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月夕に落ちる雨の名は
9 Aさんのためにできること 2
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三つ目のロールケーキを完食したところで、菫はフォークを止めた。
「ごちそうさま」
涙はもう、止まっている。
別に腹がいっぱいになったわけではない。五つあったから、残りは椿と祖母が食べればいいと思ったからだ。
そんなことが、考えられる程度には落ち着いていた。
「ん」
菫の『ごちそうさま』に椿は頷いた。
「ありがと」
素直に頭を下げると、椿は持っていたタオルで顔を拭いてくれた。口元を。なのか、涙を。なのかは、判別がつかないくらい顔全体を。だ。ごしごし。と、遠慮なく拭かれて少し痛い。両親が離婚して間もない頃、椿はよくこんなふうに世話をやいてくれた。その頃以来だ。
「……痛いよ」
そう言いながらも、菫は椿の手を避けようとはしない。今はそれくらいが心地よかった。
「菫」
突然、椿は真顔になった。
これから、兄が言うことが、菫にとっては耳が痛くなることだと分かる。大体、予想がつくからだ。
「……わかってる」
だから、言われる前に答える。
「なにが。だ?」
菫が『わかってる』と、答えた意味もおそらく椿にはわかっているだろう。けれど、敢えて彼は菫に聞いてきた。
「……泣くくらいなら。やめろ。って言うんだろ」
なにを。の部分を敢えて省いて菫は返した。
その答えに、椿は大きくため息を吐く。
「別にやめろなんて言わん」
その答えに椿の顔を見ると、椿は少しだけ困ったような表情をしていた。
「普段は人のいうことに逆らわないが、こうと決めたらお前は引かないだろう」
くしゃり。と、頭に手を置いて、椿は続ける。
「正直な話。今すぐでもあんなやつとは縁を切れと言いたい。菫を泣かせるなんて、硫化水素のタンクに落としてやりたい。
でもな。結婚したいとか抜かした時には精神鑑定したほうがいいかとも思ったが。あれは本気だぞ? そのうち、法律改正のために活動を始めるかもしれんくらいには本気だ。
お前は気付いていないかもしれんが……あれは、俺と同じくらいにはお前のことを思ってる。
だから、お前がやめると、自分でいいださんうちはやめろとは言わん」
腕組みをして、難しい顔をして、椿は言った。
そんなふうに思ってくれているなんて、全く想像していなかった。頭ごなしにやめろと言われるのだと思っていた。
「にいちゃん」
けれど、よく考えればわかることだ。椿は、菫が本気で嫌がることなどしない。意見が対立したら、どちらも間違っていないことだとしたら、椿は最後には菫に譲ってくれた。
「だがな。菫。俺にも我慢できんことはある。
お前が泣いているのだけは。どうしても我慢できん。だから、泣くな。泣かんでいいようにしろ。お前が笑っていてくれるなら、俺はそれでいいんだ」
そう言われてはじめて気づく。
きっと、誰よりも菫を心配してくれていたのは、椿と祖母だ。
そんなことにも気付かずに、まるで、この世界に一人だけになった気でいた。
「にいちゃん。俺さ。どうしたらいいか、わかんないんだ」
そう思ったら、無意識にそんな言葉が口から零れていた。
「ごちそうさま」
涙はもう、止まっている。
別に腹がいっぱいになったわけではない。五つあったから、残りは椿と祖母が食べればいいと思ったからだ。
そんなことが、考えられる程度には落ち着いていた。
「ん」
菫の『ごちそうさま』に椿は頷いた。
「ありがと」
素直に頭を下げると、椿は持っていたタオルで顔を拭いてくれた。口元を。なのか、涙を。なのかは、判別がつかないくらい顔全体を。だ。ごしごし。と、遠慮なく拭かれて少し痛い。両親が離婚して間もない頃、椿はよくこんなふうに世話をやいてくれた。その頃以来だ。
「……痛いよ」
そう言いながらも、菫は椿の手を避けようとはしない。今はそれくらいが心地よかった。
「菫」
突然、椿は真顔になった。
これから、兄が言うことが、菫にとっては耳が痛くなることだと分かる。大体、予想がつくからだ。
「……わかってる」
だから、言われる前に答える。
「なにが。だ?」
菫が『わかってる』と、答えた意味もおそらく椿にはわかっているだろう。けれど、敢えて彼は菫に聞いてきた。
「……泣くくらいなら。やめろ。って言うんだろ」
なにを。の部分を敢えて省いて菫は返した。
その答えに、椿は大きくため息を吐く。
「別にやめろなんて言わん」
その答えに椿の顔を見ると、椿は少しだけ困ったような表情をしていた。
「普段は人のいうことに逆らわないが、こうと決めたらお前は引かないだろう」
くしゃり。と、頭に手を置いて、椿は続ける。
「正直な話。今すぐでもあんなやつとは縁を切れと言いたい。菫を泣かせるなんて、硫化水素のタンクに落としてやりたい。
でもな。結婚したいとか抜かした時には精神鑑定したほうがいいかとも思ったが。あれは本気だぞ? そのうち、法律改正のために活動を始めるかもしれんくらいには本気だ。
お前は気付いていないかもしれんが……あれは、俺と同じくらいにはお前のことを思ってる。
だから、お前がやめると、自分でいいださんうちはやめろとは言わん」
腕組みをして、難しい顔をして、椿は言った。
そんなふうに思ってくれているなんて、全く想像していなかった。頭ごなしにやめろと言われるのだと思っていた。
「にいちゃん」
けれど、よく考えればわかることだ。椿は、菫が本気で嫌がることなどしない。意見が対立したら、どちらも間違っていないことだとしたら、椿は最後には菫に譲ってくれた。
「だがな。菫。俺にも我慢できんことはある。
お前が泣いているのだけは。どうしても我慢できん。だから、泣くな。泣かんでいいようにしろ。お前が笑っていてくれるなら、俺はそれでいいんだ」
そう言われてはじめて気づく。
きっと、誰よりも菫を心配してくれていたのは、椿と祖母だ。
そんなことにも気付かずに、まるで、この世界に一人だけになった気でいた。
「にいちゃん。俺さ。どうしたらいいか、わかんないんだ」
そう思ったら、無意識にそんな言葉が口から零れていた。
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