真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

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 そこに立つと同時に、鈴は一息もつくことなく、ノックすらせずにドアを開けた。後から考えれば失礼この上ない。もし、間違って別の人が処置を受けていたなら、平謝りしていたところだ。と、鈴は思う。しかし、部屋が間違いということはなかった。

 処置室の中には誰もいなかった。と、言っても、部屋は完全に区切られているわけではなくて、左右が壁で仕切られているだけで、奥側には扉も壁もなく隣の処置室と繋がっている。ただ、そこには白いカーテンがひかれていて、奥に誰かがいたとしても見えなくなっていた。隣の部屋と思しき場所から人の声。恐らくは医者が看護師に指示を出す声が聞こえた。何と言っているかは聞こえないが、少し切迫しているのが分かる。

「……っ」

 けれど、そんな声は鈴の耳には入っていはいなかった。
 処置用の小さなベッドの上に、菫がいた。眠るように閉じた瞳。頭には包帯が巻かれている。Tシャツの首周りに血のような染みが見えて、心臓が凍り付く。顔色が優れない。

 まるで。

 その先を考えないように、鈴は首を振った。
 足元が覚束ない。
 近づくのが怖い。
 確認するのが怖い。
 しかし、そうやって逃げて、鈴は菫を傷つけた。だから、怯える心を押さえつけるように、足を進めた。

「……菫。さん?」

 頬に触れようと手を伸ばす。
 名前を呼ぶ声は情けないくらいに震えていた。

「……ん? あれ?」

 けれど、返事は呆気ないくらいに簡単に返ってきた。

「……すず?」

 ぱちぱち。と、瞬きしてから、その瞳が鈴を見つける。

「あれ? まだ、夢。見てんの?」

 そう言ってから、菫は身体を起こそうとして、僅かに顔を顰めた。

「菫」

 気持ちよりも先に、身体が動いた。菫に駆け寄って、その身体を抱きしめる。
 確かに感じる体温。柔らかな感触と、汗の匂い。腕の中の人が確かに生きているのだという証のようで、胸が詰まる。

「……鈴。ほんもの?」

 されるがままに腕の中に納まって、菫が呟くように言った。
 その声を聞くのが、酷く久しぶりのような気がして、懐かしさと安堵に喉の奥が熱くなる。

「ごめん。ごめん」

 言わなければならないことはたくさんあったし、本当は菫を気遣うのが先だとわかっていたけれど、こみ上げてくるものが抑えきれなくて、鈴はそれしか言葉にできなかった。

「なんで鈴が謝るんだよ。約束。破ったの俺だろ?」

 ようやく状況が飲み込めてきたのか、菫がそっと鈴の背中に手を回す。それから、あやすようにその手が背中を撫でてくれた。失うのが怖くて、我儘ばかり言っている子供のような自分を、全部包み込んでくれるような優しい声に余計に胸が痛くなる。

「ごめんな。嫌な思いさせて。ホント。ごめん。鈴に嘘を吐こうなんて思ってなかったんだ」

 菫の声も震えているのが分かる。泣いているのだろうか。泣かせてしまったのだろうかと思うと、胸が痛む。
 ずっと、好きでいるのは許して。と。あのLINEメッセージ。菫の思いの全てが詰まっていた。もう、菫の思いは全部。鈴に伝わっている。だから、菫は謝る必要なんてない。

「最初から、ちゃんと、放っておけないって言えばよかった。俺。あいつの嫁になるつもりなんてないけど、何か返したくて」

 菫は悪くない。と、言いたかった。けれど、それは声にならなかった。腕の中にその人がいてくれることが、ありえないくらいの奇蹟に思えて、胸が詰まって言葉にならなかった。それ以上に声に出したら情けない姿を見せてしまうのが怖かった。

「でも。言えなかった……ごめん。鈴に、嫌われたくなかったんだ。ごめん。鈴が、望む、俺で。居られなくて、ごめん。でも。好きなんだ。鈴が……す」

 優しくて柔らかい菫の声が、次第に震えるように、途切れ途切れになる。それを鈴は聞いていた。そんなことまで言わせてしまった自分が情けなかった。情けなくて、もう、それ以上聞いていられなくなって、鈴はその菫の唇を自分のそれで塞いだ。
 驚いたように菫の瞳が見開く。それから、全部受け入れると言っているように、その瞼が閉じる。瞼が閉じるその瞬間、菫色に淡く光る雫が落ちたような気がした。
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