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月夕に落ちる雨の名は
18 蝙蝠の羽根を持つ 1
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菫の怪我は大したことはなかった。崩れた梁の下敷きになったというのは本当だけれど、梁と床の間に祭壇が挟まって、その隙間に入り込んだおかげで、ちょっとした傷と頭の上のたんこぶで済んだのだそうだ。少しだけ額を切ったせいで大袈裟に血が出たけれど、縫うほどでもなく、完治すれば傷跡も残らないだろうと医者は言っていたらしい。
ただ、頭を打っていたために文江が心配して、倒れそうな勢いだったので、貴志狼に無理矢理病院に連れてこられた。しかし、CT検査の結果、異常はなし。もちろん、入院する必要もないので、帰っていいと言われて、会計の順番待ちの間、処置室で休ませてもらっていたのだそうだ。それも、傷のせいというより、連日の睡眠不足で、処置の最中に船を漕いていたのを、看護師さんが心配してくれて。の、対応だった。
「ってことは……」
病院に来た経緯を聞き終えて、鈴は気付いた。
「……うあ」
よくよく思い返してみれば、別に葉は菫が重傷だとは一言も言っていない。嘘はついていないのだ。大体、葉からの電話を最後まで聞かず、途中で切ったのは鈴だ。その後も電話を折り返してもいないばかりか、LINEのメッセージすら読んではいない。
だから、勘違いしたのは鈴にも落ち度はある。
けれど、感じる。
明らかに鈴を誤解させようとしている葉の意図。
「……葉さんに嵌められました」
分かっている。葉は菫と鈴のことを心配してくれていたのだろう。だから、これをちょうどいい機会だと思ったに違いない。
けれど、感じる。
悪意のない悪戯心。
時折、葉の背中に蝙蝠の羽根が。黒いしっぽが見えるような気がする鈴だった。
「でも……俺は感謝。かな。おかげで鈴と話せた」
えへへ。と、表現するのが正答の笑顔で菫が言う。ちょっと性質が悪いとは思うけれど、菫が喜んでいるから、怒る気も失せた。きっと、葉は菫が良ければオールOK。という、鈴のスタンスも全部計算ずくなのだ。本当に性質が悪い。
「でも、本当によかったです。怪我大したことなくて。聞いたときは心臓止まると思いました。てか、止まりました」
何にしても、菫は無事だった。多分、ただの幸運ではない。あの狐が何かしたのだろう。本来の力があれば、菫に傷一つつけたりはしなかっただろうことを考えると、その衰弱の度合いが分かる気がした。
「うん。でも。きっと。これが。守ってくれたんだと思う」
そう言って、菫は手を開いた。その手には、銀色の簪が握られていた。
「梁が落ちてきそうになった時にさ。これが見えて、手を伸ばしたんだ。そしたら、ちょうど、隙間に入り込む形になって、助かった」
鈴にはそれが何を意味するのかは分からない。それが、また、少しだけ不安を掻き立てる。
「これな。のぶが、あの人に贈ったものなんだ。きっと、俺を守ってくれたのはあの人だと思う」
菫は、優しくその簪を撫でる。いつの間にか、あの狐のことを普通に『のぶ』と呼んでいる。面白くはない。けれど、おそらくそれは、菫が鈴に対して、まったく負い目がなくなったからなのだと思う。やましい気持ちが全くないから、友達を呼び捨てにするように呼べるのだろう。菫はそういう人だ。
「きっと、これが、のぶと人との繋がりだ。社を綺麗にして、これを正しく置けば、もう一度繋がれるかもしれない。
元氏子の人にも会ったよ? 皆本当は社があんなふうになっているのをいいと思ってるわけじゃなかった。たくさんではないけれど、そんなふうに思ってくれる人がいれば、すぐに消えたりはしないはず。今まで通りってわけにはいかなくても、消えないでいてほしい」
菫の言っている方法が間違っているわけではない。確かに、それで細々とではあるけれど『命』を繋ぐことはできるかもしれない。ただ、それをあの狐が望むだろうか。
鈴は思う。
あの狐は菫が数百年も待ち続けた愛する人だったことに気付いているはずだ。人との繋がりを断って力を失い続けながらも、待ち続けたはずなのに、それでも、菫を連れて行こうとはしなかった。菫が、全てを忘れてほかの人生を歩んでいたからだ。あの狐は、菫と再会したことでもう、生きる意味を失った。
だから、たとえ生きられると言われても、拒絶するかもしれない。
「お節介かもしれないけど。決めたんだ」
ふ。と、寂し気な表情を浮かべて、菫は言う。
まるで、鈴が考えていたことを見透かしているようだった。
「あいつの思い通りになんてなってやらない。あいつがいなくなったら新三や冴夜が泣くんだってこと、知ってるくせに消えていいなんて言うのは許せない。眷属に……家族にしたんだったら、最後まで面倒見るのが当たり前だろ」
