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月夕に落ちる雨の名は
最終話 狐の嫁入り 2
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月の光が僅かに射し込む、松の林だ。林の切れた先は見えない。終りは曖昧に霞んでいる。その中に埋もれるように細い道が続いていていた。
指一本動かせない。酷い痛みが身体を支配して、死んでしまったほうがマシだと思う。
けれど、視界は細い道を進んでいた。誰かに抱えられているのだと、頭の片隅で思う。その誰かが触れている場所だけが、温かい。
見上げる先に案じていた人の顔。その人に何もなくてよかったと、その人の腕の中に帰ってくることができたのだと、安堵する。同時に、己の身が汚れていて、その人をも穢してしまわないかと不安になる。
進んでいく視界の向こうに、建物が見える。赤い鳥居。
「……のぶさま」
菫は呟く。呟くだけで、体中が千切れそうに痛かった。
「なんだ?」
返ってきた答えはそっけない。進む方を見つめるその瞳は赤い。
「どうか……人を恨ま……ないでください」
その言葉に、ようやく征伸の視線が菫を捉えた。目がかすんで、その顔はよく見えない。けれど、その人がどんな顔をしているか、菫には分かった。
「何故、そんなふうに思える? 傷つけられたのはお前だぞ」
征伸の言葉はまるで、身体の奥から噴き出す黒い炎のようだった。その炎で愛おしいひとを焼き尽くさないように、堪えているも分かる。
「私は……のぶ様がいてくれれば……それでいいの……です。なにも……いらない」
菫は自分を聖人だとは思っていない。別に人がいいわけでも、優しいわけでもない。ただ、菫にとって、征伸以外のものはなくなってしまっても諦められるものだったから、征伸が無事でいてくれればそれだけで満足だったのだ。
違う。
自分の言葉を、菫は心の中で否定した。
「必ず……っまた……あなたの元へ……生まれ変わります。……から、それまで生きて……ください」
ほかの人がそうであるように、菫も、人は何度も生まれ変わるのだと信じていた。ただ、別に誰に教わったというわけでもないけれど、生まれ変わるためにはこの世界のすべてをなくさないといけないのだと、漠然と思っていた。だから、そんな約束を守れる自信はない。
「傲慢な女だ。俺が待っている。と、いうと思うのか?」
痛む身体に鞭打って菫は首を横に振る。
そんな価値が自分にないことくらいは分かっているし、征伸にはつまらない一人の女に縛られるような生き方は似合わない。それが辛くないと言えば嘘だけれど、仕方ないと諦められるくらい、菫はそんな自由で豪快な征伸の有様が好きだった。
「……待っていてくださいなど……は申しませ……。勝手に……生まれ変わります。そ……したら……つまらぬ……野の花は……また……勝手にあなたの足元に咲く……しょう」
だから、守れるはずがない約束にその人を縛る気はない。その人が生きて、健やかであること。それが望みなのは噓ではないのだ。けれど、それでも、言いたかった。
菫は征伸を忘れたくない。
まだ、共に在りたい。
もっと、愛していたい。
愛されたい。
望むことはそれだけ。命が終わることなど些末なこと。だから、自分の受けた仕打ちなどどうでもいい。
悲しいのは、もう、共にいられないことだけだ。だから、誰も恨んではいない。恨むことになど、征伸の心の一部を使うのなら、その分、自分のことを思っていてほしい。
「阿呆が。勝手なヤツだな」
さらり。と、その大きな手が菫の長い黒髪を梳く。汚れていた自分がその炎で浄化されていく気がした。
「……は……い。
なん……に……も、縛られ……ずに、あなたは自由で……いて……」
忘れないで。と、本当の願いを、心の中で叫ぶ。けれど、それは、口に出しはしない。
「勝手な。女だ」
それでも、その心の声が聞こえたかのように、征伸の表情が曇った。
「はい……は……い。
か……てに……あな……たをお慕いして……ます」
作った笑顔が、上手にできたとは思えなかった。
「待ってはおらぬぞ?」
上手くはできなかったから、征伸は苦し気に眉を寄せる。それを、彼も必死に隠しているように、菫には見えた。
「は……い」
声が掠れる。まるで、命が抜けていくようだ。凍るように、指先から冷たくなってくる。
「だから、お前も。次を生きるなら、自由に生きよ。……許す」
頬を撫でる手は燃えるように熱かった。征伸の触れた場所だけが、余韻のように命の最後の火を灯している。
「……い」
目がかすむ。もう、殆ど何も見えない。その人の赤い瞳。その向こうに見える白い月。
何かが頬に落ちてくる。
月は輝っているのに、雨だろうか。
雨雲がないのに、降る雨。それが何というのか、菫は知っていた。
だから、理解した。
最期に伝えたいことがある。
そうして、口を開いた。
「……ああ……雨……が……っているのです……ね。
あんな……に……月が綺麗なのに……」
耳元に吐息がかかる。その人が耳元に唇を寄せたのだと気付く。
