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月夕に落ちる雨の名は
19 壊しちゃダメだ 1
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翌日も、菫は休日だった。
前日、帰りはかなり遅くなってしまった上に、怪我をしていたことで椿にはこっぴどく叱られたけれど、出かける前と違って明るい表情になっている菫を見て、椿はため息交じりに許してくれた。鈴と仲直りしたと告げると『よかったな』と、一言。頭を撫でてくれるその手に、不覚にも涙が溢れてしまった。
だから、その日は久しぶりにぐっすりと安眠できた。
夢も見なかった。
鈴とはいつものコンビニで待ち合わせをしていた。鈴は先についていて、声をかけると、振り返って笑う。その日常が、堪らなく幸せなのだと、実感した。
けれど、その幸せな気持ちは社につくと一変した。
「え? なんだよ。これ……」
境内には重機が入っていた。数人の作業服を着た人たちが何かを話していている。その中に見知った姿を見つけて、菫は駆け寄った。
「あの。どうしたんですか? これ」
振り返ったのは、以前話をした区長だった。
「ああ。あんたか。本当に余計なことをしてくれた……」
菫の顔を見るなり、大きくため息をついて、彼は言った。
「え?」
「昨日、社が崩れたんだって? あんたが下敷きになりかけたって聞いたぞ」
菫の姿を上から下までじっくりと観察してから、大した怪我ではないことを確認して、区長は言った。どこか安心したような表情だ。その安堵が菫の無事に対してなのか、無事だった菫が責任問題を騒ぎ立てるようなことがないからなのかは分からない。
「や。でも、大した怪我してないです。ちょっと擦りむいたくらいで。大袈裟になってしまったのは、周りの人が心配しただけで……」
昨日の事故のことは、その場にいたものには口止めをしておいた。
菫の怪我は大したことはないし、これからしっかりと整備をすれば危険は減らせると思ったからだ。それに、怪我をしても責任は自分にあるから迷惑をかけないという約束をしていた。もちろん、約束をしていなくてもこの程度のことで大事にしたくはない。
それが、区長に知られているということは、騒ぎを知って警察や救急車はともかく、区長にご注進した輩がいるということだった。
「そう言われてもねえ。梁が崩れたのは事実だろう? あんたは平気だったかもしれないけれど、子供が入っていたらどうなっていたか。元々、取り壊しの案はあったんだ。これ以上崩壊が進んだら、取り壊すと区の話し合いで決まっている。
だから、昨日、正式に許可を出した。ちょうど、近所の解体業者ですぐに動かせる人員がいるっていうからね。何かが起きる前に取り壊すことにしたよ」
地元の解体業者らしい作業員の人たちは紹介されて軽く会釈する。こちらを覗うような眼差しは面倒なことには巻き込まれたくないと言外に言っているようだった。
「待ってください。壊すなんて……再建できる見込みはあるんですか?」
聞きながらも、おそらく返事はNOだとわかっていた。掃除もろくにしてくれない人たちが、社の再建なんて考えてくれているはずがない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「いや。再建って。そんな金どこにあるの? 解体費用だって出してもらうのがやっとなんだよ?
大体、触らなければ、まだいくらかもったはずなのに、あんたのせいで解体しなきゃいけなくなったんだ。文句言いたいのはこっちだってえの」
区長の言葉に菫は反論することができなかった。菫が社に『触らなければ』と、いう言葉が、菫が黒羽に『助けてと言わなければ』と、言われているように思えた。
どちらにせよ、菫が関わったせいで、社は窮地に立たされているのだ。
「でも……あの」
社が完全に壊されてしまえば、幾ら形には拘らないと言っても、黒羽と繋がるのは不可能だと思う。ここは区の所有林だから、一度社がなくなってしまったら、ここに新たに社を建てるのも相当に難しくなる。
別の場所で、作った社はもう、ここのそれとは違う。つまりは、完全に繋がりが切れてしまうのだ。
「もう少し待ってもらえないですか? ちゃんと綺麗にします。子供が入っても安全な場所に……」
ぐるる。と、まるで大型の肉食獣が鳴くような音が松林に響く。重機に火が入ったのだ。
その音が怖かった。
住処を奪われる野生動物は、きっとこんな気持ちなのだ。
自分は無知でどうしていいかもわからないのに、周りはどんどん変わってしまう。立ち止まって考えようとしても、大きな音に大きな力に追い立てられて立ち止まることもできない。そうやって、終わりが見えないほど広かった松林は今やどちらを向いても街や人の姿が見えるような場所に変わってしまった。
