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月夕に落ちる雨の名は
11 怪物 3
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鈴がもう、俺のこと好きでなくなったなら、
それだけ返事してほしい。
通知欄には、白猫のアイコンが表示されていた。
呼吸が止まるかと思った。と。いうよりも止まった。もしかしたら、心臓も止まっていたかもしれない。
菫の中ではもう、そういうことになっているんだろうか。鈴が『好きではない』と、一言言ってしまえば終わらせてしまえるということなのだろうか。
もしかしたら、この前に何か言葉があったのかもしれないし、この後に言葉が続くのかもしれない。
ヴヴ。
と、音がした瞬間、咄嗟にディスプレイをテーブルに伏せた。そのメッセージの続きを読みたくない。
ヴヴ。
と、音が続くけれど、とても表に返すことはできなかった。かわりに殆ど反射的に電源を落とす。
「鈴? どうしたの? 見ないの」
普段は感情の起伏の少ない鈴の表情が変わったことにきっと、葉はすぐに気づいただろう。少し心配そうな顔で問いかけられて、鈴は俯いた。
「や。別に……」
声が震えていたかもしれない。
それくらい、動揺していた。
白猫のアイコン。菫が以前飼っていたという雄猫の写真。『猫は好きだけれど、この子以外はもう二度と飼えない。飼ってもこの子以上に愛せないから、申し訳ないだろ?』と、冗談ぽく笑っていた。愛情が深い人なのだと、もっと好きになったし、自分もそんなふうに想ってほしいと思った。
鈴がもう、俺のこと好きでなくなったなら、
それだけ返事してほしい。
その人から届いたメッセージがそんな言葉だったことの意味に愕然とする。
ごめん。という、メッセージに鈴が怯えて逃げている間に、彼は心を決めてしまったのだろうか。鈴が返事をしたら、いや、もしかしたらしなくても、菫の気持ちは終わってしまうんだろうか。
鈴は思う。
少し距離を置こうと言ったあの日だって、鈴は一瞬も菫を離すつもりなんてなかった。ただ、嫉妬で心がいっぱいになった自分を菫に見られたくなかっただけだ。人ならざる者すら放っておけない優しい菫を応援できるくらいには冷静になりたかっただけだ。
けれど、そんな情けない自分に、菫は愛想を尽かせてしまったんだろうか。
「大丈夫? 顔色悪いけど……?」
いつの間にかそばまで来た葉が顔を覗き込んでくる。
表情が作れない。
後悔が押し寄せる。
あの場所へ行くな。なんて、言わなければよかった。言ってしまったから、菫の意識をあの場所に向けさせてしまった。
あの場所へ行った菫を、すぐに許せればよかった。そもそも、それを責める権利など鈴にはない。
菫がメッセージを送ってくれた時、なんでもいい。返事を返せばよかった。せめて、既読をつけることくらいはできたはずだ。
格好つけずに、嫉妬しているから、あいつに会わないでほしい。と、言えばよかった。きっと、菫は笑って許してくれたはずなのに。
あんな男に、出会ってほしくなかった。
因縁なんて見えなければよかった。
菫が普通の。本当に平凡な。どこにでもいる図書館司書だったなら。
こんな嵐が自分の中にあるなんて、鈴は知らなかった。
そして、思う。
こんなことになるなら。誰にも見せずに、閉じ込めて……。
「鈴……っ」
葉の声に、鈴ははっとした。
今、何を考えていた。
指先が震える。
「ちゃんと。連絡したほうがいい」
葉の言葉に鈴は首を横に振った。
もし、あのメッセージの先に、『鈴が別れたいというなら別れる』と、書かれていたら。あの狐に思いが移ってしまったのだと書かれていたら。自分が何をしでかしてしまうか、分からない。
「……でも。もしかしたら、池井君が……」
「黙ってて」
躊躇いがちな葉の言葉に、鈴は思わず声を荒げた。
自分の考えてしまったことに寒気がする。
とてもではないけれど、菫に会うことなんてできない。メッセージを送ることすら恐ろしい。
以前、葉が言った。
怪物を倒そうとするものは、その過程で自らが怪物にならぬよう、気をつけなければならない。
人ならざるものは、人の殻を捨てた分、その欲望に従順だ。狐のようにそう生まれついたものは元々倫理観や善悪の区別など持ち合わせてはいないものが殆どだから、己の心の赴くままに生きている。
生きて死んだ者の欲望の多くは彼らの残した未練に端を発していて、己の未練をなくすことだけが存在意義になっているものもいる。そこに歯止めはなく、他者に対する配慮はない。
まるで、今の自分のようだと、鈴は思う。
人ならざるものを身近で見過ぎた自分は、人ならざるものと同じになってしまったのだろうか。