菫も気づいてはいるのだ。あの狐が生きる意味を見失っていること。その生きる意味が、自分だったということ。それでもなお、菫は鈴を選んでくれた。その気持ちが愛おしい。
ただ、頭を打っていたために文江が心配して、倒れそうな勢いだったので、貴志狼に無理矢理病院に連れてこられた。しかし、CT検査の結果、異常はなし。もちろん、入院する必要もないので、帰っていいと言われて、会計の順番待ちの間、処置室で休ませてもらっていたのだそうだ。それも、傷のせいというより、連日の睡眠不足で、処置の最中に船を漕いていたのを、看護師さんが心配してくれて。の、対応だった。
「ってことは……」
病院に来た経緯を聞き終えて、鈴は気付いた。
「……うあ」
よくよく思い返してみれば、別に葉は菫が重傷だとは一言も言っていない。嘘はついていないのだ。大体、葉からの電話を最後まで聞かず、途中で切ったのは鈴だ。その後も電話を折り返してもいないばかりか、LINEのメッセージすら読んではいない。
だから、勘違いしたのは鈴にも落ち度はある。
けれど、感じる。
明らかに鈴を誤解させようとしている葉の意図。
「……葉さんに嵌められました」
分かっている。葉は菫と鈴のことを心配してくれていたのだろう。だから、これをちょうどいい機会だと思ったに違いない。
けれど、感じる。
悪意のない悪戯心。
時折、葉の背中に蝙蝠の羽根が。黒いしっぽが見えるような気がする鈴だった。
「でも……俺は感謝。かな。おかげで鈴と話せた」
えへへ。と、表現するのが正答の笑顔で菫が言う。ちょっと性質が悪いとは思うけれど、菫が喜んでいるから、怒る気も失せた。きっと、葉は菫が良ければオールOK。という、鈴のスタンスも全部計算ずくなのだ。本当に性質が悪い。
「でも、本当によかったです。怪我大したことなくて。聞いたときは心臓止まると思いました。てか、止まりました」
何にしても、菫は無事だった。多分、ただの幸運ではない。あの狐が何かしたのだろう。本来の力があれば、菫に傷一つつけたりはしなかっただろうことを考えると、その衰弱の度合いが分かる気がした。
「うん。でも。きっと。これが。守ってくれたんだと思う」
そう言って、菫は手を開いた。その手には、銀色の簪が握られていた。
「梁が落ちてきそうになった時にさ。これが見えて、手を伸ばしたんだ。そしたら、ちょうど、隙間に入り込む形になって、助かった」
鈴にはそれが何を意味するのかは分からない。それが、また、少しだけ不安を掻き立てる。
「これな。のぶが、あの人に贈ったものなんだ。きっと、俺を守ってくれたのはあの人だと思う」
菫は、優しくその簪を撫でる。いつの間にか、あの狐のことを普通に『のぶ』と呼んでいる。面白くはない。けれど、おそらくそれは、菫が鈴に対して、まったく負い目がなくなったからなのだと思う。やましい気持ちが全くないから、友達を呼び捨てにするように呼べるのだろう。菫はそういう人だ。
「きっと、これが、のぶと人との繋がりだ。社を綺麗にして、これを正しく置けば、もう一度繋がれるかもしれない。
元氏子の人にも会ったよ? 皆本当は社があんなふうになっているのをいいと思ってるわけじゃなかった。たくさんではないけれど、そんなふうに思ってくれる人がいれば、すぐに消えたりはしないはず。今まで通りってわけにはいかなくても、消えないでいてほしい」
菫の言っている方法が間違っているわけではない。確かに、それで細々とではあるけれど『命』を繋ぐことはできるかもしれない。ただ、それをあの狐が望むだろうか。
鈴は思う。
あの狐は菫が数百年も待ち続けた愛する人だったことに気付いているはずだ。人との繋がりを断って力を失い続けながらも、待ち続けたはずなのに、それでも、菫を連れて行こうとはしなかった。菫が、全てを忘れてほかの人生を歩んでいたからだ。あの狐は、菫と再会したことでもう、生きる意味を失った。
だから、たとえ生きられると言われても、拒絶するかもしれない。
「お節介かもしれないけど。決めたんだ」
ふ。と、寂し気な表情を浮かべて、菫は言う。
まるで、鈴が考えていたことを見透かしているようだった。
「あいつの思い通りになんてなってやらない。あいつがいなくなったら新三や冴夜が泣くんだってこと、知ってるくせに消えていいなんて言うのは許せない。眷属に……家族にしたんだったら、最後まで面倒見るのが当たり前だろ」
菫も気づいてはいるのだ。あの狐が生きる意味を見失っていること。その生きる意味が、自分だったということ。それでもなお、菫は鈴を選んでくれた。その気持ちが愛おしい。
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