遠くて近い世界で

司書Y

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 ヘッドホンから流れるのは、何と言ったか今は忘れてしまったが、遠い国の古い歌。
 確か、『the body』の映画版のテーマ曲だったか。線路を進んだ先にある死体を探しにいく話らしい。と、言っても、見たことはない。さほどの興味もそそられなかったからだ。
 

 軽やかなリズム。薄っぺらい歌詞。パンチの利いた歌声。でもそれは、鼓膜の表面だけをゆらゆらと揺らして、すぐに消えていく。

 はあ。

 と、短くため息を吐く。

 一体今日何度目だろう。

 ヘッドホンを外すと、途端に歌声は遠のく。ついさっきまで見えていた目の前の風景が別の世界にすり替わってしまったように感じられた。
 デスクの上には愛用のノートPCと、言語学の資料。飲みかけのミネラルウォーター。散らばった紙片には無意識で自分が残した走り書きがある。そこは、いつもの見なれた自分の部屋。真っ暗な大地に一人立っているわけでも、月明かりしかみえない場所にほうりだされたわけでもない。

 ただ。

 こんな瞬間。自分はひとりなのだと。強く感じる。

 はあ。

 もう一度、ため息をついて、スイは後ろで一つに束ねていた髪を解いた。
 長い睫毛の縁どる翠の目を強く閉じ指の腹で目頭を押さえる。目の奥に疼くような鈍い痛み。そういえば、パソコンの前に座ったのは何時間前だろう。ディスプレイの時計は、自分の感覚とは裏腹に、何の間違いなのかというほど先の時間をしめしていた。

 としかな……。

 二日や三日、寝ずに作業をするくらいの気力や体力はあると思っていたが。それは、自分の過信だったのか。瞑った瞼の裏にまでディスプレイの文字が浮かんでいる。
 意識をするとまた、頭が痛んだ。
 またもや出てしまいそうになるため息をスイは飲み込む。そのかわりノートPCをスリープモードにして立ち上がる。それから、大きく伸びをする。少し翠がかった髪が頬を撫でて、そんな微かな感覚にすら舌打ちしたくなった。

 からだじゅうがいたい。

 ここ数日、太陽の明かりを見た記憶がない。ずっと、この暗い自室に籠ってPCとにらめっこをしている。
 もちろん、好きでそうしているわけでもない。5日前、懇意にしている(というほどの関係でもないのだが)エージェントから舞い込んだ仕事のため、スイはこの部屋に缶詰めにされる羽目になったのだ。

 たばこすいたい。

 それは、文字通りスイの部屋の新聞受けに舞い込んだ。差出人もなければ、宛先すらない封書。ただ、封蝋の印章には見覚えがあった。

 あけなければよかった。

 今さら悔いても仕方がないことなのだが、そう思わずにいられない。
 中に入っていたのは、一本のフラッシュメモリだった。そして、それだけだった。
 警戒していなかったわけではない。ただ、どんなデータが入っていても大丈夫だという自信があった。情報という形のないものを扱い、それを日々の糧に変えてきたそんな矜持もあったと思う。
 しかし、そこには彼の警戒していた(否、期待すらしていた)ものは入ってはいなかった。
 データは、2つのみだった。2つとも、text file。ほぼ無意味な文字の羅列。それがすべて。ただし、その量たるや。8GBのメモリのほとんどを埋め尽くしている。もう1つは、依頼文。


 解読せよ

 期限は7日
 解読ができない場合、このデータは自動的に消滅する

 禁止事項
 データのコピーをとること
 データを改ざんすること
 第三者にデータを開示すること
 期限前にデータを削除すること
 上記禁止事項に抵触した場合、身の安全は保障しかねる

 解読が成功した場合は、下記アドレスに空メールを送ること

 なお、一切の質問は受け付けない

 ××××@lst.com


 だ。手掛かりについてはなにも触れられていない。
 ただ、最後のアドレスが全てを物語っている。そのドメインは検索エンジンでキーワードとして入力しただけで、次の瞬間から監視対象になるような楽しげな組織である。

 はあ。

 結局、盛大なため息をついてスイはキッチンに向かった。
 低く垂れこめた厚い雲のせいか、日が沈んでも蒸し暑かった空気が、少しひんやりと感じられる。雨が降り出したのだろうか。
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