真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

最終話 狐の嫁入り 3

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「菫」

 不意に名前を呼ばれて、菫ははっとした。いつの間にか小さな仮の社の前にいた。困ったような呆れたような顔をして、黒羽が見ている。

「お前、もう、帰れ。また、北島のガキと喧嘩になるぞ」

 ひらひら。と、手を振って黒羽は言った。視線は寄越さない。向こうを向いたままだ。

「のぶ」

 はっきりと呼んでも、その顔が菫の方を向くことはなかった。

「征伸」

 だから、菫はその名前で呼んだ。

「阿呆が」

 大きくため息をついて黒羽が振り返る。

「俺は力も戻った。消えるようなことはない。満足したのではないのか? もう、余計なことに関わるな」

 始めて見る真剣な表情。

「俺は。あの人なのか? ここに。あの人が。いるのか?」

 胸の真ん中に手を置いて、菫は聞いた。答えは知っているけれど、それでも、口に出して確認しなければいけないと、義務感のように思えた。

「……だとしたら、どうする? 生贄にでもなるのか?」

 口調は茶化すようだったけれど、視線は射竦めるようだった。それが、黒羽の答えだと分かった。

「ならない。俺は。鈴のだ」

 冗談だと笑わなかったのも、はっきりとした言葉で断言したのも、黒羽に対する礼儀だ。そして、菫自身ではないけれど、菫の中にいるその人への礼儀で、宣戦布告だった。

「阿呆が」

 ぴん。っと、額にデコピンを入れて、黒羽は笑う。どこか吹っ切れたような笑顔だった。

「そんなもん、知っとるわ」

 痛みに額を抑えて言葉を失う。『痛みのせいで』瞳の端に涙が溜まる。そして、落ちる。

「人が何人いると思っとるんだ。ほいほい再会できるわけなかろう」

 黒羽が伸ばした手は、菫の頬には触れず、その涙を指先に受けた。

「まあ、ここも。直してしまったもんは仕様がない」

 ごめんなさい。

 ふと、無意識に菫の口が動いた。はっとして、黒羽が顔を見つめてくる。菫の口から出た声は、明らかに菫のそれではなかった。

「このざまではあと1000年は生きねばならん」

 黒羽の手が今度は頬に触れる。けれど、頬に触れられた感触がない。きっと、それを感じているのは、菫でなく、心の中にいるもう一人の人物なのだ。

「お節介が死なせてもくれん。飽きんうちは待っていてやろうから、安心して勝手に生きて、勝手に死んで来い」

 はい。

 と、声がして、菫の中の何かは、静かになった。消えたのではない。一番深いところに沈んでいったようだった。
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