真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

16 菫の鈴 1

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 人を好きになるのに、理由なんていらない。
 好きになってしまったら、多分、時間なんて関係ない。一瞬で好きになることはあるし、何年だって好きな気持ちが変わらない。変われないことだってある。
 その気持ちは理屈ではないし、論理的に説明なんてできない。
 だから、菫のことをどうしてこんなに好きになったのか、鈴には説明なんてできなかった。

 何処が好きなのかは幾つだってあげられる。好きなところをあげはじめたら、時間はいくらあっても足りない。
 いや、一言で済ますこともできる。
 全部。なのだ。

 そして、その思いには代わりになれる物など何もない。
 誰一人として、菫の代わりになれる人なんていないし、どんな理由があったって、菫を奪われたくはない。たとえ、菫がそれを望んでいたとしても。だ。
 鈴は、自分自身のそんな利己的な部分にも気付いていた。気付いていてもどうしようもなかっただけだ。

「……先に」

 呟いて、新三は肩で大きく息をした。
 この狐はその辺でうろうろしているような低級な動物霊とは違う。生きていたものが死んだ成れの果てではなく、こういうものとして世界に発生したれっきとした怪異だ。彼の後ろにある社がまだ形を保っていたとしたら、神使と呼ばれていたものだ。
 それが、鈴の前に膝まづいて動けずにいた。

「先に……奪ったのは……そっちだ」

 圧倒的な力の差に顔をあげることすらままならないはずなのに、少年の姿をした狐はそれでも、顔を上げた。額から汗が流れ落ちる。赤く色づく瞳はそれでも、力を失ってはいない。
 それが、酷く鈴の気に障った。

「あれは。あの人は。黒様の……」

 腹立たしい。
 鈴は思う。
 目の前の随分と小さく見える狐の一言一言が神経を逆なでする。苛立ち紛れに、ほんの少しだけ視線を遣ると、小さな狐は、首を絞められたかのように喉に手をかけてせき込む。
 かは。と、乾いた音。何故は酷く遠く聞こえた。
 それが、とても苦し気なのに、気は晴れない。哀れにも思わない。
 ただ、とても暴力的な感情の渦が、鈴の心の中にあって、それが、命じる。目の前にいる小さな狐がなくなってしまえば、きっと、大切なものを奪われることがないのだ。と。

「……『生きている』意味で、『生きている』価値。『生きている』拠所で、『生きている』歓び。だから……返せ……よ」

 ああ。
 と、鈴はため息を吐く。
 きっと、あの化け狐も同じだ。
 鈴にとっての菫がそうであるように、あの化け狐にとっての菫は理由も分からないくらいの特別な存在なのだ。そして、鈴に見えていたあの化け狐と菫の縁はそれに由来している。

「返せ?」

 声は本当に氷にでもなってしまったかのようだった。
 なんて冷たい声だと。自分自身で思う。思うけれど、遠い。遠いし、血の通った『ひと』の声に戻す方法も、戻る理由も、鈴には見つけられない。
 ただただ、目の前の小さな狐が不快で、どうしようもなく邪魔だと思える。
 だから、鈴は手を伸ばした。

「冗談じゃない」

 きっと、また、こんなことがあるだろう。鈴はずっと危惧していた。これを排除しても、きっとまた別の何かが菫を見つける。

 だったら、どうすればいい?

 どうしようもないほどの暗い嵐が吹き荒れる。ここは本当にあの松林だろうか。ふと、浮かんだ考えが、吹き荒れる感情の渦に飲まれて消えた。次に浮かんだのは菫の笑顔。けれど、それもすぐに遠くなる。

「菫は。あの人は。誰にも……」

 遠くなった菫の笑顔が悲しくて、寂しくて、怖くて、近くに取り戻したくて、奪われたくなくて、見せたくなくて、それにはどうすればいいのか、答えを探す。

「お前。邪魔だ」

 そうして、鈴は答えを出す。
 ただ、持ち上げた片手を、その指先を小さな狐に向ける。心の中にある昏い嵐に命じるだけでいい。征く先はそこなのだと指し示すだけでよかった。
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