夏の夕暮れの生温い風が窓から吹き込んでくる。それは、首筋を撫ぜて、去っていく。
遠雷。風には夕立の匂いが混じっていた。
それだけ返事してほしい。
通知欄には、白猫のアイコンが表示されていた。
呼吸が止まるかと思った。と。いうよりも止まった。もしかしたら、心臓も止まっていたかもしれない。
菫の中ではもう、そういうことになっているんだろうか。鈴が『好きではない』と、一言言ってしまえば終わらせてしまえるということなのだろうか。
もしかしたら、この前に何か言葉があったのかもしれないし、この後に言葉が続くのかもしれない。
ヴヴ。
と、音がした瞬間、咄嗟にディスプレイをテーブルに伏せた。そのメッセージの続きを読みたくない。
ヴヴ。
と、音が続くけれど、とても表に返すことはできなかった。かわりに殆ど反射的に電源を落とす。
「鈴? どうしたの? 見ないの」
普段は感情の起伏の少ない鈴の表情が変わったことにきっと、葉はすぐに気づいただろう。少し心配そうな顔で問いかけられて、鈴は俯いた。
「や。別に……」
声が震えていたかもしれない。
それくらい、動揺していた。
白猫のアイコン。菫が以前飼っていたという雄猫の写真。『猫は好きだけれど、この子以外はもう二度と飼えない。飼ってもこの子以上に愛せないから、申し訳ないだろ?』と、冗談ぽく笑っていた。愛情が深い人なのだと、もっと好きになったし、自分もそんなふうに想ってほしいと思った。
鈴がもう、俺のこと好きでなくなったなら、
それだけ返事してほしい。
その人から届いたメッセージがそんな言葉だったことの意味に愕然とする。
ごめん。という、メッセージに鈴が怯えて逃げている間に、彼は心を決めてしまったのだろうか。鈴が返事をしたら、いや、もしかしたらしなくても、菫の気持ちは終わってしまうんだろうか。
鈴は思う。
少し距離を置こうと言ったあの日だって、鈴は一瞬も菫を離すつもりなんてなかった。ただ、嫉妬で心がいっぱいになった自分を菫に見られたくなかっただけだ。人ならざる者すら放っておけない優しい菫を応援できるくらいには冷静になりたかっただけだ。
けれど、そんな情けない自分に、菫は愛想を尽かせてしまったんだろうか。
「大丈夫? 顔色悪いけど……?」
いつの間にかそばまで来た葉が顔を覗き込んでくる。
表情が作れない。
後悔が押し寄せる。
あの場所へ行くな。なんて、言わなければよかった。言ってしまったから、菫の意識をあの場所に向けさせてしまった。
あの場所へ行った菫を、すぐに許せればよかった。そもそも、それを責める権利など鈴にはない。
菫がメッセージを送ってくれた時、なんでもいい。返事を返せばよかった。せめて、既読をつけることくらいはできたはずだ。
格好つけずに、嫉妬しているから、あいつに会わないでほしい。と、言えばよかった。きっと、菫は笑って許してくれたはずなのに。
あんな男に、出会ってほしくなかった。
因縁なんて見えなければよかった。
菫が普通の。本当に平凡な。どこにでもいる図書館司書だったなら。
こんな嵐が自分の中にあるなんて、鈴は知らなかった。
そして、思う。
こんなことになるなら。誰にも見せずに、閉じ込めて……。
「鈴……っ」
葉の声に、鈴ははっとした。
今、何を考えていた。
指先が震える。
「ちゃんと。連絡したほうがいい」
葉の言葉に鈴は首を横に振った。
もし、あのメッセージの先に、『鈴が別れたいというなら別れる』と、書かれていたら。あの狐に思いが移ってしまったのだと書かれていたら。自分が何をしでかしてしまうか、分からない。
「……でも。もしかしたら、池井君が……」
「黙ってて」
躊躇いがちな葉の言葉に、鈴は思わず声を荒げた。
自分の考えてしまったことに寒気がする。
とてもではないけれど、菫に会うことなんてできない。メッセージを送ることすら恐ろしい。
以前、葉が言った。
怪物を倒そうとするものは、その過程で自らが怪物にならぬよう、気をつけなければならない。
人ならざるものは、人の殻を捨てた分、その欲望に従順だ。狐のようにそう生まれついたものは元々倫理観や善悪の区別など持ち合わせてはいないものが殆どだから、己の心の赴くままに生きている。
生きて死んだ者の欲望の多くは彼らの残した未練に端を発していて、己の未練をなくすことだけが存在意義になっているものもいる。そこに歯止めはなく、他者に対する配慮はない。
まるで、今の自分のようだと、鈴は思う。
人ならざるものを身近で見過ぎた自分は、人ならざるものと同じになってしまったのだろうか。
夏の夕暮れの生温い風が窓から吹き込んでくる。それは、首筋を撫ぜて、去っていく。
遠雷。風には夕立の匂いが混じっていた。
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