真鍮とアイオライト 1

司書Y

文字の大きさ
上 下
329 / 392
月夕に落ちる雨の名は

11 怪物 3

しおりを挟む
 鈴がもう、俺のこと好きでなくなったなら、
 それだけ返事してほしい。

 通知欄には、白猫のアイコンが表示されていた。
 呼吸が止まるかと思った。と。いうよりも止まった。もしかしたら、心臓も止まっていたかもしれない。
 菫の中ではもう、そういうことになっているんだろうか。鈴が『好きではない』と、一言言ってしまえば終わらせてしまえるということなのだろうか。
 もしかしたら、この前に何か言葉があったのかもしれないし、この後に言葉が続くのかもしれない。

 ヴヴ。

 と、音がした瞬間、咄嗟にディスプレイをテーブルに伏せた。そのメッセージの続きを読みたくない。

 ヴヴ。

 と、音が続くけれど、とても表に返すことはできなかった。かわりに殆ど反射的に電源を落とす。

「鈴? どうしたの? 見ないの」

 普段は感情の起伏の少ない鈴の表情が変わったことにきっと、葉はすぐに気づいただろう。少し心配そうな顔で問いかけられて、鈴は俯いた。

「や。別に……」

 声が震えていたかもしれない。
 それくらい、動揺していた。

 白猫のアイコン。菫が以前飼っていたという雄猫の写真。『猫は好きだけれど、この子以外はもう二度と飼えない。飼ってもこの子以上に愛せないから、申し訳ないだろ?』と、冗談ぽく笑っていた。愛情が深い人なのだと、もっと好きになったし、自分もそんなふうに想ってほしいと思った。

 鈴がもう、俺のこと好きでなくなったなら、
 それだけ返事してほしい。

 その人から届いたメッセージがそんな言葉だったことの意味に愕然とする。
 ごめん。という、メッセージに鈴が怯えて逃げている間に、彼は心を決めてしまったのだろうか。鈴が返事をしたら、いや、もしかしたらしなくても、菫の気持ちは終わってしまうんだろうか。
 鈴は思う。
 少し距離を置こうと言ったあの日だって、鈴は一瞬も菫を離すつもりなんてなかった。ただ、嫉妬で心がいっぱいになった自分を菫に見られたくなかっただけだ。人ならざる者すら放っておけない優しい菫を応援できるくらいには冷静になりたかっただけだ。
 けれど、そんな情けない自分に、菫は愛想を尽かせてしまったんだろうか。

「大丈夫? 顔色悪いけど……?」

 いつの間にかそばまで来た葉が顔を覗き込んでくる。
 表情が作れない。

 後悔が押し寄せる。
 あの場所へ行くな。なんて、言わなければよかった。言ってしまったから、菫の意識をあの場所に向けさせてしまった。
 あの場所へ行った菫を、すぐに許せればよかった。そもそも、それを責める権利など鈴にはない。
 菫がメッセージを送ってくれた時、なんでもいい。返事を返せばよかった。せめて、既読をつけることくらいはできたはずだ。
 格好つけずに、嫉妬しているから、あいつに会わないでほしい。と、言えばよかった。きっと、菫は笑って許してくれたはずなのに。

 あんな男に、出会ってほしくなかった。
 因縁なんて見えなければよかった。
 菫が普通の。本当に平凡な。どこにでもいる図書館司書だったなら。

 こんな嵐が自分の中にあるなんて、鈴は知らなかった。

 そして、思う。

 こんなことになるなら。誰にも見せずに、閉じ込めて……。

「鈴……っ」

 葉の声に、鈴ははっとした。

 今、何を考えていた。

 指先が震える。

「ちゃんと。連絡したほうがいい」

 葉の言葉に鈴は首を横に振った。
 もし、あのメッセージの先に、『鈴が別れたいというなら別れる』と、書かれていたら。あの狐に思いが移ってしまったのだと書かれていたら。自分が何をしでかしてしまうか、分からない。

「……でも。もしかしたら、池井君が……」

「黙ってて」

 躊躇いがちな葉の言葉に、鈴は思わず声を荒げた。
 自分の考えてしまったことに寒気がする。
 とてもではないけれど、菫に会うことなんてできない。メッセージを送ることすら恐ろしい。

 以前、葉が言った。

 怪物を倒そうとするものは、その過程で自らが怪物にならぬよう、気をつけなければならない。

 人ならざるものは、人の殻を捨てた分、その欲望に従順だ。狐のようにそう生まれついたものは元々倫理観や善悪の区別など持ち合わせてはいないものが殆どだから、己の心の赴くままに生きている。
 生きて死んだ者の欲望の多くは彼らの残した未練に端を発していて、己の未練をなくすことだけが存在意義になっているものもいる。そこに歯止めはなく、他者に対する配慮はない。
 まるで、今の自分のようだと、鈴は思う。
 人ならざるものを身近で見過ぎた自分は、人ならざるものと同じになってしまったのだろうか。

 夏の夕暮れの生温い風が窓から吹き込んでくる。それは、首筋を撫ぜて、去っていく。
 遠雷。風には夕立の匂いが混じっていた。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

淫愛家族

箕田 はる
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。 事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。 二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。 だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~

みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。 成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪ イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

処理中です...