真鍮とアイオライト 1

司書Y

文字の大きさ
上 下
320 / 392
月夕に落ちる雨の名は

9 Aさんのためにできること 2

しおりを挟む
 三つ目のロールケーキを完食したところで、菫はフォークを止めた。

「ごちそうさま」

 涙はもう、止まっている。
 別に腹がいっぱいになったわけではない。五つあったから、残りは椿と祖母が食べればいいと思ったからだ。
 そんなことが、考えられる程度には落ち着いていた。

「ん」

 菫の『ごちそうさま』に椿は頷いた。

「ありがと」

 素直に頭を下げると、椿は持っていたタオルで顔を拭いてくれた。口元を。なのか、涙を。なのかは、判別がつかないくらい顔全体を。だ。ごしごし。と、遠慮なく拭かれて少し痛い。両親が離婚して間もない頃、椿はよくこんなふうに世話をやいてくれた。その頃以来だ。

「……痛いよ」

 そう言いながらも、菫は椿の手を避けようとはしない。今はそれくらいが心地よかった。

「菫」

 突然、椿は真顔になった。
 これから、兄が言うことが、菫にとっては耳が痛くなることだと分かる。大体、予想がつくからだ。

「……わかってる」

 だから、言われる前に答える。

「なにが。だ?」

 菫が『わかってる』と、答えた意味もおそらく椿にはわかっているだろう。けれど、敢えて彼は菫に聞いてきた。

「……泣くくらいなら。やめろ。って言うんだろ」

 なにを。の部分を敢えて省いて菫は返した。
 その答えに、椿は大きくため息を吐く。

「別にやめろなんて言わん」

 その答えに椿の顔を見ると、椿は少しだけ困ったような表情をしていた。

「普段は人のいうことに逆らわないが、こうと決めたらお前は引かないだろう」

 くしゃり。と、頭に手を置いて、椿は続ける。

「正直な話。今すぐでもあんなやつとは縁を切れと言いたい。菫を泣かせるなんて、硫化水素のタンクに落としてやりたい。
 でもな。結婚したいとか抜かした時には精神鑑定したほうがいいかとも思ったが。あれは本気だぞ? そのうち、法律改正のために活動を始めるかもしれんくらいには本気だ。
 お前は気付いていないかもしれんが……あれは、俺と同じくらいにはお前のことを思ってる。
 だから、お前がやめると、自分でいいださんうちはやめろとは言わん」

 腕組みをして、難しい顔をして、椿は言った。
 そんなふうに思ってくれているなんて、全く想像していなかった。頭ごなしにやめろと言われるのだと思っていた。

「にいちゃん」

 けれど、よく考えればわかることだ。椿は、菫が本気で嫌がることなどしない。意見が対立したら、どちらも間違っていないことだとしたら、椿は最後には菫に譲ってくれた。

「だがな。菫。俺にも我慢できんことはある。
 お前が泣いているのだけは。どうしても我慢できん。だから、泣くな。泣かんでいいようにしろ。お前が笑っていてくれるなら、俺はそれでいいんだ」

 そう言われてはじめて気づく。
 きっと、誰よりも菫を心配してくれていたのは、椿と祖母だ。
 そんなことにも気付かずに、まるで、この世界に一人だけになった気でいた。

「にいちゃん。俺さ。どうしたらいいか、わかんないんだ」

 そう思ったら、無意識にそんな言葉が口から零れていた。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

幸せの温度

本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。 まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。 俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。 陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。 俺にあんまり触らないで。 俺の気持ちに気付かないで。 ……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。 俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。 家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。 そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~

みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。 成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪ イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

処理中です...