343 / 392
月夕に落ちる雨の名は
15 北島鈴 2
しおりを挟む
9回のコールのあと、留守電に切り替わる寸前で、鈴は受話器を取った。
「もしもし」
鈴は低くそれだけを言った。普段からそうなのだが、鈴は電話口で自分の名前を名乗らない。もちろん、防犯上の対策だ。
と。言うのは建前。本当は相手に名前を知られたくなかっただけだ。防犯上以外の、否、正しく犯行を防ぐ目的で。
「もしもし。鈴?」
一瞬間を置いて聞こえてきた声は、しかし、聞き覚えのある声だった。警戒を必要としない人。
「僕だよ」
名乗られなくても、声ですぐに葉だということは分かった。従兄弟の葉ならここの電話番号を知っていてもおかしくはない。
「葉さん?」
その声が何故か切羽詰まった感じに聞こえて、名乗られる前に鈴は思わず聞き返した。
「よかった。スマホの方に電話したけど。出ないから」
スマートフォンの電源は菫がメッセージを送ってきたあの日から切ったままだ。元々、鈴は殆どのLINEを既読スルーしているから、困ることはあまりない。鈴にとっては、スマートフォンが使えない不便よりも、菫から来るかもしれない別れのメッセージとか、菫からもうメッセージが来ないことを確認することの恐怖の方が勝っていたのだ。
「何?」
葉の声色が焦っているように聞こえることには気付いていながら、鈴はわざとそんなふうにそっけなく聞いた。不安になっていることに気付かれたくない気がしたからだ。
「今、川西病院にいるんだけど……」
ざわ。と、感情が波立つ。
病院?
二人の共通のどんな知り合いだとしても、そんな場所にいていい人はいない。
いないのだけれど、その後、葉が告げる相手が、鈴にとって最も聞きたくない名前だと、何故かこの時もう鈴は確信していたように記憶している。
「例の社で。菫君が梁の下敷きになって……。すぐ来……」
葉の言葉を途中に、鈴は叩きつけるように受話器を置いた。葉が告げた名前はやはり、鈴が予想していた、この内容で一番聞きたくない名前だった。
「……菫……さん」
頭の中は真っ白になっていた。
その空白の中に、菫の笑顔がふと、過る。悪意なんて一つもないただただ温かい笑顔。その笑顔に救われて、その笑顔に悩まされた。
鈴でなくても誰にでも菫はそんな優しい笑顔を見せる。そんなことは知っていても、鈴はその笑顔が好きだった。菫が笑ってくれると、寒い日でも少し暖かく感じたし、嫌なことがあっても救われた気がしたし、鈴にとっては窮屈なこの世界で呼吸をすることが楽になった。
もし。
もしも。
それが永久に失われるのだとしたら。
そんなことを考えると、息ができなくなりそうだった。どんどん呼吸が浅くなって、指先が硬直して、冷たくなって、身動きが取れなくなりそうだった。鈴は菫の何一つ諦められはしない。それが、失われるかもしれないと思うだけで動けなくなってしまうのだと気付いた。
「……病院? だって?」
ようやく絞り出した声は酷く掠れていた。まるで、聞いたことがない他人の声のようだ。
すぐに行かないと。と、思うけれど、床に足が張り付いたように動かない。膝が震えているのが分かった。
「社で? は? 意味わかんねえ。なんで?」
あの社に近付くなと、菫に言ったのは、ただの嫉妬からだ。菫と縁を持つあの狐に近付けたくないと思っただけだ。
菫をあちら側のものに近付けたくないのも嘘ではないけれど、あの狐が菫に何かをするとはまったく考えていなかった。善良という名の無遠慮な悪意で他人を傷つける人間よりも、派手で自己主張が強い舞台装置のような嘘で笑いながら人を煙に巻くあの狐の方がよほど信じられると思っていた。あの狐は少なくとも菫を傷つけるようなことはしない。と。
だからこそ、その潔い性質に菫の心が傾くのを恐れたのだ。
「……思い違い……?」
しかし、全ては思い込みだったのだろうか。鈴は思う。
「菫……さん」
いつだって、鈴の行動原理の根底にあるのは菫への想いだ。
菫の方に鈴への思いがなくなったとしても、鈴からの想いが変わることはない。少なくとも、スマートフォンの伝言をオフにしたあの日から後でも、何も変わらない。たとえ、あのLINEのメッセージが別れを告げるものであったとしても、菫がどこかで存在しているなら、鈴の想いは変わらない。ただ、菫が好きだ。
それが、一方的に途切れることなんて、想像もしていなかった。
「もしもし」
鈴は低くそれだけを言った。普段からそうなのだが、鈴は電話口で自分の名前を名乗らない。もちろん、防犯上の対策だ。
と。言うのは建前。本当は相手に名前を知られたくなかっただけだ。防犯上以外の、否、正しく犯行を防ぐ目的で。
「もしもし。鈴?」