言葉を続けることができずに俯くと、その肩に鈴の手がのる。その温もりがなかったら、住処を追われる野生動物のように菫も逃げ出していただろう。
前日、帰りはかなり遅くなってしまった上に、怪我をしていたことで椿にはこっぴどく叱られたけれど、出かける前と違って明るい表情になっている菫を見て、椿はため息交じりに許してくれた。鈴と仲直りしたと告げると『よかったな』と、一言。頭を撫でてくれるその手に、不覚にも涙が溢れてしまった。
だから、その日は久しぶりにぐっすりと安眠できた。
夢も見なかった。
鈴とはいつものコンビニで待ち合わせをしていた。鈴は先についていて、声をかけると、振り返って笑う。その日常が、堪らなく幸せなのだと、実感した。
けれど、その幸せな気持ちは社につくと一変した。
「え? なんだよ。これ……」
境内には重機が入っていた。数人の作業服を着た人たちが何かを話していている。その中に見知った姿を見つけて、菫は駆け寄った。
「あの。どうしたんですか? これ」
振り返ったのは、以前話をした区長だった。
「ああ。あんたか。本当に余計なことをしてくれた……」
菫の顔を見るなり、大きくため息をついて、彼は言った。
「え?」
「昨日、社が崩れたんだって? あんたが下敷きになりかけたって聞いたぞ」
菫の姿を上から下までじっくりと観察してから、大した怪我ではないことを確認して、区長は言った。どこか安心したような表情だ。その安堵が菫の無事に対してなのか、無事だった菫が責任問題を騒ぎ立てるようなことがないからなのかは分からない。
「や。でも、大した怪我してないです。ちょっと擦りむいたくらいで。大袈裟になってしまったのは、周りの人が心配しただけで……」
昨日の事故のことは、その場にいたものには口止めをしておいた。
菫の怪我は大したことはないし、これからしっかりと整備をすれば危険は減らせると思ったからだ。それに、怪我をしても責任は自分にあるから迷惑をかけないという約束をしていた。もちろん、約束をしていなくてもこの程度のことで大事にしたくはない。
それが、区長に知られているということは、騒ぎを知って警察や救急車はともかく、区長にご注進した輩がいるということだった。
「そう言われてもねえ。梁が崩れたのは事実だろう? あんたは平気だったかもしれないけれど、子供が入っていたらどうなっていたか。元々、取り壊しの案はあったんだ。これ以上崩壊が進んだら、取り壊すと区の話し合いで決まっている。
だから、昨日、正式に許可を出した。ちょうど、近所の解体業者ですぐに動かせる人員がいるっていうからね。何かが起きる前に取り壊すことにしたよ」
地元の解体業者らしい作業員の人たちは紹介されて軽く会釈する。こちらを覗うような眼差しは面倒なことには巻き込まれたくないと言外に言っているようだった。
「待ってください。壊すなんて……再建できる見込みはあるんですか?」
聞きながらも、おそらく返事はNOだとわかっていた。掃除もろくにしてくれない人たちが、社の再建なんて考えてくれているはずがない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「いや。再建って。そんな金どこにあるの? 解体費用だって出してもらうのがやっとなんだよ?
大体、触らなければ、まだいくらかもったはずなのに、あんたのせいで解体しなきゃいけなくなったんだ。文句言いたいのはこっちだってえの」
区長の言葉に菫は反論することができなかった。菫が社に『触らなければ』と、いう言葉が、菫が黒羽に『助けてと言わなければ』と、言われているように思えた。
どちらにせよ、菫が関わったせいで、社は窮地に立たされているのだ。
「でも……あの」
社が完全に壊されてしまえば、幾ら形には拘らないと言っても、黒羽と繋がるのは不可能だと思う。ここは区の所有林だから、一度社がなくなってしまったら、ここに新たに社を建てるのも相当に難しくなる。
別の場所で、作った社はもう、ここのそれとは違う。つまりは、完全に繋がりが切れてしまうのだ。
「もう少し待ってもらえないですか? ちゃんと綺麗にします。子供が入っても安全な場所に……」
ぐるる。と、まるで大型の肉食獣が鳴くような音が松林に響く。重機に火が入ったのだ。
その音が怖かった。
住処を奪われる野生動物は、きっとこんな気持ちなのだ。
自分は無知でどうしていいかもわからないのに、周りはどんどん変わってしまう。立ち止まって考えようとしても、大きな音に大きな力に追い立てられて立ち止まることもできない。そうやって、終わりが見えないほど広かった松林は今やどちらを向いても街や人の姿が見えるような場所に変わってしまった。
言葉を続けることができずに俯くと、その肩に鈴の手がのる。その温もりがなかったら、住処を追われる野生動物のように菫も逃げ出していただろう。
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