真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

21 御清と臣丞 1

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 結局、社の取り壊しは翌週に延期された。軽トラックに積まれた石の社をあの女性のお墓だと言われている小さな祠の隣に一旦設置して、奉遷の儀式は後日することになった。檀がその場で氏子名簿に名前があるすべてのお宅に連絡を取って、了解を得てくれたからだ。そもそも、名簿に名前が載っている人数などたかが知れているうえに、皆、社を放っておいていいとは思っていなかったのだった。
 元々、社をただ取り壊すなんてありえない話だった。この神社は返す場所がないから、どこかの神社に合祀してもらうことになるのが普通なのだろうけれど、新興住宅地の人々はそんな作法すら知らない。すぐに取り壊せという意見に従ったらしいが、知らないというのは恐ろしいことだ。ただ、祀る人がいなくなって、ひっそりと朽ちていく場所はいくらでもある。それを忘れてはいけないのだと、菫は思い知らされた。

 子供たちは近づけないという条件で、境内の掃除もそのまま続けていいということになった。まだ、敷石が捲れたり、折れてしまった老木があったりと、危険な場所はある。それは、少しずつ片付けていくことにした。
 壱狼もまた貴志狼や翔悟たちを手伝いに来させると約束してくれた。その上で、子供たちのクラウドファンディングの話にはノリノリで若いっていいねえ。とかいって、出資する気満々なようだ。

 当面の危機は去った。
 と、思う。
 社をいきなり壊されるような心配はなくなったし、仮の社があれば、きっと、繋がりを取り戻すことは可能だ。
 あの子供たちの純粋な命の力を見たら、どうにかなると思えた。
 
 人々が去って、鈴と二人。
 新たに設置された小さな石の社の前に立つ。もう、崩れた社には何も感じない。その理由も、菫はわかっていた。

「きっと、儀式とかしても意味ないな」

 一歩下がった場所から、菫の背を見つめる鈴に声をかける。元の社には何も残っていないから、奉遷の儀式には多分意味はない。あの社の神格の中心は菫の持っているものだ。

「これが、のぶと人との繋がりだから」

 トートバッグに忍ばせていた銀の簪を取り出す。返そうと思って持ってきたものだ。

「……嫌になったかもしれないけど……さ。のぶ。まだ、もう少し、ここにいなよ。結構、捨てたもんじゃなかったよ?」

 古くなって、一体何の意匠が施されていたのか分からなくなっているそれを、菫は小さな社の中に入れた。
 しん。と、静まり返る松林。
 風の音すらしない。何故だろうか、ひぐらしの声も聞こえない。
 ただ、暮れゆく日が辺りを赤く照らしている。

「……のぶ」

 菫は、俯いた。
 だめかもしれないと。
 一度も思わなかったわけではない。
 ずっと、心の中で思っていた。
 黒羽は力がなくなったから、消えるのではない。ただ、もう、生きる意味を見失っているだけだったのかもしれない。

「……迷惑。だった?」

 呟くと、背中から抱きしめられた。

「菫さん。もう、いいから」

 鈴の腕に閉じ込められると、涙が溢れてきた。
 それでも。無駄なことをしたのだと思いたくなかった。

「菫さんには言わなかったけど。菫さんが倒れた日。あいつに会いました。力なんて殆どなくなってるのに、あいつ。何の躊躇もなく菫さんのこと。助けた。助けたくせに、あなたには言うなって言うんです。知らなくていいって。もう、全部返せたって。言ってました」

 耳元で優しく囁く鈴の声。

 全部、返した。
 と、黒羽は言う。

 釣りは出せないから、呼べ。
 黒羽は言った。

 全部返して、満足して、勝手に消えていく。
 黒羽らしいと思うけれど、納得なんてできなかった。

「俺は……なんも貸してなんていない」

 と、呟いてから、ふと、気付く。
 返していないものがもう一つあった。今は、菫が持っているけれど、それは、菫のものではない。あの日確かに、黒羽にあげたものだ。だから、菫はトートバッグに手を突っ込んだ。

「菫さん?」

 それを持ってきたのはなんとなくとしか言いようがない。今日は掃除をするだけつもりだったし、その後に鈴の家に寄るという予定でもなかった。どこか外で鈴と食事をしてから帰ろうと思っていた。料理をする予定なんてない。
 だから、それを持ってくる必要なんてなかったのだ。
 けれど、菫はそれをトートバッグの中に入れた。本当になんとなく。だ。

「……もしかしたら」

 トートバッグから出したのはあのレシピノートだった。そして、そこにはまだあの栞が挟まったままだ。あの日からずっと。
 そっと、そのページを開く。古くなって色が変わって、すでに何の花だったか、菫か黒羽でなければ分からない花の栞。
 何処にでも咲いている、野の花。青紫色の小さな花。
 菫。
 何も持っていなかった里の娘が、黒羽に渡した花だ。

 その栞を抜き取る。手を離すと、ページは閉まってしまった。もう、戻せない。
 だから、菫は、ノートを鈴に預けて、その栞を小さな社の中に入れた。
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