一瞬間を置いて聞こえてきた声は、しかし、聞き覚えのある声だった。警戒を必要としない人。
「僕だよ」
名乗られなくても、声ですぐに葉だということは分かった。従兄弟の葉ならここの電話番号を知っていてもおかしくはない。
「葉さん?」
その声が何故か切羽詰まった感じに聞こえて、名乗られる前に鈴は思わず聞き返した。
「よかった。スマホの方に電話したけど。出ないから」
スマートフォンの電源は菫がメッセージを送ってきたあの日から切ったままだ。元々、鈴は殆どのLINEを既読スルーしているから、困ることはあまりない。鈴にとっては、スマートフォンが使えない不便よりも、菫から来るかもしれない別れのメッセージとか、菫からもうメッセージが来ないことを確認することの恐怖の方が勝っていたのだ。
「何?」
葉の声色が焦っているように聞こえることには気付いていながら、鈴はわざとそんなふうにそっけなく聞いた。不安になっていることに気付かれたくない気がしたからだ。
「今、川西病院にいるんだけど……」
ざわ。と、感情が波立つ。
病院?
二人の共通のどんな知り合いだとしても、そんな場所にいていい人はいない。
いないのだけれど、その後、葉が告げる相手が、鈴にとって最も聞きたくない名前だと、何故かこの時もう鈴は確信していたように記憶している。
「例の社で。菫君が梁の下敷きになって……。すぐ来……」
葉の言葉を途中に、鈴は叩きつけるように受話器を置いた。葉が告げた名前はやはり、鈴が予想していた、この内容で一番聞きたくない名前だった。
「……菫……さん」
頭の中は真っ白になっていた。
その空白の中に、菫の笑顔がふと、過る。悪意なんて一つもないただただ温かい笑顔。その笑顔に救われて、その笑顔に悩まされた。
鈴でなくても誰にでも菫はそんな優しい笑顔を見せる。そんなことは知っていても、鈴はその笑顔が好きだった。菫が笑ってくれると、寒い日でも少し暖かく感じたし、嫌なことがあっても救われた気がしたし、鈴にとっては窮屈なこの世界で呼吸をすることが楽になった。
もし。
もしも。
それが永久に失われるのだとしたら。
そんなことを考えると、息ができなくなりそうだった。どんどん呼吸が浅くなって、指先が硬直して、冷たくなって、身動きが取れなくなりそうだった。鈴は菫の何一つ諦められはしない。それが、失われるかもしれないと思うだけで動けなくなってしまうのだと気付いた。
「……病院? だって?」
ようやく絞り出した声は酷く掠れていた。まるで、聞いたことがない他人の声のようだ。
すぐに行かないと。と、思うけれど、床に足が張り付いたように動かない。膝が震えているのが分かった。
「社で? は? 意味わかんねえ。なんで?」
あの社に近付くなと、菫に言ったのは、ただの嫉妬からだ。菫と縁を持つあの狐に近付けたくないと思っただけだ。
菫をあちら側のものに近付けたくないのも嘘ではないけれど、あの狐が菫に何かをするとはまったく考えていなかった。善良という名の無遠慮な悪意で他人を傷つける人間よりも、派手で自己主張が強い舞台装置のような嘘で笑いながら人を煙に巻くあの狐の方がよほど信じられると思っていた。あの狐は少なくとも菫を傷つけるようなことはしない。と。
だからこそ、その潔い性質に菫の心が傾くのを恐れたのだ。
「……思い違い……?」
しかし、全ては思い込みだったのだろうか。鈴は思う。
「菫……さん」
いつだって、鈴の行動原理の根底にあるのは菫への想いだ。
菫の方に鈴への思いがなくなったとしても、鈴からの想いが変わることはない。少なくとも、スマートフォンの伝言をオフにしたあの日から後でも、何も変わらない。たとえ、あのLINEのメッセージが別れを告げるものであったとしても、菫がどこかで存在しているなら、鈴の想いは変わらない。ただ、菫が好きだ。
それが、一方的に途切れることなんて、想像もしていなかった。
0
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。


見ぃつけた。
茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは…
他サイトにも公開しています

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~
みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。
成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪
イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる