感じて、スイはよろめいた。いつもの彼なら、よろめくどころかぶつかることもなかっただろう。しかし、何かに掴まろうとした手はそれが叶わず空をきった。
「っ!」
石畳に受け身もとらずに無様に尻もちをついたのは、身体の不調のせいだけではない。ぶつかってきたもの、否、その人物をかばうためだ。
「っすみません」
それは、青ざめた顔をした女性だった。スイに謝罪しながらも、きょろきょろと忙しなくあたりをうかがっている。
美人といって差し支えない容貌だが化粧っけがなく、黒の上下に手には何も持っていない。もしぶつからなかったら、きっと印象に残ることはなかっただろう。
「すみませんでした」
そう言って、彼女はスイの手を離れて立ち上がった。彼女を観察していたのはほんの一瞬の事だったと思う。しかし、彼女の言葉にはどこか非難めいたニュアンスが浮かんでいた。
「いや……」
呟いて、スイも立ち上がる。
観察していたといっても、別に彼女に特別興味があったわけではない。それは、興味というよりは職業病のようなものだ。
そんな言い訳めいたことが頭を過ったが、別に通りすがりの女性にそんなことを説明する必要はない。そう思い、スイは軽く片手を上げてその場を去ろうとした。
しかし、それよりも早くその女性ははっとしたように顔を上げた。それから、わざと(だとスイには思われたのだが)スイを押しのけるようにして、あわてた様子で走り出す。その後ろ姿が人ごみの中に消えるのに大した時間は必要なかった。
はあ。
またため息だ。依頼を(半強制的に)受けたあの日から本当にろくな事がない。
もう、早く帰ろうと、コンビニのある方向にスイは目を向けた。
この街には霧が多い。地形など理由はいくつかあるらしいが、そんなものよりも、この街に漂う先を見通すことのできない閉塞感のようなものが、古びた石畳から滲みだしているのではないかと、スイは思う。
霧は、いつも腕に、脚にまとわりつき、逃げられないのだと囁き続けているようだった。
それでも、スイはこの街が嫌いではなかった。
遠く聞こえる怒号も。客引きの嬌声も。
どこからともなく流れる酒の匂いも。ぬぐいきれない硝煙の匂いも。
肌を撫ぜる湿った空気も。街の人々の眼に宿る諦めも。
何もない自分にはちょうどいい。
そう思う。
いつもなら、そう思うのだが。なぜか今日はそんないつも通りの街のざわめきが苛立ちを募らせていく。まるで、ネコ科の猛獣の舌で柔らかな肉をこそげ落とされているような。そんな、気持ちの悪い感覚にスイは眉を寄せた。
舌打ちを一つ。寝転がる酔っぱらいを避けながら、スイは大通りから1本離れた裏路地をいつもより少しだけ早いペースで歩く。裏路地といても、小ぢんまりしたBARや、安酒を飲ませてくれる飲み屋がわずか2・3メートル間隔で並んでいる飲み屋街だ。人通りは決して少なくはない。
それにしても、平日の真夜中だというのに世界は平和なことだ。
いや。平日の真夜中だからこそ。か。
「忘れたいことが多いんだな」
スイは、一人ごちた。それなら自分も。だ。
目当てのコンビニはもう1ブロック先にある。コンビニなどどこにでもあるのだが、スイの愛飲しているタバコが必ず売っているという前提がつくとそこが一番近かった。疲れた身体と、頭にはそれはひどく遠く感じられる。慣れた道がいつもより長く思えて、スイはスマートフォンを取り出し、時間を確認しようとした。その瞬間だった。
強い衝撃を感じて、スイはよろめいた。いつもの彼なら、よろめくどころかぶつかることもなかっただろう。しかし、何かに掴まろうとした手はそれが叶わず空をきった。
「っ!」
石畳に受け身もとらずに無様に尻もちをついたのは、身体の不調のせいだけではない。ぶつかってきたもの、否、その人物をかばうためだ。
「っすみません」
それは、青ざめた顔をした女性だった。スイに謝罪しながらも、きょろきょろと忙しなくあたりをうかがっている。
美人といって差し支えない容貌だが化粧っけがなく、黒の上下に手には何も持っていない。もしぶつからなかったら、きっと印象に残ることはなかっただろう。
「すみませんでした」
そう言って、彼女はスイの手を離れて立ち上がった。彼女を観察していたのはほんの一瞬の事だったと思う。しかし、彼女の言葉にはどこか非難めいたニュアンスが浮かんでいた。
「いや……」
呟いて、スイも立ち上がる。
観察していたといっても、別に彼女に特別興味があったわけではない。それは、興味というよりは職業病のようなものだ。
そんな言い訳めいたことが頭を過ったが、別に通りすがりの女性にそんなことを説明する必要はない。そう思い、スイは軽く片手を上げてその場を去ろうとした。
しかし、それよりも早くその女性ははっとしたように顔を上げた。それから、わざと(だとスイには思われたのだが)スイを押しのけるようにして、あわてた様子で走り出す。その後ろ姿が人ごみの中に消えるのに大した時間は必要なかった。
はあ。
またため息だ。依頼を(半強制的に)受けたあの日から本当にろくな事がない。
もう、早く帰ろうと、コンビニのある方向にスイは目を向けた。
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