「狐が。嫁を取るのだ。雨も降る」
やさしい。優しい声だった。
「……のぶ……さ……わた……し……わすれた……くな……い」
指一本動かせない。酷い痛みが身体を支配して、死んでしまったほうがマシだと思う。
けれど、視界は細い道を進んでいた。誰かに抱えられているのだと、頭の片隅で思う。その誰かが触れている場所だけが、温かい。
見上げる先に案じていた人の顔。その人に何もなくてよかったと、その人の腕の中に帰ってくることができたのだと、安堵する。同時に、己の身が汚れていて、その人をも穢してしまわないかと不安になる。
進んでいく視界の向こうに、建物が見える。赤い鳥居。
「……のぶさま」
菫は呟く。呟くだけで、体中が千切れそうに痛かった。
「なんだ?」
返ってきた答えはそっけない。進む方を見つめるその瞳は赤い。
「どうか……人を恨ま……ないでください」
その言葉に、ようやく征伸の視線が菫を捉えた。目がかすんで、その顔はよく見えない。けれど、その人がどんな顔をしているか、菫には分かった。
「何故、そんなふうに思える? 傷つけられたのはお前だぞ」
征伸の言葉はまるで、身体の奥から噴き出す黒い炎のようだった。その炎で愛おしいひとを焼き尽くさないように、堪えているも分かる。
「私は……のぶ様がいてくれれば……それでいいの……です。なにも……いらない」
菫は自分を聖人だとは思っていない。別に人がいいわけでも、優しいわけでもない。ただ、菫にとって、征伸以外のものはなくなってしまっても諦められるものだったから、征伸が無事でいてくれればそれだけで満足だったのだ。
違う。
自分の言葉を、菫は心の中で否定した。
「必ず……っまた……あなたの元へ……生まれ変わります。……から、それまで生きて……ください」
ほかの人がそうであるように、菫も、人は何度も生まれ変わるのだと信じていた。ただ、別に誰に教わったというわけでもないけれど、生まれ変わるためにはこの世界のすべてをなくさないといけないのだと、漠然と思っていた。だから、そんな約束を守れる自信はない。
「傲慢な女だ。俺が待っている。と、いうと思うのか?」
痛む身体に鞭打って菫は首を横に振る。
そんな価値が自分にないことくらいは分かっているし、征伸にはつまらない一人の女に縛られるような生き方は似合わない。それが辛くないと言えば嘘だけれど、仕方ないと諦められるくらい、菫はそんな自由で豪快な征伸の有様が好きだった。
「……待っていてくださいなど……は申しませ……。勝手に……生まれ変わります。そ……したら……つまらぬ……野の花は……また……勝手にあなたの足元に咲く……しょう」
だから、守れるはずがない約束にその人を縛る気はない。その人が生きて、健やかであること。それが望みなのは噓ではないのだ。けれど、それでも、言いたかった。
菫は征伸を忘れたくない。
まだ、共に在りたい。
もっと、愛していたい。
愛されたい。
望むことはそれだけ。命が終わることなど些末なこと。だから、自分の受けた仕打ちなどどうでもいい。
悲しいのは、もう、共にいられないことだけだ。だから、誰も恨んではいない。恨むことになど、征伸の心の一部を使うのなら、その分、自分のことを思っていてほしい。
「阿呆が。勝手なヤツだな」
さらり。と、その大きな手が菫の長い黒髪を梳く。汚れていた自分がその炎で浄化されていく気がした。
「……は……い。
なん……に……も、縛られ……ずに、あなたは自由で……いて……」
忘れないで。と、本当の願いを、心の中で叫ぶ。けれど、それは、口に出しはしない。
「勝手な。女だ」
それでも、その心の声が聞こえたかのように、征伸の表情が曇った。
「はい……は……い。
か……てに……あな……たをお慕いして……ます」
作った笑顔が、上手にできたとは思えなかった。
「待ってはおらぬぞ?」
上手くはできなかったから、征伸は苦し気に眉を寄せる。それを、彼も必死に隠しているように、菫には見えた。
「は……い」
声が掠れる。まるで、命が抜けていくようだ。凍るように、指先から冷たくなってくる。
「だから、お前も。次を生きるなら、自由に生きよ。……許す」
頬を撫でる手は燃えるように熱かった。征伸の触れた場所だけが、余韻のように命の最後の火を灯している。
「……い」
目がかすむ。もう、殆ど何も見えない。その人の赤い瞳。その向こうに見える白い月。
何かが頬に落ちてくる。
月は輝っているのに、雨だろうか。
雨雲がないのに、降る雨。それが何というのか、菫は知っていた。
だから、理解した。
最期に伝えたいことがある。
そうして、口を開いた。
「……ああ……雨……が……っているのです……ね。
あんな……に……月が綺麗なのに……」
耳元に吐息がかかる。その人が耳元に唇を寄せたのだと気付く。
「狐が。嫁を取るのだ。雨も降る」
やさしい。優しい声だった。
「……のぶ……さ……わた……し……わすれた……くな……い」
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